第17話 怪我と頑張り

黄金こがね色に染まった田圃たんぼを、あぜに咲いた彼岸花が赤く縁取ふちどる。

稲刈りはもうすぐだ。

大学はまだ休みだけど、慌ただしくて賑やかな、農村の秋の始まりを感じさせる。

私もみゃーも、普段はそんなに農作業を手伝うわけじゃないけれど、日に日にこうべを垂れる稲穂を見ていれば、やはり喜びとしか言えない感情に満たされる。

秋は実りの季節なのだと、そう実感する。

「あらタマちゃん、どこ行くの?」

顔見知りの農家のおばさん。

「山へしば刈りに」

山に行くのは本当だが、私は手ぶらだ。

木をったりするわけじゃない。

「頑張ってね」

……ツッコまれない。

田舎は純朴な人が多いのです。


てくてく歩いて山ぎわへ。

休耕田が目に付くようになり、ススキが田を埋めている。

雑草のように道端に咲くリンドウ。

暁天ぎょうてんの星みたいなアケボノソウ。

田畑も山も、慌ただしく秋へと装いを変えていく。

「タマちゃん、山に入るのか?」

顔見知りの山仕事のおじさん。

「昆虫観察に」

これは本当だ。

植物観察も含まれているけれど。

「気を付けてな」

「どうも」

相変わらず、気のきいた返事も出来ずに通り過ぎる。

でもまあ、少しは顔も広くなった。

人見知りでぶっきらぼうな私は、ちょっとだけステップアップした。

……のかな?


トンボを追い、蝶々を追って山を歩く。

まだまだ私の知らない虫達がいて、まだまだ私の知らない花達が咲いている。

林道から外れ、私の知らない山道に入る。

澄んだ水のせせらぎが辺りにこだまし、木漏れ日は水面みなもみたいに揺れる。

人目の無い山の中で、私は羽を伸ばして、知らないことのあふれる世界を飛び回る。

狭かった私の世界が、広がっていく感覚。

……ん?

不意に耳に届く異音……ヤツだ!

