第38話 桃の花と擦れ違い

ノートパソコンからふと顔を上げると、空が白み始めていた。

朝の冷え込みは厳しいけれど、冬のそれとは違う春の気配がする。

私は炬燵こたつから抜け出し、服を着替える。

孝介さんはとっくに自室に戻っているし、いろはさんは寝息を立てている。

私はその目障りな胸元を炬燵布団で隠すと、そっと居間を出て、玄関に向かった。


「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」

てくてくと田畑の間を進みながら、私は歌を歌うように抑揚よくようをつけて口ずさむ。

「寒っ」

確かに雲は棚引いているが、春の暖かさではない。

腕をさすりながら歩くと、小道の突き当たりのT字路に出る。

さて、左右どちらに行くべきか。

左は小川に沿って桜並木が続く。

右は雑木林をう緩い登り坂だ。

いろはさんに桜を見せてあげたいのだが、東京で咲き始めたばかりだし、この辺りでは十日は遅くなる。

春休みが終わってから咲くのが当たり前で、せっかく遊びに来てもらっても見せられないのが悔しい。

でも、どこかに早咲きの品種があるかも知れない。

それに、桃の花なら綺麗に咲いているところもあるだろう。

よし、右に行こう。

いろはさんだったら、寧ろ桃の花の方が喜んでくれるんじゃなかろうか。

濃いピンク色が、桜より可愛らしい感じがするし、いろはさんのネイルも、桃の花みたいな濃いピンク系が多いし。

「すもももももももものうち」

雑木林の中を、空を見上げて歩く。

芽吹いている緑は少ないけれど、ウグイスが鳴いて、陽射しも暖かくなってきた。

緩やかな斜面を登りきれば、小さな畑と、その縁に桃や梅の木が植わっている。

「うーん、もっとたくさん咲いているところは無いかなぁ」

梅はもう散っているし、桃は少ししか無い。

朝陽を浴びて輝いてはいるけれど、こう、もっと、うわーってなるような壮観さが欲しい。

何せわざわざ東京から来られたお客人であらせられるから、綺麗っすね、程度では困るのである。

乳魔人のくせに、乳天使みたいな笑顔で、大袈裟にテンション上げて喜ぶ様子が見たいのです。


知らない道を、てくてく歩く。

私は方向音痴だけど、記憶力はいいので歩いた道は忘れない。

自分がどこにいるか判らなくなっても、来た道を引き返せばいいだけである。

「あ、ミミズ千匹」

いや、一匹しかいませんが、陽射しの暖かさに誘われて、地面から這い出てきたのでしょう。

土筆つくしもいっぱい顔を出している。

私は春の歌を口ずさみながら、てくてく歩く。

春を待ちわびる歌だったり、春を謳歌する歌だったり、それぞれの歌に合わせて歩くリズムも変わる。


「桃がいっぱい咲いている場所を知りませんか?」

乳母車うばぐるまを押して散歩していたお婆さんに尋ねる。

「桃……桃ねぇ……」

しばらく思案顔をしていたお婆さんが、ふと懐かしむような顔になった。

「今はもう誰も住んでないけど、昔、この先の峠を越えたところに集落があってねぇ……」

さすがお婆さん、そこからが長い。

集落の成り立ちや、そこに住んでいた人の話、くらいはいいのだが、いつの間にか孫の話になっていたりする。

要約すると、お婆さんが若い頃に訪れたときは、春の花がいっぱい咲き乱れる桃源郷のようなところだったらしいが、人が住まなくなって長くなるし、今はどうなっているか判らないという。

それに、歩いて行くには少し遠いらしい。

まあ林道が通じていて迷うことは無さそうなので、お礼を言って峠に向かう。

「公道最速理論を試す時が来たようだ」

私はバカなことを呟きながら、カーブの続く峠道をてくてく歩く。

本当に桃源郷のようなところなら、孝介さんに車を出してもらい、いろはさんを乗せて行こう。

みゃーの作ったお弁当を持って、春爛漫の景色を満喫するのだ。

本当に、そんな場所だったらいいなぁ。


私は疲れた足を引きずりながら、家への道をてくてく歩く。

峠を越えた先は、杉の植林された薄暗い平坦地で、一部に石垣などが残っていたものの、桃源郷の面影は無かった。

「ふ、乳魔人桃色遊戯計画は断念せざるを得まい」

私は悪役のように呟きながら、視線は、つい足元に落ちる。

田のあぜにも、道端にも、春の小さな花が咲いていた。

春はそこかしこにあって、それはどれも素敵なものだけど、いろはさんを飾るには、もう少し派手で華やかな方がいい。

「とほほ、でやんす」

まあでも、私のつまらない思い付きなんかよりも、みゃーが今夜の食卓を豪華に彩ってくれるでしょう。


「ただいまー」

孝介さんの軽トラは無い。

居間を覗くと、困ったような顔をしたみゃーと、不機嫌そうないろはさんがいた。

何かあったのだろうか。

「お腹すいたー」

もうお昼時を過ぎているし、変な空気を変えたいので、私は甘えるように言った。

「ちょっと待ってね、いま温め直して──」

「美矢」

立ち上がりかけたみゃーを、何故かいろはさんが強い口調で制止する。

事態が飲み込めない私は、二人の顔を見比べる。

孝介さんみたいな苦笑いを私に向けるみゃーと、すっぴん顔でしかめっつらのいろはさん。

あ、爪はやっぱり、濃いピンク色だ。

「多摩さん、今までどこ行ってたんすか!」

あれ? 怒りの矛先ほこさきは私?

「どこって……散歩?」

「どうしてっすか! もうお昼過ぎっすよ!」

何を怒っているのだろう?

お昼までに一緒に何かしようとか、そんな約束でもしただろうか?

「何も私が遊びに来た初日に、一人で出掛けることないじゃないっすか!」

え? いや、でも、みゃーもいるし、元々いろはさんは、みゃーと仲良しだったし。

「大体、多摩さんはちょっと冷たいっす! 今だってあたしがなんで怒ってるのか判ってないじゃないっすか!」

……。

「まあまあ、いろはちゃん、タマちゃんだって悪気があるわけじゃないし」

「悪気のあるなしを言ってるんじゃないっ! 美矢だって、何もこんな日に出掛けなくてもってあきれてたじゃん!」

……そうか。

そうなんだろうな。

大学でも、ふと気まぐれに汽車に乗りたくなって、勝手に一人で帰ってみゃーに怒られたことが何度もある。

孝介さんは優しいから、いつだって苦笑いで済ませてくれるけど、その向こうに私の至らなさが沢山あるに違いない。

私は心の機微きびうとくて、そしてそれは、いろはさんが言うように、冷たいということに他ならないのかも知れない。

決して冷たくしたいわけじゃないけど、私の考えは人とずれていて、私の思いは空回りしがちなんだろう。

ずっと人との関係が希薄だった私は、きっと何かが欠けていて、何かが足りないのだ。

「……ごめんなさい」

うつむいたまま、詰まるような小さな声しか出ない。

いろはさんの顔が見れず、その鮮やかな爪の色ばかりが目に入る。

女の子らしいおしゃれ、女の子らしい仕草、女の子らしい優しさや配慮。

いつかちゃんと、気遣いや思いやりといったものが、私にも身に付けばいいなぁ。

……でも、やっぱり、桃の花を見せたかったな。

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