第10話 ラジオ体操とサツキちゃん

朝早くに目覚め、六時前に畑に向かう孝介さんを見送ると、私は一人で散歩に出掛けることにした。

トレードマークの麦わら帽子をかぶり、朝から元気なせみの声を浴びて歩く。

おや?

神社前の駐車スペース? 的な広場でラジオ体操をしていた。

爽やかな調子がむし鬱陶うっとうしく思える体操のお兄さんの声は、周囲にこだまして暑苦しい夏の風物詩的な何かをかもし出している。

そういえば、友達のいなかった私はラジオ体操に参加したことが無かったなぁ……。

「おー、タマちゃん、おはよう!」

聞き覚えのある声が、私に挨拶してくる。

「おはようございます」

「何で年上なのに敬語かなぁ」

不服そうな声に、私は笑みを返す。

「どうしてこんなところに?」

「あ、妹がいるから、それに付き添ってるだけだよ」

体操をしている集団、といっても十人にも満たないけど、その中にいた少女がこちらを見て人懐ひとなつっこい笑顔を浮かべた。

あれ? どこかで見た笑顔に似ている。

「どこかでお会いしたことが?」

「妹とは初対面じゃないか?」

確かにそうなのだろう。

けれど、お姉さんである女性とは、初対面とは思えない親しみを感じる。

「えっと、あなたは?」

「私もかよ! 一緒にホタル見たじゃん!」

「あ、あー、サツキちゃん? 髪色が黒いので判りませんでした」

「そういやそっか。あん時は金髪だったもんな」

あの時も笑えばあどけない表情だったが、照れ臭そうに髪をいじる仕草は本当に子供っぽい。

多分、まだ高校一年生くらいなのだろう。

「どうして髪を黒く?」

今は夏休みだ。

普通は夏休み中だけ髪を染めたりするものだと思うけど。

「え? あー、えーっと、なんつうか、一週間前にオヤジが死んじゃってさ、さすがに葬式に金髪は駄目だろってそんときに……」

……こういうとき、私はつくづく自分が子供だと思う。

どんな言葉を返せばいいのか、何をすればいいのか判らない。

御愁傷様です、と言うのは何か違う。

そんな社交辞令のような余所余所よそよそしい言葉は相応しくない。

かといって、抱き締めたり一緒に悲しむほど近しいわけでもない。

たった一度だけ、蛍を見に行っただけの間柄だ。

「ちょ、そんな顔すんなって。オヤジっつっても、ろくに仕事もせず昼間から飲んだくれてるようなヤツだったしさぁ……」

口調はおどけていたが、哀惜あいせきの念がにじんでいるようにも聞こえる。

「まあ……飲んだくれではあったけど機嫌のいい酒で、昼間っから酔っぱらいながら子供と遊んでるような人だったし、要はなまけ者っていうか、生活力の無い困ったオヤジだったんだよ……」

お金を持っていても愛情をそそがなかった人。

働きもせずに子供を可愛がった人。

どちらがいいか、なんて考えるのは不謹慎だろうけど、子供にとっては可愛がってくれた人がいなくなるのは寂しいに違いない。

「だからまあ、妹にとってはショックだろうしさ、こうやってがらにもなくラジオ体操なんかにも付き合ってやってるんだけど……タマちゃんは何しに?」

「え? 私は朝の散歩というか……そうだ、一緒にお参りをしましょう」

最近、気付いたのだが、緑に覆われた神社というのは癒しの空間だ。

優しい空気に包まれているような安心感がある。

「あ、いや、身内が亡くなったときは、鳥居をくぐったら駄目だろ?」

何を言っているのだろうか、この小動物のように可愛いヤンキーさんは。

「あれ? 知らない? 喪中の間は神社にお参りしたら駄目なはずなんだけど」

「……マジですか?」

「マジマジ」

「ローカルルールとかじゃなくて?」

「うん。喪中と忌中の違いとかはあったかもだけど」

どうして──

「それっておかしいじゃないですか!」

どうして私は、大声を張り上げてしまったのだろう。

「いや、おかしいって言われても……」

どうして私は、こんなにも感情が乱れるのだろう。

「大切な人がいなくなったのに、心が弱っているときに、どうして神様のところへ行っちゃいけないんですか!」

「なんか、死はけがれだから、神聖な場所に立ち入ってはいけないとか……」

私はいつから──

「穢れってなんですか! 悲しいときに頼れなくて何が神様ですか! そんなのおかしい!」

「ちょ、タマちゃん、落ち着いて」

いつからこんな風に、何かのために腹を立て、誰かのことで悲しむようになったのだろう。

……いつからってことはないか。

みゃーと出会い、そして孝介さんに愛された時からに決まっている。

誰かに愛された時から、自分のことを大切に思えるようになる。

そして、他の誰かのことも大切にしたくなる。

孝介さんは以前、私達と出会う前は何も無かったと言っていた。

遊ぶこととか、何かの出来事のある無しではなく、心が無いのだと。

感情の起伏が無くなり、何を見ても何をしても、心が動かないのだという。

そしてそれは、私にもよく判ることだった。

私の心は、二人に愛された時から動き出したんだ。

嬉しいことを嬉しいと感じ、悲しいことを悲しいと感じる。

笑って、泣いて、怒って、また笑って……。

「タマちゃん、いいから」

「そうじゃなくて!」

悲しいことなんて、一つも無い方がいいに決まってる。

でも、悲しいことは必ず訪れるわけで、だとしたら私は──

私は、どうしたら?

「いるかいないか判らない神様なんかよりも、タマちゃんが一緒に悲しんでくれて嬉しいよ」

「でも!」

「ありがとう」

なんで私が抱き締められているんだ。

年上なのに、悲しいのはサツキちゃんなのに。

あ……。

私は胸を貸すことが出来ただろうか。

私の胸の中でサツキちゃんは嗚咽おえつを漏らした。

私はその小さな背中を、そっと抱き返した。

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