雨蛙

メトシミウム

雨蛙

 カエルが踏み潰される音がした。

 重い頭を机から引き剥がしてあたりを見回すと、香子が目を見開いてこちらを見つめていた。机を挟んで向かいに座っている。カエルはどこにもいない。

「あれ? カエルは? 今、このへんにカエルがいなかった?」

「なに寝ぼけてんのよ。私の声よ。あんたが急に起きるもんだから、びっくりして声が出ちゃったの」

 カエルと間違えるなんて失礼だ、と香子は駄洒落を言いながら怒った。

 六月。外は雨が降っている。私は放課後の教室で、父親の迎えの車を待っていた。香子は私の体調を心配して一緒に居残りしてくれたのだが、どうやら私は机に突っ伏して、一人で気持ちよく寝てしまったらしい。

「今何時?!」慌てて自分のスマホを探す。

「はい、これ」

 香子からスマホを受け取って時間を確認すると、約束の時間にはまだ余裕があった。

 ほっとして胸を撫で下ろす。平日の夕方に車で迎えに来てほしい、という無茶な要求を、父親は嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。それを私が台無しにするわけにはいかない。

「沙良」香子が意地の悪い笑みを浮かべた。

「ん?」

「当ててあげようか」

「何を?」

「あんた、どうせまた深夜アニメでも見てたんでしょ」

「う」

 図星だった。自分で言うのもあれだが、私は重度のアニメオタクだ。放送中のアニメは、全部リアルタイムで追わないと気がすまないのだ。

「オタクの悲しい習性というやつです」

「あれでしょ? 城崎郁斗しろさきいくとだっけ?」

「おお! ついに香子が、私の推しの名前を覚えてくれた」

「こんだけ聞かされれば覚えるわよ」

 城崎郁斗は私が大好きな声優さんだ。彼が出演しているアニメは、見るだけではなく必ず関連イベントにも足を運ぶようにしている。

「この前、彼の顔を初めて見たわ。想像してた顔と違って、ちょっと驚いたけど」

「へぇ。どこで見たの?」

「ネットの動画よ」

 その言葉を聞いた瞬間、私は思わず両手で口を塞いだ。

 胃液が逆流し、胸まで込み上げる。内側から内臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚える。

 香子は私の異変に気がつかない。

「何かのネットニュースだったかな。新作のアニメ映画の試写会で出演者が舞台上に並んでたんだけど、私、別の人を城崎郁斗だって勘違いしちゃってさ。あんたの話と名前から、きっとこういう顔に違いない、ってイメージが出来上がってたみたい。思い込みって怖いわよね」

 香子の言葉が頭の中で反響する。強い衝撃で脳みそが揺れ、頭蓋骨が割れそうになる。粘性のどす黒い液体が皮膚の下に充満し、鳩尾に向かって私を圧縮していく。

 苦しい――

 苦しい――

 誰か、助けて――

「沙良!」

 香子が叫ぶのと、私が床に倒れるのはほぼ同時だった。

 間一髪のところで香子が支えてくれたおかげで、私は頭をぶつけずにすんだ。

 香子に膝枕される形で、私は彼女と見つめあった。茶色い瞳が心配そうに私を覗き込む。

「ごめん、気がつかなくて」

「ううん、私こそ、いつもごめんね」

「やっぱりあの交通事故のせいだよね?」

 交通事故――

 確かに香子の言うとおり、こうなった原因のひとつには、最近学校の近くで起きたあの交通事故が関係している。だが、それは間接的な理由に過ぎない。おおもとを正せば、私の特異体質がすべて悪いのだ。

 私は目をつぶって、自分の子供時代を思い返した。


 もともと私は病弱な子供だった。小学校の思い出はほとんどが保健室のもので、一年のうち、体調が良い日のほうが珍しいくらいだった。

 両親は心配して、私をたくさんの医者に診せてくれたけど、言われる言葉はどこもだいたい変わらなかった。

「貧血ですね」

「運動不足では」

「感受性が高いんでしょう」

 特定の病名がつかない体調不良は皆扱いに困るらしく、高校生になるころには『そういうもの』として、特に病院に行くようなこともなくなり、この体質は私の人生の一部になった。私自身、望んでこの体質になったわけではないから、特に負い目を感じる必要はないのだけど、ひとつだけ両親に対して申し訳ないと思うことがあった。

