第35話 春の雨と傘の下
春めいてきた空気に、雨の匂いが混じる。
南西の風一メートル、気温十二度、曇り。
私は立ち止まり、手に持っていた傘を刀のように構えて空に目を向けた。
ふふ、もうじき雨が降ることなどお見通しなのです。
ニヤリとほくそ笑んだ私は、しゅっ、と空に向けて一太刀浴びせてみせた。
「タマちゃん元気だねぇ」
農家のおばちゃんが、自転車で私を追い抜いていく。
……めちゃくちゃ恥ずかしいのです。
意味もなく
ぽつり、と雨が落ちてきて、アスファルトに沢山の点を描く。
畑の土の色が変わっていき、雨と土とアスファルトの匂いが立ち上る。
お気に入りの傘を広げてくるくる回すと、あら不思議、長靴の音も軽やかになった。
「タマちゃん、ご機嫌だね」
軽トラのおっちゃんが私に声を掛け、走り去っていく。
……めっちゃ恥ずかしいのです。
意味もなく早歩きになると、大きすぎる孝介さんの長靴が脱げてしまった。
今度、私専用の長靴を買ってもらおう。
赤がいいか、青がいいか、それともお揃いの黒にしようか。
おや、雨脚が強くなってきた。
急げ急げ。
私の小さな歩幅と孝介さんの大きな長靴で、ちぐはぐに不格好に進むのだ。
膨らみかけた桜の
春の胞子が息づくように、そこかしこで様子を
もういいかい? まぁだだよ。
もういいかい? もういーよ?
おっと、無責任なことは言えないのです。
まだきっと、寒さに震える日が来るに違いないのですから。
でも一歩一歩、確かな足取りで、春はすぐそこまで来ているのでしょう。
「孝介さん孝介さん、傘はご入り用ですか?」
用水路の清掃をしていた孝介さんは、シャベルを持つ手を止め、泥で汚れた顔を上げた。
春に向けて、準備をすることは沢山ある。
農機具の整備や、土の手入れ、用水路の管理。
季節に追われるように、私達は日々の生活を営む。
季節が彩るように、私達の生活も彩られる。
「おう美月、ちょうど良かった、もう少し雨が強くなったら帰ろうと思ってたんだ」
濡れた髪と、用水路の水面に描かれる波紋。
「あなたの美月が、傘を持ってお迎えに上がりました」
もう少し早く来れば良かった。
私は空を見上げ、
「天気予報じゃ、夕方から雨って言ってたんだけどなぁ」
「気象庁の言うことなど信じてはいけませぬ。今後は天気のことは私に聞けばよろし」
「出掛けるときは、お前は寝ていたしなぁ」
……。
「でもまあ、お前が傘を持って迎えに来てくれると、あの時のことを思い出すな」
……まだ、私の気持ちを隠していた頃。
みゃーに対する罪悪感と、孝介さんの反応に
あの時は、傘は二本でしたが。
「あれ? 俺の傘は?」
「今日の雨は、一本で事足りると判断しました」
……めっちゃ降ってきました。
雨に煙る風景と、苦笑いする孝介さん。
「じゃあ、美月の傘に入れてもらおうか」
「相合傘なのです」
今でも初々しさの残る、孝介さんの照れ笑い。
それを誤魔化すように、少し乱暴に私の手から傘を奪い取る。
代わりに私はシャベルを奪い取った。
「重いぞ?」
「構いませぬ」
そう言って私は、刀のようにシャベルを構える。
傘より様になるのです。
「さ、帰るぞ」
「あいあいさー」
小さな歩幅で、孝介さんは歩き出す。
ぼふっ、ぴちゃ、ぺこん。
二人の長靴が、雨音に混じってお間抜けな音を立てる。
何だかそれだけのことが可笑しくて、私の口許は緩んでしまう。
「どうした?」
斜め上から、優しい声が降ってくる。
雨粒が傘に弾ける音も、いつもより高い位置から降りてくる。
どうしてだか、それさえも楽しく思える。
「どうもしませんが?」
「笑ってるように見えたけど」
「春ですから」
孝介さんが、納得したように笑う。
私はこっそり、孝介さんの足の動きに自分の足を合わせた。
孝介さんが右足を前に出せば、私も右足を前に、左足を前に出せば、私も左足を、というふうに。
私の歩幅に合わせられた足と、孝介さんの動きに合わせた足が、小気味良くリズムを刻む。
「ピッチピッチチャップチャップランランラン」
「美月は雨が好きだな」
「嫌いではありませぬ」
ただ、同じ傘の下で歩けるのは大好きですが。
雨音が私達を包んで、傘の
「びっちびっちずっぽずっぽぱーんぱーんぱー──あいたーっ!」
「下品な歌を歌うな!」
傘の
私はお返しに、シャベルで孝介さんの足を叩く。
「くっ! おま、弁慶を……」
足並みが乱れて、傘も傾く。
目を上げれば、傘はいつだって私の肩先までを雨から遮っている。
「えいっ!」
何だか悔しいような気持ちになって、私はもう一度、孝介さんの足を叩く。
「ちょ、的確に同じ位置をっ……」
悶絶していても、傘は私の方へ傾けられる。
泥だらけの足と、濡れた肩。
どうしてだか、幸せいっぱいで胸が苦しくなる。
「孝介さん孝介さん」
「ん?」
「家を出る前に、お風呂を沸かしておきました」
「そっか。それはありがたいなぁ」
私は孝介さんの肩に頭を
こちらに伸びてきた左手が、私の頭の上で
代わりに右手が、
たぶん、左手は濡れていたのだろう。
私は孝介さんとの距離を詰めた。
いや、歩きにくいほど密着した。
小さな傘でも、これなら二人とも濡れずに済むのです。
「ちょ、美月?」
「相合傘です」
雨音が優しくなる。
春の匂いと雨の匂いが混じるように、傘の下で、私とあなたも混ざり合うのです。
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