第18話 ファーブルと私

孝介さんが、部屋の整理をしていたらファーブル昆虫記が出てきた、と言った。

小学生の頃に読んだことがあるらしく、当時のことを思い出したのか、彼の顔はちょっぴりはしゃいでいるように見えた。


雨が降った日、私は蔵に閉じこもってそれに読みふける。

微かなカビのような匂いと、雨の音、裸電球の光が包む空間は、しばし私を空想の世界へと連れ出す。

せた紙と手あかの汚れ、所々のぺーじには折り目がついている。

ただの文字の羅列が意味を持ち、その意味の向こうに少年時代の孝介さんが描いた情景が見えてくる。

彼が興味を抱いた部分、彼がワクワクしたであろう箇所が読み取れる。

いつしか私は、少年である彼と、少女になった自分とで、野山を駆け、虫を追い、泥だらけになって遊んでいた。

それは、なんと至福なひとときであろう。


蔵の扉が開く音がして、曖昧あいまいだった雨粒の音が、輪郭を持って伝わってきた。

「美月、面白いか?」

孝介さんの声。

身体を起こして一階を見下ろすと、孝介さんの笑顔がある。

至福といえば、今もまあ至福なのですが。

「読んでいて感心しました」

「へえ、どんなところに?」

孝介さんが梯子はしごを上ってくる。

「世の中には、こんなにもひまな人がいるものかと」

「そこかよっ!」

いや、実際、これだけの観察記を書こうとすれば、ちょっとやそっとの暇さ加減では追いつかないのでは?

「でもまあ、暇を持て余してたわけじゃなくて、それなりに苦労していた時期も長かったみたいだぞ?」

孝介さんが私の隣に座り、本をのぞき込んでくる。

「ちょっと、読みにくいのです」

そう言って孝介さんを押し退けると、彼は悲しそうな顔になる。

ふふふ、犬みたいで可愛らしいのです。

私は立ち上がり、胡座あぐらをかいた孝介さんの脚の上に座り直す。

後ろから、だっこされてるみたいな体勢。

「これでどうですか?」

私の肩越しに本を見て、孝介さんはまた笑顔になった。

「うん、見やすいな」

温かく包まれているようで、私は居心地がいいのです。

「ファーブルは日本では有名だけど、本国フランスではほとんどの人が知らないらしい」

「そうなのですか?」

「うん。日本では児童書として、どこの学校の図書館でも置いてあるけれど、フランスでは専門書の分野だそうだ」

「なんと、私は専門書を読み耽っていたのですね」

孝介さんが、また笑う。

漏れる息が、私の耳をくすぐる。

「新聞で読んだんだけど、アメリカの女の子だったかな、小さい頃から虫が好きで、変人扱いされてた子がいて」

「私も変わった子扱いですが?」

「変わった子で済むのは日本だからだよ。変人と変わった子は違う」

「どのように?」

「変わった子は個性豊かと言い換えることができるし、それを魅力的ととらえる向きもある。でも変人は、個性の範疇はんちゅう逸脱いつだつしているだろ?」

「なるほど。ではどうして、日本ではそうなのですか?」

「虫をでる文化は、日本以外ではあまり無いんだ」

「愛でる?」

気持ち悪がる人の方が多いと思いますが。

「鈴虫や蝉の声に情緒や風情を感じたり、蛍狩りをしたり、夏休みに昆虫採集をしたり、っていうのは、もはや日本の文化と言っていい」

そういえば、外人さんには蝉の声が雑音に聞こえる、と聞いたことがある。

勿論、私達だってうるさく思うことはあるけれど、その声の向こうに、夏の緑と青空、まぶしい光が見えてくるのは確かだ。

夕焼け空に飛ぶ赤トンボや、カゲロウのはかなさ、虫とは違うけどカエルの合唱も、何かしらの感覚を連れてくる。

情景や情感といったものが、虫の声や、虫の姿と重なるのは、つちかわれてきた文化や、先人達の感性の積み重ねなのかも知れない。

「そのアメリカの女の子だけど、大人になって日本に来たんだ」

「それで、どうなったんですか!?」

私は振り返って孝介さんの目を見る。

続きが気になる。

その子が、日本で何を感じ、何を見たのか。

アメリカでは否定されたその子が、何を得たのか。

「虫取りしたり、声に耳を傾けたりする文化に感動して、更に、ずっと変だと否定され続けてた自分というものを、肯定的に見られるようになったみたいだよ」

全く縁の無かった遠い国に、自分を受け入れてくれる価値観が存在した。

何となく、私に共通する部分があるようにも思える。

私に否定的だった家庭から、共通項なんて無さそうな、歳の離れた存在。

そんな男性が、どういうわけか私に価値を見出みいだしてくれた。

「個人の自由、個性や多様性を尊重する国のようでいて、所詮はアメ公なので──痛っ!」

「そういう言い方はやめろ」

孝介さんは、私なんかよりずっと教師に向いているのかも知れない。

授業内容から脱線して、興味深い話をしてくれて、こっちが調子に乗ると優しく叱ってくれる。

「まあ、女の子が虫を好きになってもいいし、男の子が花を好きになってもいい。どっちも素敵なことなのは確かだけど、それを否定する人を、単純に否定するのは違うだろ?」

「価値観を否定する人の価値観を否定するなと?」

「難しいことだけどな」

何故か、頭を撫でられる。

もしかしたら、私達三人の価値観のことを言っているのだろうか。

私達を否定する人は沢山いるだろう。

でも、それらの人をかたくなに否定していたら、軋轢あつれきが生まれるばかりだ。

「孝介さんは、小学校の先生みたいです」

「いや、そんな立派なもんじゃ」

また、私の妄想がはかどってしまう。

孝介さんが先生で、私が小学生……何それ、萌える!

いっつも先生を困らせる、小生意気な生徒。

でも、どこか危なっかしくて、目が離せなくて、いつしか禁断の恋に──

「あいたっ!」

なぜ頭を!?

「良からぬことを考えてただろ?」

「孝介さんが小学校の先生で、私が生徒だったらってことを考えていました」

「……そんな出会い方をしていたら、どうなっていたかな?」

年齢差からすれば、その可能性はゼロではない。

孝介さんの通っていた大学には、教育学部もあったようだし。

「多分、同じですね」

「え?」

「小学生の私は、先生である孝介さんに恋をして、先生である孝介さんは、小学生の私に恋をするのです」

「そっか……うん、そうだよな」

「……ロリコンですか?」

「ちげーよ!」


ファーブルは、昆虫だけでなく、植物や、あらゆるものに対して博学だったという。

私も、あらゆるものに対して興味を抱き、博学でありたいと思う。

そして、そうであってもファーブルが生涯を昆虫にささげたように、私も生涯を孝介さんに捧げたい。

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