 私はこの体調不良の原因を知っている。それを両親に話せないでいた。


 私は人の死を追想できるのだ。


 できる、というとなんだか自分から進んでやっているように聞こえるけど、実際には勝手に追想してしまう、といったほうが正確かもしれない。

 最初は火事で焼け死んだ人の記憶だった。築九十年の古いアパートで、一人のおばあさんが焼死した。放火か失火かは不明。建物が全焼する大火事になって、地元では話題になった。

 私はそれを新聞の記事で読んだ。小学校の宿題で、気になる新聞記事を一人ずつ紹介する、という課題だった。事件現場が家から近かったこともあり、私は直接現地に赴いて発表用の原稿を作ろうとした。

 アパートの焼け跡の前で、私は燃えた。

 実際には火は出なかった。けれど、あのとき間違いなく私は燃えていた。皮膚が剥がれ、呼吸をすると肺が焼けた。心臓を直接火にくべられるような苦しみを、私はその身に味わった。

 それ以来、私は幾度となく他人の死を追体験するようになった。

 ビルの飛び降り。

 線路への飛び込み。

 首を吊ったり。

 刃物で刺されたり。

 海で溺れ死んだりもした。

 色々な死を経験する中で、いくつかわかったこともあった。それは、死に関する情報が多ければ多いほど、追想がより鮮明になるということ。死んだ人の顔や名前、生年月日などを知っていると、追想したときの苦しみがより現実感をもって感じられるようになった。特に、その人が死んだ現場に近づくのは最悪の行動で、そのせいで丸一週間も寝込んだことがある。

 だから、高校の近くで交通事故が起きたのを知ったときは、しばらくの間学校に行くのをやめようかと本気で考えた。


 その事故は一ヶ月前に起きた。

 私の通う高校は、緩やかな坂の上にある。最寄り駅から住宅街を抜けて正門までは真っ直ぐな一本道で、車も通れないことはないけれど、道に慣れている地元のドライバーは、軽自動車以外はなるべくその道を避けて走る。そんな通学路だった。

 その道で事故は起きた。人が一人死んだと聞いた。

 もちろん私は体質的に、死の情報を積極的に収集するわけにはいかないから、事故の起きた現場だけを香子から聞いて、登下校のときは時間が掛かっても回り道をするようにしていた。

 ちなみに、香子だけは私の秘密を知っている。両親にも打ち明けられない秘密を、なぜか香子には話すことが出来た。彼女は私を気遣い、色々と協力してくれた。

 今回の件も、香子と二人なら乗り越えられる。

 私はそう考えていたのだが――


「あいつら、絶対許さない」

 ゆっくり目を開けると、香子は悔しそうに唇を噛んでいた。

「ごめんね、私のせいで」

「どうして沙良が謝るのよ。悪いのは全部あいつらでしょ。あんな最低な動画を教室で流すなんて、本当にありえない」

 あいつら、とはクラスの男子たちのことである。

 つい先日、教室でとある動画が流された。休み時間に一部の男子が集まって、誰かのスマホでその動画を鑑賞していた。

 人気の動画配信者が投稿した動画だった。彼らは複数人で活動しており、動画の内容が過激なことで話題を呼んでいた。


 はい、今日は幽霊が出ると噂の事故現場に来ています――

 この道路はね、近くに学校もあるみたいでね、通学路になってるんですね――

 題して、素人でも除霊はできるのか――

 さっそく、やっていきたいと思います――


 悪趣味な動画だった。人の死を悼む気持ちを持ち合わせず、それでいて自らの幼稚さにも気がつかない、恥ずかしい人たちだと私は思った。思ったが、動けなかった。気づくのが遅かった。あの事故の内容だと認識したときには、すでに体が動かなくなっていた。