爆撃機のような重低音の羽音が、穏やかだった山の空気を震わせる。

ヤバい。

ヤツはヤバい。

人間を全く恐れず、ただの羽音でさえも威嚇いかくしてくる。

周囲を旋回しつつ近付いてくるスズメバチの羽音に、私はダッシュで逃げ出した。

段差を飛び越え、木の枝を避けて走る。

闇雲やみくもに逃げればいいというものでもないのは判ってるけど、あの音から遠ざかりたい一心で身体が動いてしまう。

だが、私は運動神経が鈍くドジである。

あっ、と思った瞬間には、石につまずいて盛大にけていた。

あいたたた……。

危うく地面とキスするところだった。

あらら……ひじを擦りむいてしまいました。

日中は、まだ半袖でも過ごせる暑さだけど、山に来るときは長袖にした方がいいな。

肘に滲む血を見てそう思う。

幸い、スズメバチはどこかへ行ってしまったようで、静かで優しい山の空気を取り戻している。

さてと──

「っつ!」

立ち上がりかけて、足首に走った痛みに思わず声を漏らした。

ひざを抱えるようにうずくまり、しばし地面と睨めっこ。

肘の痛みのせいで気付かなかったけれど、どうやら足をくじいていたらしい。

逆に今は、肘の痛みの方がどこかへ行ってしまった。

……。

……。

困ったなぁ。

立ち上がろうとすると、脚が痛みから逃れるようにカクンとなってしまう。

何度か尻餅をついて、途方に暮れて空を見上げる。

木々の間から見えるそれは、高く澄み渡って、ぽかんと見入ってしまうくらいに青かった。


私は信心深いわけではないけれど、田舎というのはそこかしこに信仰対象がある。

道端のお地蔵さん、大木の根元の小さなほこら、池のほとりには水神と彫られた石があったり。

「道中安全を願うべきでした」

腫れ上がった右の足首を見ながら溜め息をく。

そもそも、ちゃんと立ち止まって手を合わせることすら少ない。

心の中で、お願いします的なことを呟いて、ただ通り過ぎることがほとんどだ。

でも、今さら悔やんでも仕方がない。

私はスマホを取り出し、ここが圏外であることを確認する。

時刻は十六時過ぎ。

空に、日中のまぶしさは無い。


……立たねば。

立って歩いて帰らねば。

私を大切すぎるくらいに大切にし、過剰なほどに心配性である孝介さんを、決して不安にさせるようなことがあってはならない。

本当ならあの人は、私達をかごの鳥のように守っていたいのだ。

どんな危険からも遠ざけておきたいのだ。

……私は、丈夫そうな木の枝を拾った。

それをつえ代わりにして、右足に体重をかけないように立ち上がる。

とても不安定で、覚束おぼつかない足取り。

でも、林道に出れば何とかなりそうだ。

「あっ!」

また転けた。

右足をかばいながらだから、さっきより不自然な転け方になってしまう。

「っっ!!」

激しい痛みに、挫けそうになる。

でも、起き上がろうとして、首に着けたチョーカーの鈴がちりんと鳴った。

……あなたの美月は強い子です。

かつて孝介さんに、そんなセリフを言ったことを思い出した。

あの頃より、私は強くなったはず

甘えん坊になった自覚はあるけれど、それとは違った次元で、私は強くなった。

守りたい生活が出来て、心配をかけたくない人がいる。

日が暮れても私が帰らなかったら、孝介さんは私を探し回るだろう。

それこそ半狂乱になって駆けずり回るかも知れない。

声がれるまで私の名前を呼ぶかも知れない。

そんなことはさせたくない。

大切な人を喪う不安を、もう二度とあの人に味わわせたくはない。

だから私は、少なくとも電話の繋がるところまでは、どんなに痛くても、何度転けようとも、この足で歩くのだ。


林道に出た。

谷間を流れる空気が肌寒く感じられた。

山の夕暮れは早い。

木々の奥には、既に夜の気配が様子をうかがっているように思える。

あせるな。

空を見上げれば、まだ充分に明るい。

ゆっくりでも着実に足を運べば、日が沈む頃には家に辿り着ける距離だ。

歯を食い縛りながら、ひょこひょこと足を動かす。

一歩進む度に家は近くなる。

家に帰ったら、みゃーにしかられて、それから孝介さんに甘えよう。

足を挫いたことは隠せないだろうから、家の近所で転けたことにしよう。

少しは心配させてしまうだろうけど、大きな不安を与えてしまうことは回避できる。

美月は仕方ないなぁ、という顔をして、きっと甘やかせてくれるのだ。

くふふ。

思わず頬が緩み、その途端に痛みで顔を歪める。

……ん?

近付いてくる軽トラの音。

孝介さんの軽トラの音じゃないけれど……。

「タマちゃん」

頑張ればむくわれるのかな?

さっきのおじさんが、軽トラの窓から私を呼んだ。


案の定、家に帰った私をみゃーが叱り、そしてちゃんと治療してくれる。

「痛い痛い!」

消毒液が沁みて、私は悲鳴を上げる。

「じっとしなさい!」

……みゃーは心に鬼を宿した天使なのです。

「もう、女の子なのにこんなに傷だらけになって」

お母さんみたいなことを言って溜め息を吐く。

けれど、何となく事情を察してくれたのか、孝介さんの軽トラの音が聞こえると、ニッコニコの笑顔を浮かべて言った。

「さ、思いっ切り甘えたらいいよ」

では、お言葉に甘えることに致しましょう。

みゃーにも甘え、孝介さんにも甘えるのだ。

普段なら玄関まで迎えに出る私。

「美月は?」

という声が聞こえ、

「近所で転けて足を挫いたみたいよ」

と説明するみゃーの声。

少し足早に近付いてくる孝介さんの足音。

「美月、大丈夫か?」

居間に顔を出した孝介さんに向かって私は言う。

「孝介さん孝介さん、だっこ!」

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