第40話 いろはさんととっておき

いろはさんと一緒に汽車に乗る。

実家に帰るためだから下車駅も同じで、数時間の間、いろはさんと二人きりだ。

昨日は予想通りの雨、せっかく晴れた今日は、いろはさんの予定もあって昼前には出発しなきゃならないというのは残念だけど、こうしてまだしばらくは一緒にいられる。

ガタンゴトンと、レールの継ぎ目を拾う音。

小気味良く揺れる車内はポカポカと暖かく、窓からは眠りに誘う春の日差し。

「多摩さん」

いろはさんの声は、どこか遠慮がちだ。

今日も化粧は薄いので、ちょっと気弱な女の子に見える。

「えっと、孝介サンから聞きました」

「……私のトンデモ性癖をですか?」

「違いますっ!」

ディーゼルの音に負けない大きな声だ。

微かにガソリンの匂いが漂ってくるけれど、私はそれが嫌いではない。

「冷たいって言ったこと、謝ります」

ショボンとすると人は小さく見えるものですが、乳魔人の乳は相変わらず自己主張が激しい。

薄手のセーターが、汽車の揺れにさえ呼応こおうしているように見える。

「冷たいなんて言われ慣れていますが」

「いえ、でも」

「何を隠そう、大学では氷点下の女王と呼ばれたりします」

「……多摩さんに、そんな呼称は似合わないっす」

「ふふふ、冷たい魔闘家美月、冷たい妖戦士タマか、などとも呼ばれているのですよ」

「嘘を言わないでください! それに、美しい魔闘家鈴木、強い妖戦士田中っしょ!? 鈴木が美月で田中がタマかってなんすか!」

「もう少し待とうか鈴木、そんなんようせんし田中」

「はあ!? 上手く言ったつもりっすか!」

「あ、いえ、上手く言ったつもりはありませんが……なぜ嘘だと?」

「そんな古い漫画のネタ、今の大学生が言うわけないっす!」

「……」

確かに、孝介さんの部屋の本棚にあった漫画でしたが。

「それはともかく、ごめんなさい」

いろはさんが頭を下げる。

「いえ、私の方こそ──」

「でも!」

「……でも?」

「あたしも誤解してましたが、多摩さんも誤解してるっす」

「誤解?」

「あたしが怒ったのは、自分がほったらかしにされたという誤解もありましたけど、それだけじゃなくて、多摩さん自身が自分をほったらかしにしたからっす」

「……意味が判りませんが?」

「多摩さんはたぶん、自分はいてもいなくても影響は無いって、そんな風に考えてませんか?」

「……だって、みゃーがいるし?」

「だからそれっす! あたしは、美矢と多摩さんに会いに来たんす! 美矢だけじゃないっす!」

「孝介さんは?」

「いや、もちろん孝介サンもですけど、あたしは三人に会いたかったんす! だから、出掛けるなら一緒に、サプライズ出来ずに残念だったなら、それも一緒に!」

「りょ、了解です」

「……多摩さん、口下手っすね」

「ど、どこがですか?」

「そんな素っ気ない返事をしてたら怒る人もいるでしょうが、顔が真っ赤なので判りやすいっす」

「何を隠そう、私は大学では赤鬼のタマちゃんと呼ばれ、一部の女子から恐れられ──」

「はいはい、可愛がられてるんすね」

「……」

窓から射し込む日差しで、ほおが熱いのです。

ガタンゴトンと汽車は揺れて、それに合わせるように私の心もはずむのです。


途中で新幹線に乗り換える。

私は大人の女だけど、何故か心は少年のようにワクワクする。

入線してきた車両の先頭は、勇ましくとがって──

「いろはさん、生チンコは見たことありますか?」

幸い自由席は空いていた。

残念ながら先頭車両ではないけれど、まあ乗ってしまえばどこでも同じか。

「そりゃ、生チョコくらい食べたことだってありますよ」

なかなか返事が無いなと思っていたら、動き出すのを待っていたかのように答が返ってきた。

なるほど、停車中は静かだけど、走行中なら他人に話は聞かれないという判断だろう。

「マジですか。なかなかやりますね。しかしアレは、決して美味しいものではありませんね」

窓の外の景色が、どんどん流れていく。

「そ、そっすかね? あたしはけっこう好きっすけど」

「しょっぱいような生臭いような……のどに引っ掛かりますし」

