第50話 雨宿り

大学から駅までの道を歩いていると、雨がポツリと落ちてきた。

空を見上げれば、梅雨らしいどんよりとした灰色の雲。

そういえば朝、出がけにみゃーが「傘を持っていった方がいいよ」と言っていたけど、私は天気図を見て「いらぬ!」と答えたのでした。

なんのなんの、これしきの雨、傘などいらぬ。

なんて余裕をかましてゆっくり歩いていると、あれよあれよという間に本降りになってきた。

ここから駅への道を少し横にれれば市場がある。

うむ、雨宿りすれば傘などいらぬのだ。

私はその、古くて懐かしい匂いのする市場に駆け込んだ。

「今日は買い物ではありませんが……」

少し遠慮がちにそう呟いて、市場の奥へと進む。

何度も立ち寄ったことのある場所だから、迷うことなく魚屋さんの前に着く。

スーパーにしろ市場にしろ、私はお魚売り場を見るのが好きだ。

ここは海から遠いので、あんまり珍しい魚も無いけれど、それでも大小様々な魚が並んでいるのは見ていて飽きない。

時間潰し、雨宿りにもってこいなのです。

「まいどぉー」

魚屋の大将が威勢のいい声を上げたものの、私だと気付くと苦笑を浮かべる。

大歓迎とは違うけど、歓迎とやれやれの中間くらいの表情だ。

「今日はみゃーちゃんは?」

「財務大臣は不在ですが」

「そっかぁ、冷やかしかぁ」

ただ、はなっから客扱いされていないようではある。

まあ、みゃーと二人で来ても、買い物はみゃーに任せっきりで私は魚を見てるだけ、なんてことが頻繁ひんぱんにあるから、大将にしてみれば客とは言い難いのだろう。

「いい鮎が入ってるんだけどなぁ」

確かに、私がまだ釣ったことのないような、なかなか型のいい鮎が並んでいる。

「死んだ魚のような目をしているのにこの値段は!」

「いや、死んだ魚だし」

私は視線を上げる。

売り場の背後には大きな水槽があって、カンパチらしき魚が泳いでいる。

「あー、コイツらは生きてるね」

「じきに殺されますが」

「いや、まあ……」

「何故か売られていく子牛がまぶたに浮かび、聞き覚えのあるメロディーが頭に──」

「やめてタマちゃん! こっちも商売だから!」

私は思わず笑顔になる。

「まいったなぁ」

どうしてだか、大将は困った顔をして頭を掻いた。

いったいいつからだろう。

そばに孝介さんもみゃーもいないのに、気が付けば色んな人と普通に会話している。

いや、普通の会話どころか、軽口を叩いたり、値切ったりすることもある。

昔は自分のことが好きになれなかったけれど、今の自分は嫌いではない。

「では、次は青果店を冷やかしてきます」

青果店のオバチャンも顔馴染みだ。

今年、小学生になったオバチャンの孫は、もう学校に慣れただろうか。

「あ、タマちゃん、ちょっと待って」

大将に呼び止められる。

「これ、総理大臣に」

何か入った袋を差し出された。

みゃーが財務大臣なら、孝介さんは総理大臣なのだろう。

大将が私達三人の関係をどこまで理解しているのかは判らないし、説明したことも無いが、少なくとも否定や嫌悪では無いようだ。

「中身はなんですか?」

「マグロの刺身。他のお客さんには内緒な」

「グロい刺身ですか?」

「マグロの刺身!」

私がまた笑うと、大将はまた頭を掻いた。

角刈りっぽい髪型に、ねじり鉢巻はちまきがよく似合う。

「大将、今度、魚を釣ったら持ってきますね」

「いや、うち魚屋だけど!?」

市場の魚屋さんは、何も買わなくてもフレンドリーなのです。


色んな匂いが入り混じった、市場の中をてくてく歩く。

魚、肉、野菜、果物。

それから、寂れた空気と、どこか懐かしいような活気。

スーパーには無い仄暗ほのぐらさと、オッチャンオバチャンの掛け声。

果物の匂いが強くなってきた。

農家である私達は、青果店で野菜を買うことは少ないが、果物はそれなりに買う。

顔馴染みのオバチャンにペコリと頭を下げて、色とりどりの果物を観賞する。

「タマちゃん、雨宿りー?」

……商品を見ているのに、真の目的を見抜くオバチャンは只者ではない。

「余り物の傘ならあげるよー」

青果店なのに傘を貰ってしまいました。

さすがに何か買わねばと思うが、財布の中には帰りの汽車賃とジュース代くらいしか入っていない。

何か安い物は無いかと物色する。

「オバチャンこれなんぼ?」

「あー、それもう旬が過ぎちゃってるからねぇ、タダでいいよ」

タダになってしまいました。

私は値切る天才かも知れません。

「重いけど我慢してねー」

袋に入った三個の夏みかんを受け取る。

その重さと香りに、自然と笑顔がこぼれてしまう。

「うちの孫が高校生になる頃には、タマちゃんはベテラン高校教師でしょ? 賄賂よ、賄賂」

どうやら私は、賄賂を受け取ってしまったようだ。

ニヤリと笑うオバチャンは、ニヤリと笑っても人の良さが滲み出ていて、蜜柑色のエプロンがよく似合う。

「オバチャン、今度、野菜を収穫したら持ってきますね」

「いや、うち八百屋だよ!?」

市場の青果店は、何も買わなくてもフレンドリーなのです。


傘を差して駅までの道を歩く。

重たくなった鞄が肩に心地いい。

笑顔を貰って、笑顔になって、家に帰れば、孝介さんとみゃーを笑顔にするのだ。

雨宿りの後は、雨が少し優しくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る