 運の悪いことに、男子たちは私の席の隣で動画を見ていた。たまたまそのとき、香子も教室にいなかった。

 為す術なく、ただ無力に私は死を追想した。内臓が引きちぎられ、不格好な粘土細工のように私の体は折れ曲がった。

 薄れゆく意識の中、私は笑い声を聞いた。

 彼らは降霊術の真似事をして、事故を再現しようとしていた。


 ああっ、苦しいっ、苦しいっ、苦しくて潰れちゃうよーん――

 いや、踏み潰されたカエルかよ――


「カエル」私は呟く。

「え?」

 彼らは事故で死んだ人を潰れたカエルに例えていた。

 私はついさっきまでそれを忘れていた。忘れていたつもりだった。

 でも――

「ううん、なんでもない。それよりさ、雨が強くなってきたから、香子も早く帰って。遅くまで本当にごめんね」言いながら、立ち上がる。

「帰れって……。大丈夫なの?」

「うん。ちょっと横になったら楽になった。それに、父親ももうすぐ迎えに来るし」

 時間を確認すると、約束の時間の十分前だった。

 私は香子と二人で下駄箱まで行き、先に彼女を見送った。花柄の傘が雨の中揺れる。

 別れ際、香子が不思議なことを言った。

「大丈夫、きっと良いことあるって。もしかしたら、サプライズがあるかもよ」

 不適に微笑む彼女の真意を考えながら、私は父親の到着を待った。


 香子を見送ってからほどなくして、父親はやってきた。

「もー、雨、最悪。本当、迎えに来てくれてありがとう」

 助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。エンジンの心地良い振動を感じつつ、私は幽霊の存在について考えた。

 幽霊。人が死んだあとに残る魂のようなもの。

 おかしな話に聞こえるかもしれないが、実は私は幽霊の存在を信じていない。自分がこれまで、数え切れないほど人の死を追体験しているにもかかわらず、なぜか幽霊の存在は認めたくなかった。

 問題を自分の中で完結させたい、という思いがあった。簡単に言えば、私は病人でいたかった。今はまだ、世間ではあまり知られていないだけで、私みたいな悩みを持つ人は意外にたくさんいるかもしれない。今はまだ、原因がわからないけど、将来的には医者が薬を出すだけで治るような、そんな病気であってほしかった。幽霊などという非現実的なものを持ち出して、これ以上問題を複雑にしたくなかった。

 ポケットの振動で我に返る。スマホに着信があったみたいだ。

「誰だろう?」

 画面を見て私は息を飲んだ。


 城崎郁斗――


「嘘」

 声優の城崎郁斗からの着信だった。どうして私に?

 驚きと喜びと不審がブレンドされた気持ちで、私は電話に出た。

「もしもし」

「今どこ?」

 声に違和感を覚える。違う。彼じゃない。けれど、どこかで聞いたことのある声だった。

「あの、すいません。どちら様ですか?」

「何言ってるんだよ。今日は迎えに行く約束だろう?」

「え?」

 私は戦慄した。冷たい蛇が私の首元に巻きついたみたいだった。

 嘘だ。そんなはずはない。

「……お父さん?」

「今、正門の前についたから。教室にいるなら降りてきて」

 そのあとも、電話の向こうでは何かを言っていた。でも、私の耳には届かない。

 そういえば――

 教室で私が目を覚ましたとき、香子はやけに驚いた顔をしていた。

「……サプライズ」

 あのとき、私は時間を確認するために、香子からスマホを受け取った。冷静に考えればおかしいではないか。なぜ、香子が私のスマホを持っているのだ。きっと彼女は、私が寝ている間にイタズラして、父親の登録名を城崎郁斗に変えたに違いない。

 では、この電話の相手は本物の――

 震える。全身が震える。脊髄に液体の氷を注射されたように、私の体は震えた。

 香子の言葉をもうひとつ思い出す。


 思い込みって怖いわよね――


 ああ、そうか。私は思い込んでいた。勘違いをしていた。

 交通事故と聞いて、勝手に通行人が死んだと都合よく解釈していた。

 死んだのは通行人ではなく、運転手のほうだ――

 気がつくと、車はあの通学路に入っていた。緩やかな坂を下る。下る。スピードが上がり、景色が後ろに溶けていく。

 追想が始まり、私は体の自由が利かなくなった。腕が折れ、膝が潰れ、腹に穴が空いた。黒い血が全身から流れ出て、六月なのにとても寒く感じた。

 残された力を振り絞り、運転席を振り返ると、そこには――

 カエルが踏み潰される音がした。

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雨蛙 メトシミウム @metosimiumu

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