「そ、そっすか? 甘くてとろけますし、落ち着く香りっすけど」

「……いろはさん?」

鉄橋を渡る。

桜の花も、ちらほら見られるようになってきた。

「な、なんすか?」

「生チンコと生チョコを間違えてませんか?」

「判ってるっす! 敢えて間違えたフリしてるのに突っ込まないでください!」

突っ込まないでとは意味深です。

なかなかの上級者かも知れません。

「それで、生チンコは見たことありますか?」

「……お父さんのを、何度か」

「まるで、エイリアンみたいですよね」

「アレはヤバいっす! あんなデカいものが入るかと思うと……」

「そんなにですか? 因みに眠っている孝介さんのモーニングスタンダップの時に計ったら、0.14メートルありました」

「メートル!?」

「140ミリでもいいですが」

「140!?」

いろはさんが大袈裟に反応する。

孝介さんは、平均よりちょっとだけ大きいからな、と念押しするように何度も言ってましたが、もしかして事実なのでしょうか。

「いろはさんのお父様のブツは、いかほどで?」

「え、いや、血流がアップしたときの状態は知らないっすけど」

「は?」

「あ、いや、その、通常時の姿といいますか……」

「だったらエイリアンじゃなくて芋虫ではないですか!」

思わず声を荒らげてしまう。

「え、あ、そうなんすか?」

……上級者かと思いましたが、とんだ小物でした。

「やれやれ」

私は溜め息を吐き、流れる風景に目をやって、

「少し寝ます」

と、いろはさんに告げたのでした。

……寝かせてもらえませんでしたが。


見知った街をてくてく歩く。

とはいえ、ラーメン屋さんはもう無いし、新しいマンションや、知らないお店が出来ていたりする。

「多摩さん、歩くの速いっすね」

「見るべき草花や虫達がいないので」

いろはさんがクスッと笑う。

笑うと乳も揺れる。

「急ぎじゃなければ、ちょっと寄り道しませんか? とっておきの桜をお見せするっす」

「とっておきの桜?」

そんなものがあるのだろうか?

確かに、この辺りでは今が満開のようだが、私の育った街でもあるし、そんな見応えのある桜なら聞いたことくらいありそうだけど。

「ぜーんぜん有名じゃないっすよ。だからこそとっておきなんす」

なるほど、そういうものかも知れない。

不特定多数にとって特別じゃなくても自分自身にとっては特別で、普段は誰にも教えないけど、特別な誰かには教えたい。

そんな感じだろう。

……あれ? 私が特別な誰か?

「多摩さん、ここっす」

民家の塀越しに、満開の桜が見えた。

「これが、とっておきの桜っす」

何も特別なものに見えない。

大木でも無いし、珍しい品種でも無さそうだし……。

ただ、普通の桜より花付きはいいようで、小振りなわりに華やかだ。

きっと、よく手入れされている桜なのだろう。

「ここ、あたしんちっす」

「え?」

「あたしはこの桜を見て育ってきたっす」

いろはさんは私の手を引き、庭へと案内する。

孝介さんの──私達の家の庭と比べれば、草木は乏しいし広さも無い。

でも、外から見れば判らなかったけれど、桜のために作られた空間がそこにはあった。

この家の人達が、ずっと愛でてきた賑わいのようなものが、その空間に宿っていた。

「小さい頃から、あたしがお世話してるんすよ」

風が吹いて、花びらが舞う。

「わあ」

私が歓声を漏らすと、いろはさんは目を細めた。

「あの庭も、あたしにとっては特別っす」

それは、私が毎日見ている庭のことだろう。

草木を愛で、虫達を観察している、あの庭のことなのだろう。

いろはさんは、わざわざ私が特別なものを探しに行かなくても、私のとっておきのあの庭が、特別だと言ってくれているのだろう。

あの庭が、あの家が。

「いろはさん」

「はい」

「また来て下さい」

私がそう言うと、いろはさんは普段は見せない、とっておきの笑顔で言った。

「はいっ! 三人に会いに!」

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