第42話 空と月
いろはさんのお陰で、少しは残っていた不安な気持ちも消えた。
私にはかけがえの無い夫がいて、かけがえの無い友人がいる。
過去がどんなものであろうと怖れる必要は無いし、自分を産んだ人がどんな人であったか、それが判ればそれでいい。
その結果次第では、自分が薄情で冷たい人間だから母を忘れていた、という答に辿り着くけれど、今の私は、ちゃんと人を愛して、絶対に忘れることの無い人間関係を築いていると自信を持って言える。
「ちょっと聞きにくいことではありますが」
父の書斎で話を切り出す。
お母さんの前では話しにくい事柄だ。
父にはあらかじめ電話で用件を伝えていたからか、ゆっくり
「あなたが
「言い方!?」
柔らかな表情が崩壊した。
「えっと、あなたが子供を産ませて捨てた女性について?」
「いや、捨てたわけでは」
「まあ、何にせよ、その愛人さんと言うべきか、お
「美月、遠慮しなくていい」
「え? 寧ろ私は言いたいように言っていますが?」
だいたい、父にこんな軽口が叩ける日が来るなんて、夢にも思わなかった。
母には、まだどうしても遠慮してしまうけれど。
「台所で晩御飯を作っている、もう一人の母さんのことは気にしなくていい」
「……」
「お前の本当の母親のことなんだ。お母さんと呼べばいいんだ」
お母さん……うん、そう呼ぶのが正しいのだけど、何故か抵抗があった。
それは、育ててくれた母に対する遠慮だけじゃなくて、本当の母を忘れている自分自身の問題でもある。
こんな私が、お母さんと呼んでいいのか。
「最近の美月は、あいつに似てきた」
「え?」
「顔は以前からよく似ていたが、仕草や表情までそっくりだよ」
「それは、私を愛人のように見てしまうということですか?」
「違うわっ! あ、いや、そういう冗談を言うところも、あいつに似てると言えるかも知れん」
「なんと、母は偏屈で強情で我儘でおかしな人だったのですね」
父が笑う。
こんな風に、屈託なく柔らかに笑う人だとは知らなかった。
そしてその笑顔を、少し寂しげに歪めて言う。
「……絶対に産むと言って譲らない強情さと、絶対に援助を受けず一人で育てるという我儘を貫いて、私に迷惑をかけず、弱音を一言も吐かないという強くて優しい人だった」
「……」
「お前も、そうだった」
「私が?」
「この家に来たときから、お前はただの一度も、お母さんに会いたい、こんな家は嫌だ、帰りたいとは言わなかった」
「……」
「まだ五歳だったのに、私達に迷惑をかけまいとする、強くて優しい子だった」
奥深くに眠っていた、記憶の
五歳の私は、母の死を理解していた。
泣いても訴えても会えないことを、私は知っていた。
「我儘を言わないという我儘をお前は貫いてしまったから、私達は、それに甘えてしまった」
私は、
もっと両親を困らせたなら、両親にも私を甘えさせる余地が生まれたのかも知れない。
「まあ何にせよ、全てを狂わせた根源は私だ」
そう言いながらも、父の顔はどこか穏やかだ。
以前は自分の責任だと苦渋に満ちた表情をしていたこともあった。
でも今は、全てが吹っ切れたような清々しさを漂わせているようにも見える。
「浮気をしたことは過ちだろうし、お前との接し方も過ちの連続だった。でも、私は最大の過ちを犯さずに済んだ」
「……?」
書斎の匂い。
幼い頃、入りたくても恐くて入れなかった部屋。
父は、本に埋もれたその部屋を見渡してから、愛し子を見るような目を私に向けた。
「生まれてきてくれて良かった」
そう言って息を吐き、深く椅子に身体を沈めた。
まるで、いちばん言いたかったことを言い終えたみたいに。
……父は、私の全てを肯定した。
夕食後、父から古いノートパソコンと、小さな木箱を渡された。
私はそれを、かつての自室に持ち込んで、一人静かに見ていくことにした。
ノートパソコンの中身は母の写真や映像であるらしく、木箱には腕時計や指輪などが入っていた。
恐らくは形見となるものだけど、私には実感が湧かない。
母には身寄りが無かったらしいし、お墓も父が建てたみたいだから、母が大事にしていたものも父が引き取って保管していたようだ。
それにしても、本来なら浮気の証拠になるようなものは残したくない
もしかしたら父は、浮気というより真剣な恋愛感情を持っていたのかも知れない。
そしてそれを今に至るまで隠し持っていたのは、やはりいつかは私に渡そうと考えていたからだろう。
それは、妻に対する造反であり、私や母に対する
父は父で多くのものを背負い、その上で、今の私の生を喜んでくれているのだ。
私は、骨董品のような古いノートパソコンの電源ボタンを押す。
良かった、ちゃんと作動音がする。
少しイライラしながら立ち上がるのを待つと、古いOSのロゴが画面に表示される。
中の写真や映像も、きっと普及し出した頃のデジカメで撮ったものや、あるいはアナログ撮影したものを、デジタル変換して保存したのだと思う。
メモリーカードにコピーしたものを渡してくれればいいのに、と思わないでもないが、もしかしたら、このノートパソコン自体が父と母の思い出の品なのかも知れない。
ハードディスクドライブは30GB。
当時としては高級機種だったに違いない。
今の画像や映像なら、すぐに埋まってしまう容量だが、その頃はこれで事足りたのだろう。
Cドライブを開く。
表示されるフォルダは、たった一つ。
『美空』。
母の名だ。
「みそら」
私はその名前を声に出してみた。
私はお空に生まれた月なのかな。
「お母さん」
そう呼んでみても、やっぱり実感は湧かないけれど、私はそのフォルダをダブルクリックした。
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