第39話 優しさと記憶

今夜は昨夜とは打って変わって暖かい。

私は縁側に座って、足をぶらぶらさせながら空を見上げる。

「明日は雨かなぁ」

この暖かさは、空が曇って雨が近付いているからなのだろう。

星が好きないろはさんは、残念に思っているに違いない。

「桃の花を探すより、てるてる坊主を作れば良かった」

表面上はいつも通り、でも、どこかギクシャクしたまま夜更けになった。

いろはさんは今、みゃーの部屋で眠っているはずだ。

みゃーはタマちゃんも一緒に、と言ってくれたけれど、私は断ってしまった。

あの二人は仲がいい。

羨ましいなぁ、なんて思いつつ、好きな人達が仲睦なかむつまじくしているのは嬉しい。

夕食の席では、孝介さんも楽しそうだった。


「美月」

背中に、孝介さんの優しい声。

私はぶらぶらさせていた足をぱたぱたさせ、るようにして背後の孝介さんを見る。

この人はいつも、何でこんなに穏やかな顔をしているのだろう。

「眠れないなら添い寝してあげましょうか?」

孝介さんが、こんな夜更かしをするのは珍しい。

いや、でも、きっと、何か言いたいことがあるのだ。

「何かあったのか?」

ほら、表面上は取りつくろってみても、孝介さんはお見通しなのです。

ほんの少しだけ、元気の無い私が気になったのでしょう。

「何でもありませぬ。ただの生理です」

「お前の生理は一週間ほど前に終わったんじゃないのか?」

「こわっ! こーわっ! 人の生理周期を把握してるなんて!」

怖いどころか嬉しいくらいなのですが。

「お前が毎月のように生理が来ないんですとか言って脅すからだろうが!」

「脅す? 歓喜の雄叫おたけびを上げるところでは?」

「いや、そりゃ、ホントに出来たなら一念発起ほっきするところだが」

「え? 孝介さん、そんなに衰えて……」

「は?」

「念じないとたないとは可哀想に。勃て、勃つんだジョ──痛っ!」

「一念発起だよ! 一念勃起ぼっきじゃねー!」

「一年勃ちっぱな──痛っ!」

から元気はいい」

「……」

落ち込んでいるつもりはないですが、それでも普段と違っているのでしょうか。

「一応、美矢から聞いてはいるけど、お前から言いたいことはあるか?」

「……べつに、無いです」

「俺としては、叱るようなことは無いと思ってる」

「……?」

「お前は、お前の世界をちゃんと作って、それを楽しんでる。それはいいことだと俺は思ってる」

私の世界とは何だろう。

それはひどく閉鎖的で、独りがりなものでは無いのか?

「それにお前は、ちゃんと優しい子だってことも判ってる」

「やらしい子では?」

「茶化すなよ!」

優しいの定義は何か。

もし私に、少しでもあるとすれば、それを育むには何が必要か。

「……ホントに、ただの散歩だったのか?」

「散歩が何故かハイキングになってしまいました」

「お前はいつも、ちょっと近所を散歩するだけで、こんなものを見たとか、こんなことがあったとか、楽しそうに報告するのに、今回は何も無かったのか?」

「……桃が、無かったので」

「桃? 桃って、今の時期に咲いてるあの桃か?」

「はい」

「桃を、探してたのか?」

「いろはさんに似合うと思いませんか? わりと派手で目立つのに、どこか清潔感があって」

それも独り善がり。

私が勝手に似合うと決めて、見せたら喜んでくれると勝手に思っただけだ。

「どうしてそれを言わなかったんだ?」

「たくさんの桃が咲いている場所を見つけられなかったのです」

「いや、見つけたかどうかじゃなく、いろはのために探していたことを言わなかったのは何故だ?」

もしかしたら、いろはさんのためじゃなくて、自分が見たかっただけかも知れない。

「見つけられなかったからですが?」

「美月」

「はい」

「仕事とかなら結果を重視するけど、友人関係なら過程の方が大事だ」

「孝介さんは、仮に、私達に何かプレゼントを買おうと思って色んな店を探し回り、結局いいものが何も見つからなかったときに、わざわざそれを言いますか?」

「……まあ、言わないかな」

「お客さんを放っておいて出掛けたのは事実ですし」

正直、桃の花を見つけたいという思いだけで、私がいないことでいろはさんがどう感じるかなんて考えもしなかった。

「お前の言っていることは理屈に合っているが、そうじゃない。何か違う」

「違うくらいならまだいいのですが、私には何かが欠落しているのかも知れません」

「は? お前に欠けているものなど何もねーよ!」

この人は、誰よりも信頼できる人ですが、誰よりも私に甘い人なので信用できないのです。

「私はずっと、自分の中で気になっているというか、何でこうなんだろう、もしかして私は、酷く冷たい人間なんじゃないかって思ってることがあるのです」

「この二年、ずっとお前と暮らしてきて、お前が冷たいなんて思ったことは一度も無い」

「それは、たまたま見えなかっただけかも知れません」

「そんな筈は無い」

「孝介さんは、五歳の頃の記憶ってありますか?」

「は?」

「べつに五歳じゃなくて、四歳でも三歳でもいいのですが」

「……まあ、四、五歳の記憶なら」

「ですよね」

誰だってそうだろう。

でも、私は──

「何が言いたい」

「いえ……ただ、人の優しさが形成されるのは、何歳くらいなんだろうって思ったのです」

「年齢は、関係無いんじゃないか?」

「だったら生まれつき? それとも増減したりするのでしょうか」

「環境による増減はあるような気がする。俺はお前達といると色んなことに優しくなれる」

──俺はお前達といると色んなことに優しくなれる。

「く……」

「く?」

「くっさ! 孝介さんくーっ──あいたっ!」

「こんな時くらい、憎まれ口をつつしめ!」

そんなことを言われても、あまりにも照れ臭いことを真顔で告げられたら対応に困ってしまいます。

「とにかく、お前は自分を変える必要は無いし、悩む必要も無い」

「でも」

「そもそもそんなことで悩んだりするヤツが、優しくないわけないだろ。お前はちゃんと優しい子だよ」

──お前はちゃんと優しい子だよ。

「き……」

「き?」

「きっしょ! 孝介さんきーっし──あいたーっ!」

「俺にも優しくしろよ! 傷付くわ!」

……いつしか、私は笑顔になっている。

いつだって私を笑顔にしてくれるこの人と、私は未来を築いていくのだ。

ならば過去は怖くない。

私はそろそろ過去と向き合わなければならない。

私を産んだ母親の、その顔すら思い出せないのは、私に何かが欠けているからなのか、酷く冷たい人間だからなのか。

それとも……。

孝介さんが、私の頭の叩いたところを撫でてくれる。

ふと、何かの記憶と重なるような気がした。

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