第31話 新年とおせち料理

しばらく実家に帰らせてもらいます」

みゃーの声が、居間に響き渡った。

太陽が顔を出して、今日もいい天気だと思える、寒いけど清々しい朝のことだ。

ついでに言うと、その日は大晦日だった。



孝介さんは、日本酒をちびりと飲んで溜め息を吐いた。

みゃーが出ていってから一夜明け、つまり、めでたく新年を迎えたわけだが、それをよろこぶ余裕は無いようだ。

目の前にある豪華なおせち料理にもほとんど手をつけず、浮かない表情でサバっちを眺めている。

サバっちは素知らぬ顔で、でも事情が判っているかのように私の膝の上に乗ってきた。

どうやら孝介さんの味方をする気は無いらしい。

また深い溜め息。

「孝介さん、新年早々フニャチン顔は良くないですよ」

「フニャチン顔ってどんなだよ!」

「ショボーン? 意気小チン?」

「意気消沈だろうが!」

なんと、みゃーと同じく私の脳内文字変換を感受するとは!

いや、それよりも、いちおう私にツッコめるだけの元気があったのは嬉しい。

「まあ、みゃーもそんなに怒っているわけでは無いと思いますが」

気休めのつもりではない。

本当にそうだと思う。

でなければ、こうしておせち料理までこしらえるはずは無いのです。

「いや、俺が悪い」

何度目のセリフでしょうか。

孝介さんが悪いとしても、そんなに怒っているわけでは無いと言っているのにバカなのでしょうか。

「実家に迎えに行ってくる」

孝介さんが立ち上がる。

これも何度目でしょうか。

「みゃーは節約家なので、二人分の交通費がかかることを望んでいませんよ」

私もまた、何度目かの同じセリフを繰り返す。

「でも」

「怒ったついでに、みゃーママに会いに帰っただけで、家を出たわけではありません」

これも気休めではない。

みゃーの考えていることは私には判る。

まあ、私より怒っているのは確かだけど。

つまり、私も少しは怒っている、のかなぁ。


「明けましておめでとー!」

空気を読まない人が、我が家を訪ねてくる。

いや、寧ろこの鬱陶しい空気を吹き飛ばしてくれる人、と言えなくもないか。

「わあ、豪華なおせち料理に日本酒!」

例によって、出迎えずとも居間に顔を出す。

「あれ? なんか空気が変?」

花凛ちゃんが空気を読んだ!?

私達の顔を見比べ、サバっちの顔を見てから、台所の気配をうかがい、怪訝けげんな顔をした。

ある意味、我が家のあるじ的な存在が、一月一日に感じ取れないのは異常であろう。

「……美矢ちゃんは?」

孝介さんが項垂うなだれた。

痛々しくもあり、滑稽こっけいでもある。

本来の我が家の主である存在が、一月一日に意気小チンしている様子は異常であろう。

いや、元旦だからって意気大チンなのもおかしな話ですが。

「みゃーは実家に帰りました」

孝介さんは答える気力も無さそうなので、私が代わりに返事をする。

「あら、里帰り? って感じでもないわね」

「はい。孝介さんが忘年会でキャバクラに行ったのが、みゃーの逆鱗に触れまして」

孝介さんが更に項垂れて小さくなる。

「キャバクラ?」

「ええ。農家の人達の忘年会で、ジジイ連中に強引に飲まされた孝介さんは、前後不覚の状態で二次会でキャバクラに」

「それって、孝介は悪くないんじゃない?」

「いえ、それを黙っていたことが問題でして」

発覚したのは一昨日だ。

それからみゃーはおせちを作り出し、昨日の朝、家を出た。

勿論、おせちの材料の買い出しや下準備はもっと前からやっていたから、作らなきゃ勿体無いというのもあるが、きっとそれだけで作ったのではない。

「うーん、自分が悪くないなら黙っていたい気持ちも判るけど……問題は、どれだけスキンシップしたかよね?」

「それも記憶に無いそうです。ただ」

「ただ?」

「隣家のおじさんの話によると、俺には愛する妻がいるんだ! とわめいて周りをシラケさせていたようです」

「だったら」

「ですから、黙っていたことと、断り切れずに飲んで流されてしまったことに、みゃーは腹を立てたのです」

「孝介だって付き合いはあるんだし、それって厳しすぎない?」

「例えば私が友達に酔わされて、みんなと一緒にホストクラブに行かされたとします。どんな気持ちでしょうか?」

「……」

「……」

花凛ちゃんは黙り、孝介さんは悲壮な顔をする。

「更に私や友達が嘘を言い、実はホストのニイチャンにお持ち帰りされていたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか?」

