第11話 日常会話と笑顔

「タニシの子、そこのけそこのけオタマが通る」

田圃たんぼの横の溝に沿って歩きながら、私がそんなことを言うと、孝介さんは子供を見るような目で微笑んだ。

む。

子供扱いされるのは不本意なのです。

「そこのけそこのけアソコの──痛っ!」

大人のギャグを言えば、頭を叩かれてしまうのは何故なのか。

「小林一茶を愚弄ぐろうするな」

別に愚弄するつもりは無いのですが。

「そういえば孝介さん」

「なんだ?」

「以前の私は、孝介さんにさんざん童貞くさい顔とか言いましたが」

「……ボロクソに言われてた気もするな」

「去年、卒業されたのに顔つきは変わりませんね」

「変わってたまるかっ!」

なんと、童貞くさい顔を誇りに思ってらっしゃる?

「三重苦を背負ってらっしゃる、とも言いました」

包茎、短小、早漏。

それら全てが当てまらなかったけれど、まあそんなことはどうでもいいのです。

アレは飛び道具のようなものに違いは無いのですから。

「とびどぐもたないでくなさい」

「今度は宮沢賢治か?」

美月は賢いな、という目をして笑う。

そんな目をされると、子供扱いされるのも悪くはないのです。

「たんたんたーにしーのキンタ──痛っ!」

「やめい!」

童心に帰って歌ってみたのに、頭を叩かれるのは何故なのか?

「そういえば昨日、とても腹の立つことがあったのです」

「珍しいな。何があった?」

「冷やかしに無人販売所をのぞいていたのですが」

「店員がいるわけじゃないし、冷やかしってのも変だけどな」

「そこへ見たことのある農家のお婆さんが冷やかしに現れたのです」

「いや、何か買うつもりだったんじゃないのか?」

「冷やかし婆さんは言いました」

「無視かよ」

「あー、孝介さんとこの二番目の奥さん」

「……」

「冷やかしとんのかと」

「あー、そっちの冷やかしね」

「私は思わず棚に並んでいたトマトを、スプラッターばりに叩きつぶしてしまいました」

「いやいや、婆さんも悪気は無いと思うぞ」

「冷やかしのつもりが、トマト代を支払うことになってしまいました」

「なるほど、婆さんの言葉と要らぬ出費、二重に腹が立ったんだな」

「違います」

「え? じゃあ何に腹が立ったんだ?」

「その冷やかし婆さん、何も買わずに去ったのです!」

「二重の冷やかしかぁ」

「何がおかしいのですか?」

「いや、まあ」

「どうも孝介さんは笑いのツボがズレているようです」

「そ、そうか」

「先日も確か、みゃーとテレビで同じシーンを見て笑ってましたよね」

「そうだったか?」

「いったい何が可笑しいのかと二人を観察してましたが、え、ここで笑う!? といったところで笑うので、見てて可笑しかったです」

「お前の笑いがズレてるだけじゃねーか!」

「……二対一とは卑怯なり」

「いや、どっちがズレてるかって話なら、多い方が勝ちだろ」

別に勝ち誇ってるわけでも、何か可笑しいわけでも無いのに孝介さんは笑顔だ。

考えてみれば、本当にいつも笑っていることが多い。

みゃーのニッコニコが感染したのかも知れない。

「そういえば、もう一つ腹立たしいことがあったのでした」

「うん、腹が立ったことは、誰かに話した方がスッキリするぞ」

「ハエトリグモのことですが」

「ハエトリグモ?」

「数日前から、トイレの窓際の壁にちょこんとへばりついていたのですが」

「あー、アイツね」

「ハエトリグモ、可愛い、で検索すると、ハエトリグモがいかに可愛いかを書き連ねた記事が多数ヒットします」

「マジか?」

蜘蛛くもは嫌いでもハエトリグモだけは許せるという人が、世界に七十億人以上いるといいます」

「ほぼ全人類かよ」

「孝介さんも後で、ハエトリグモの求愛ダンスの動画でも見てください。愛くるしいほどです」

「へー、面白そうだな」

「で、その子が数日前からトイレの壁に現れて、毎日じっと動かず獲物えものが来るのを待ち受けていたのです」

「確かに、毎日ほぼ同じ場所でじっとしていたような気がするな」

「根気強いその姿は、いじらしくもあり、健気けなげでもあり、生きることの大変さをも伝えてきました」

「そこまでかよ」

「今日はエサに出会えた? お腹空いてない? 退屈じゃない? なんて心の中で話し掛けたりしていたのですが」

「うん」

「まあ、私の方は用を足しながらという不謹慎な態度だったりしますが」

「いや、それはいい」

「用を足しながらだと、窓のある後ろを振り返って見ることになるので、なかなか厳しい体勢にもなるのです」

「いや、それもいらん情報だ」

「美月ちゃんのおトイレ事情がいらないとは、なんと無欲な」

「いいから続けろ」

「それでですね、今朝、親交を深めていたハットリくんが見当たらなかったんです」

「ハットリくん?」

「その子の名前ですが?」

「あー、ハエトリを縮めてハットリね」

「彼もその名前を気に入っているようでしたし、私に黙ってどこかへ行くとは思えませんでした」

「いやいや、待ち伏せ場所を変えたんだろ。生きるのに必死だろうし」

「……」

「どうした?」

「みゃーに訊いたんです」

「何を?」

「トイレにいたハエトリグモ知らない? って」

「知ってたのか?」

「何の蜘蛛かは知らないけど、トイレにいた蜘蛛ならトイレットペーパーにくるんで流したよ? って」

「……」

「許すまじ!」

「いや、美矢のしたことは主婦として普通のことで、そこは責めてやるなよ」

「責めてません」

「え?」

「ちゃんとみゃーに話しておかなかった自分に腹が立っているのです」

「……そっか」

大きな手が、私の頭をポンポンと叩く。

孝介さんは、面白くもない私の話を聞いている間も、ずっと笑顔だ。

楽しそうな笑顔、優しそうな笑顔、呆れたような笑顔、からかうような笑顔。

とにかく、ありとあらゆる笑顔で私の言葉に返事する。

だから私は、ついつい饒舌じょうぜつになって、つまらない話を聞かせ続けてしまう。

「私の話は、退屈ではないのですか?」

「いや、美月の話は面白いよ」

「やはり色々とセンスがズレていらっしゃる」

「興味深いし、感じ入るものがある」

今は、いたわるような、いつくしむような、そんな笑顔だ。

私の話が、私の態度が、私という存在が彼を笑顔にしているのなら、こんなに嬉しいことは無いけれど、どうなんだろう?

「あ」

「どうした?」

「孝介さん、見てください! ここに孝介さんより立派なタニシが──あいたっ!」

「そんなタニシはおらん!」

私は孝介さんの顔を見上げる。

こんな風に時々見せる怒った顔も、私の大好きな日常をいろどってくれる。

私の日常は表情豊かに私を包んで、いつしか私の顔もほころばせてしまうのだ。

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