第34話 二度寝と手のひら

「……つき……美月、おい、起きろ」

孝介さんの声が聞こえる。

起きろと言っているような気がするが、好きな声なので、それをそのまま子守唄にして眠り続ける。

「おい美月、起きろって」

声だけならいいのだが、身体を揺すられる。

いや、でも、これはこれで揺りかごに乗っているようでもあるので、水面みなも揺蕩たゆたうように私は眠り続ける。

「美月、起きなきゃお仕置きだぞ」

……お仕置き……甘美な響き。

「朝メシ抜きだぞ」

……それはちょっと困る。

「うーん……あと五……」

「あと五分寝るのか?」

「あと五まん……えん……」

「金かよ! 金で起きるのかよ!」

「……寂しいなら……一緒に寝ましょーか……」

「寂しいから起こしてんじゃねーよ! お前が起こしてくれって昨日の晩に頼んだんだろうが!」

「……はて?」

寝ぼけまなこの私は、孝介さんの目をゴシゴシ擦る。

「ちょ、やめい! 俺はバッチリ目覚めとるわ! 朝から花凛と釣りに行くって言ってただろ!」

「……なるほど、そのような世界線もあるかもや知れませぬ」

「ふざけたことを言ってないで、ほら、よだれの跡を拭け」

「失礼な。うら若き乙女が口から涎など垂らすわけが無いでしょう。これは愛液です」

「お前は起こすだけで突っ込みどころが多すぎるわ!」

「突っ込みどころなど、私には三つしかありませぬが。お口と──あいたっ!」

「いいからさっさと起きろ」

「孝介さんは起こし方に愛が足りないのです」

「判った判った、じゃあそのボサボサ頭をいてやるから座れ」

「……」

「いざとなると恥ずかしがるな! こっちが照れ臭いわ!」

「……では、背面座位で」

「ぐはっ!」

私は照れ隠しに、胡座あぐらをかいた孝介さんの脚の上に勢いよくお尻を乗せた。

股間のブツが潰れたかもしれない。

「ったく……」

ブツは無事だったようで、ブツブツ言いながらも孝介さんは私の髪を梳く。

ごつごつした逞しい手とは裏腹に、指の動きは優しく、頭を撫でるように櫛を通す。

「美矢の髪は細くて色が薄いけれど、お前の髪は、しっとりした緑の黒髪だな」

「きみがさやけきめのいろも、きみくれなゐのくちびるも、きみがみどりのくろかみも」

「なんだ、それ?」

「島崎藤村の詩です」

「へー、ていうか、さやけきって何だ?」

「清らかに澄み渡っているような?」

「空を見上げていたり、夢中になって生き物を見ているときのお前の目だな」

私はそういったときの自分の目を見ることは出来ないけれど、こそっと隠れて孝介さんを見ているときが、最もさやけき目の色なのだと思う。

「美月にぴったりの詩だな」

「別れの詩ですが?」

「……美月には似ても似つかない詩だ」

私は思わず、クスっと笑う。

孝介さんは、割と縁起をかつぐ。

言葉や言い回し、数字なんかも気にしている節がある。

それは、大切な人を喪いたくない恐れから来ているのだろうから、私は揶揄やゆするわけにはいかない。

「対面座位です」

私は孝介さんの方を向いて座り直した。

いつもの苦笑を浮かべた後、いつもより優しくほころぶ口元。

「前髪は、櫛で梳いただけじゃ寝癖は取れないな」

「別に構いません。花凛ちゃんは、寝癖を笑ったりするような人ではないので」

「それもそうか。って、そういえば花凛は何時に来るんだ?」

「七時の予定ですが」

「なんだ、あと一時間もあるじゃないか」

「ええ。ですから、この体勢のまま、しば微睡まどろむ所存であります」

そう言って私は、孝介さんの胸に顔を埋める。

きっと孝介さんは優しく笑って、仕方ないなぁ、という表情をしているに違いない。

対面座位なんて言ったりしたけれど、これはだっこされてる状態だ。

……そういえば、子供の頃の記憶というのは、どこまでさかのぼれるものなのだろうか。

だっこもおんぶも私の記憶には無いが、それが普通なのだろうか。

そのような、ありもしない記憶に憧憬しょうけいを抱いていたわけではないけれど、ふと伸びてきた腕は私を包み、どこか懐かしいような安らぎを連れてきた。

大きな手のひらが、背中をポンポン、頭をポンポン。

わたしは幼子おさなごのようになって微睡むのだ。

わたしは全てを委ね、安心しきって眠るのだ。

わたしは……おやすみなさい……。


「あーっ! 朝っぱらからちちくりあってる!」

夢の中に、般若はんにゃ顔の女性が現れた。

「しーっ! さっき美月が寝たところなんだ」

般若に動じない優しい声が響いて、心地よさに満たされる。

「え? 美月ちゃん夜通し起きてたの?」

……夜通し寝てましたが。

「いや、さっき起きて、さっき寝たところだ」

「ただの二度寝でしょうが!」

……ただの、ではなく、大いなる二度寝なのです。

「そうは言っても、この安らかな寝顔を見たらさぁ」

……天使の寝顔と呼んでくれても構いません。

「アンタの胸に埋もれて顔なんて見えないわよ!」

……あらあら。

「まあまあ、花凛が予定より三十分も早く来たんだし、もうちょっと待ってやってくれ」

「はぁ……何だか父親みたいね」

……む?

確かに父性愛のようなものも感じていましたが、それは男女の愛の営みの上に築かれたものなのです。

「いっそのこと、養子にしちゃうとか」

冗談であることは判っていますが、聞き捨てなりません。

「対面座位ですが」

私は顔を上げ、花凛ちゃんに向かって言い放つ。

ふふ、この密着して絡み合う男女と、対面座位というパワーワードに平伏ひれふすがいい。

「あら、起きたの」

な!? 平然!?

「ところで、たいめんざいって何?」

……そうだった。

花凛ちゃんに、この手の話題は通用しない。

純真無垢、無知蒙昧むちもうまい、誉めるべきかけなすべきか。

「でも、あと何年かしたら、今度は美月ちゃんがそんな風に子供をだっこしてるんでしょうねぇ」

「え?」

思いもよらないこと、ではないはずなのに、何故か驚いてしまう。

「作らないの?」

私は自分の手のひらを見た。

この手に、新たな命を抱き、この手が、小さな命を育てるのだろうか。

「美月ちゃんの子なら、すっごく可愛らしい筈よ?」

私の子なら、くそ生意気でひねくれた子供になりそうですが。

そう考えると、少し怖い。

でも──

孝介さんが、また苦笑している。

花凛ちゃんは、お姉さんの笑みだ。

みゃーだってニッコニコだろう。

彼らの笑顔に囲まれ、その手が私の子供をだっこしてくれる。

……何も恐れることなど無いような気がしてきた。

生意気でも、ひねくれていても、愛情を知る子に育ってくれるだろう。

「孝介さん孝介さん!」

「どうした?」

「今からイッパツ──あいたっ!」

前からと後ろから、私は二人に頭を叩かれた。

ほら──

私の周りには、優しい手のひらがいっぱいある。

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