「……」

「……」

「ね、どんな気持ち? 今どんな気持ち?」

私はふざけて、つい、おちょくるように言ってしまう。

孝介さんはもう虫の息だ。

ザッコ雑魚! 孝介さんザッ──あいたっ!」

なんと、花凛ちゃんに頭をど突かれてしまいました。

「美月ちゃんが孝介にとどめを刺してどうするの!」

確かに、悲壮感漂う顔から、死にそうな顔になっているのです。

「いやまあ、つまりは、どんなことがあっても、結局はその人自身を信じるしかない、ということを言いたかったのです」

「絶対に楽しんでたでしょ!」

「……それはともかく、おせちをいただきませんか?」

「こら、誤魔化すな」

「いえ、誤魔化すつもりではなく、食べれば孝介さんの杞憂きゆうだと判ると思います」

そこまで言うなら、というより、やっとありつけるといった感じで、花凛ちゃんはおせちに手を伸ばす。

「おいしー!」

たたきごぼうを一口食べて、顔が幸せになる花凛ちゃん。

孝介さんは貧乏くさい顔をして、つやつやした黒豆をお箸でまみ、みゃーに対する贖罪しょくざいに満ちた目で眺めている。

恋焦がれる相手に向けるような、自責の念をたたえた瞳が痛々しい。

「孝介さん、念のため言っておきますが、それはみゃーではありませんよ」

「判ってるよ!」

花凛ちゃんは自分で勝手に日本酒をぎ、既に数の子を二切れも食べている。

「……みゃーは、このおせちを作ってから実家に帰ったのです」

「え? 怒ってたのに?」

カラスミを発見した花凛ちゃんは、驚きと喜びの混じった顔をした。

「はい」

「それって……」

考えにふけっているようで、カラスミの旨味を味わっているようでもある。

「私はおせち料理は好きではありませんし、食材にも調理器具にも指一本触れてませんが、これにどれだけの手間と愛情が注がれているかは判ります」

「いや、美月ちゃんも少しは手伝いなさいよ! ……でもまあ、愛情の為せるわざよねぇ」

素直に彩りと味付けに感心しているようだ。

「私は甘えることと食べることで愛情を表現します。まあ、おせちはあまり好きではありませんが」

「……美月」

やっと黒豆を口にした孝介さんが私を呼ぶ。

「はい」

「お前は……怒ってないのか?」

私自身、不思議なことだが腹立ちのようなものは無い。

「たぶん、普段の役割を考えると、こういうときに怒るのはみゃーの役割で、私は甘やかすのが役目ではないでしょうか」

「いや、役割とか役目とかじゃなくて、お前の素直な感情はどうなんだ?」

「……まあ、ゴムに穴を開けておいたり、料理にスッポンエキスを混ぜたりしてやろうかとは思っていますが」

「いや、するなよ!?」

「では、一つ我儘を言いましょう」

「なんだ?」

「本年もよろしくお願いします」

「っ!」

ありきたりな挨拶をしただけなのに、孝介さんが顔を赤らめる。

まあ、その一言に、全てを委ねる意味合いが含まれていたりしますが。

あ、みゃーからメッセージが来た。

届いたのは、私が孝介さんにした挨拶と殆ど一緒のシンプルな言葉。

ほぼ同時に孝介さんのスマホも受信音が鳴る。

きっと孝介さんにも、同じ言葉が届いている筈だ。

私もみゃーも、また新たな一年をあなたと一緒に積み上げるのです。


花凛ちゃんが、「私にはメッセージが来ないー!」なんてねてたけど、花凛ちゃんには年賀状を出したからじゃないかなぁ。

そのことを、私も孝介さんも黙っていたりするのですが。

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