第32話 親切と幸せ

以前の私は、困っている人がいても自分から声をかけるなんてことは出来なかった。

気付かなかったフリをして、少しだけ良心の呵責かしゃくを感じて、でも、翌日にはほとんど忘れてしまうのだ。

それでいて、時々ふと思い出して、そんな記憶の欠片かけらわずらわしく思える程度の自己嫌悪におちいる。

やらない善よりやる偽善、という言葉は、至極もっともだと思う。

やらないことの後悔や心の痛みなど、誰の役にも立たないのだから。


雪に染まった、朝の散歩道。

そこに、一台の車がスタック? していた。

一人が運転席でアクセルを踏み、一人が後ろから車を押していたが、タイヤは空転するばかりで前に進まない。

私はもう、以前の私とは違う。

引っ込み思案で人見知りで、小さな後悔を重ねてきた私とは違う。

今の私なら、ちゃんと声が出せるはず──

「ダッサ! 山間部の寒さをナメるからブザマな姿をさらすことに──痛っ!」

「そういうことを言うな!」

孝介さんにしかられてしまいました。

まあ声を出したと言っても、当事者達には聞こえないようにですが。

「しかし孝介さん、これ見よがしな都会ナンバーで、雪道なんて楽勝だぜ、みたいなチャラい野郎どもですが」

「見た目は関係ないだろ。さ、手伝うぞ」

孝介さんは全てにおいて甘い。

親切をするにも相手を見極めた方がいいと私などは思うのだが、我が夫はお構い無しに行動する。

「手伝いましょうか?」

屈託くったくの無い、見上げた冬の青空みたいに爽やかな孝介さんの声。

仮に、私が困っている人に声をかけるとしても、躊躇ためらいやオドオドした感じが出てしまうだろう。

きっと彼は、そういったことに迷いが無いのだ。

「あ?」

あ?

なんだこの若造。

不意に声をかけられたとしても、そんな返事があるか。

「いや、一緒に押しましょうか?」

孝介さんもほっとけばいいのに。

「……いっすわ」

あ?

いっすわって何語?

というか、なんとフテコイ顔をしているんだ。

私はポケットをまさぐった。

ちっ、財布は持ってきてない。

小銭があったら密かに車のボディーに傷を付けてやろうかと思ったのだが。

「あ、じゃあバックと前進を小刻みに繰り返したり、フロアマットをタイヤのところに敷いてみたりするといいですよ」

我が夫は甘い。

わざわざそんなことを教え、更に爽やかな笑顔で「お気をつけて」なんて言って彼らから離れる。

一応だけど、車を押していた男が、ほんの少しだけ頭を下げたのが見えた。


「あのようなやからは放置すればいいのでは?」

キュッキュと雪を踏み締めながら、孝介さんと歩く。

私としては、腹立たしいだけでなく、お人好しな夫に対して、焦れったいようなヤキモキするような気持ちになる。

「どうしてだ?」

我が夫は、鈍感ニブチン能天気野郎なのでしょうか。

時には、敏感デカチン超元気野郎になるのですが。

「人の厚意に感謝できない輩に、手助けなど意味は無いと思いますが?」

「手助けに意味なんて必要か?」

「!?」

私は驚いて、でも、やっぱりヤキモキしながら言葉の意味を噛み締める。

誰かが助かるなら、見返りなど無くても嬉しいことなのだろうか。

それとも、嬉しいと思えるその気持ちが、ご褒美ほうびなのだろうか。

「美月はそれでいいよ」

「?」

「美月は可愛らしい女の子だから、ちゃんと相手を見極めて、ちゃんと感謝できる人を手助けしたらいい」

「なっ!?」

二十歳になったレディに対して、可愛らしい女の子!?

いつでも好きなときに押し倒して好きにできる女に対して、可愛らしい女の子!?

このメスブタが! おら、ケツを出せ! と言ってもいいのに、孝介さんはそんなセリフを吐いたことが無い。

変わった人だ。

「おい、俺を変な人を見るような目で見るな」

「彼らも、変な目で見てましたが?」

振り返ると、フロアマットを車から出している姿が小さく見えた。

「あれは変な目じゃなくて、恥ずかしかったんだと思うよ」

「恥ずかしい?」

「美月だって、ダサイって思ったんだろ? 彼らもスタックしているところを見られて、ちょっと照れ臭かったんだよ」

だからぶっきらぼうな態度を取ったと?

は! 所詮は子供なので……あれ? 私も似たような傾向にあるような?

……そもそも、初めての出会いが高校受験の日で、他ならぬ私自身が孝介さんに助けられた人間だ。

あのときの私は、気の利いた感謝の言葉など言えただろうか。

モジモジオドオド、見ようによっては無愛想で、先ほど少しだけ頭を下げたあの若い男と、何ら変わりは無いのかも知れない。

「……孝介さん」

「ん?」

「目の前に自販機があります」

「え? ああ、なんか飲むか?」

孝介さんは財布を取り出し、私の手のひらに五百円玉を置いた。

……あったかい缶コーヒーでいいか。

私は少し迷いながら、微糖の缶コーヒーを二本買った。

「え? 俺、ブラック……」

「孝介さんの分ではありませぬ」

その一言で理解したのか、笑顔が帰ってくる。

冬の青空より爽やかで、春の昼下がりより暖かな笑顔だ。

そっか、何も厚意を向けた相手からじゃなくても、素敵なプレゼントは返ってくるのか。

私は幸せだ。

それを誰かにお裾分け出来るのならばそれでいい。

そして、それを受け取ってくれた人が、その幸せをいつか誰かにお裾分けしてくれたなら、私は更に幸せなのだと思う。

私は缶コーヒーを持って駆け出した。

彼らの車は雪から脱出できたようで、フロアマットを車内に仕舞おうとしていた。

「おい美月、走るな──」

「ぬあっ!」

盛大に滑って転び、顔面から雪に突っ込む。

……恥ずかしい。

でも、車の若造達もスタックが恥ずかしかったのなら丁度いい……はず。

ん?

駆け寄ってくる二つの足音。

「大丈夫ですか!?」

あれ? なんだ、いい子達じゃないですか。

心配する若造達に、私は缶コーヒーを差し出す。

それから、勇気と笑顔を。

「どうぞっ!」

冬の青空と、春の暖かさ。

私は、孝介さんみたいに笑えたかなぁ。

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