第5話 感謝と愛情

「お母さん、行ってきます」

「ええ」

良かった、気付かれなかった。

元より、あの人は私の顔なんて見てないから、気付きようなど無いのかも知れないけれど。 

通学路の途中に、柿の木のある大きな家があった。

私は道路にまで張り出した枝先にある、豊かな橙色の実を見上げた。

去年もそうだった。

やがて路上に落ちて、踏まれて崩れて、跡形も無くなる。

いったい、何のために実ったのだろう。

「お嬢ちゃん、その柿、あげましょうか?」

民家から出てきた上品なおばさんが、微笑みながら声をかけてきた。

私は駆け出す。

厚意を向けられると、どう対処していいか判らない。

熱のある身体は、すぐに足が重くなってしまい、私は歩みを止める。

振り返っても、もうおばさんはいない。

私は再び、学校に向かって歩き出す。

ランドセルも、いつもより重かった。


「こーすけ君、行ってくるねー」

「おう、気を付けてな」

珍しく、孝介さんが私達よりゆっくりしている。

いつもなら既に畑に出ている時間だが。

「ではでは、行ってまいります」

「お前は待て」

「え?」

孝介さんは強引に私を引き寄せる。

みゃーも怪訝けげんな顔をした。

孝介さん、いくらもよおしたからといって、みゃーの前で強引に犯すのは御法度ごはっとです。

そんなことを思いながら身構えていると、その大きな手が伸びてきて私のひたいに触れた。

「え?」

「やっぱり熱いじゃないか」

「え?」

「さっさと布団に入って寝ろ」

自覚が無かったが、どうやら私は熱を出していたようだ。

「ふふ、体温が高いときにすると気持ちがいいそうですが、朝からいっぱつ──あいたっ!」

病人を叩くとは鬼畜の所業なのです。

諸行無常なのです。

あ──

何故か、いつかの柿の実が脳裏に甦った。

見捨てられて、ち果てて、誰にもかえりみられずやがては消える。

ふわりと重力が無くなったような感覚がして、私は孝介さんに背負われた。

軽々と、でも慎重に階段を上る。

「どうせならお姫様だっこが」

自然に我儘わがままが言える。

隠す必要は無い。

「お姫様だっこで階段を上るのは、さすがにキツイから我慢しろ」

うん、今は、この大きな背中が感じられる方がいいかなぁ。

私はお日様の匂いがする布団に寝かされ、枕元には水とお薬と、その他諸々が置かれる。

至れり尽くせりなのです。

学校の保健室とは違って、ここは暖かい空気に満ちていて、私はすぐに眠りに落ちた。


昼過ぎに目を覚ます。

隣では、畳の上で孝介さんが眠っている。

幸せそうな寝顔です。

寝そべったまま見る窓の外には、晴れ渡った青空に、消え入りそうな淡い月が見えた。

「孝介さん」

起こすつもりは無いから、これは独り言だ。

「月が綺麗ですね」

あの路地裏で見た月を思い出す。

孝介さんの寝息が、私の耳をくすぐる。

「月が、とてもとても、綺麗ですね」

婉曲えんきょくな表現でありながら、最大限の表現を口にする。

何故か私は、涙をこぼしていた。

そしてあなたは、眠りながら柔らかく微笑んでいた。


次の日には絶好調になっていた。

私はみゃーを先に学校に行かせ、一人で寄り道をする。

木々の間を抜ける坂道を上り、やがて視界が広がる。

青々とした田圃たんぼと、点在する民家。

その中に、私の家もある。

そう、私の家だ。

私達の家だ。

そして──私は墓地の中へと進み、一つのお墓の前で腰を下ろす。

私達の、お墓だ。


熱を出しても隠す必要も無い。

誰かの手をわずらわせることを遠慮する必要も無い。

私は我儘を言い、甘えることが出来るようになった。

今なら柿の実をちょうだいと言えるだろう。

熱を出したなら、布団に入ったまま、「お腹が空いた」「ジュースが飲みたい」と言えてしまう。

まるで子供の頃に出来なかったことを、やり直すみたいに。

でも、どうしても上手く出来ないことがある。

感謝と愛情を、どう表していいのか判らないのだ。

「こんな時、どうすればいいのでしょう」

私はお墓に語り掛ける。

孝介さんの両親の顔は、たくさんの写真を見て色んな表情を知っている。

なのに、語り掛けても笑顔しか返ってこない。

「添い寝してくれている息子さんの息子をいじったら、頭を叩かれてしまいました」

おや、苦笑が返ってきたような。

「親に愛されなかった子供は、人を上手く愛せないと聞いたことがあります」

あらあら、そんな顔はしないでください。

私はちゃんと人を愛することが出来て、ただそれが上手く伝えられないだけなのです。

そう言えば、あの公園で私は、好きって言ったのでした。

顔が熱くなる。

でも、あの頃より遥かに大きな想いを私は持て余している。

「もしあなた達が生きていたら、私は真っ先にありがとうと言いたいのですが、そんな気持ちを孝介さんに伝えるのは、何故か難しいのです」

またいつもの笑顔に戻った。

そのままでいいと言われた気もする。

「お義父さん、お義母さん」

そう呼べるだけで、私は幸せになる。


「あ!」

軽トラが坂道を上ってくる音がした。

私は立ち上がって駆け出した。

音だけで孝介さんの軽トラだと判る。

ほら、墓地の駐車場に入ってきた車は、見慣れたいつもの軽トラだ。

「孝介さん孝介さん、どうしてこんなところに?」

私は運転席のドアに飛びつくように話し掛ける。

「それはこっちのセリフだ。大学はどうした?」

「行くつもりでしたが、気が付けばお昼に」

孝介さんはあきれ顔をしながら、私の頭をポンポンと叩く。

「弁当があるときは、よくここで食ってるんだよ」

昨日は寝すぎたので、今朝は誰よりも早く目覚めた。

だから私が、珍しく三人分のお弁当を作ったのでした。

「一緒に食うか」

「はい」

私は尻尾を振るように返事する。

……尻尾があれば、いいのになぁ。


「いかがですか? タマタマゴは」

今回のだし巻き卵は自信作なのです。

いつもネットで調べてレシピは完璧なのに、技術が追い付かず、不本意な出来ばかりでしたが。

「いつも美味いぞ? 今日は見た目も完璧だけど」

「隠し味に唾液を混入させているのです」

「……」

「唾液というのは嘘でして、実は愛──」

「判ってるよ。いちいち唾液とか言わず、愛情を込めたって言えばいいんだよ」

え? 愛情?

愛液と言いかけたのですが。

でも、孝介さんは照れ臭そうに私の頭をワシャワシャする。

……そうか、何もありったけの思いを言葉にたくす必要は無いんだ。

無尽蔵に溢れる愛情は、そこかしこに、それこそ全てのものにと言っていいくらいに、散りばめられ、託されているんだ。

「孝介さん孝介さん」

私ははしゃいでいる。

「ん?」

「ほら、あーん」

孝介さんが照れながら口を開く。

このお弁当にも、この動作にも、私の笑みと孝介さんを見る瞳にも、この私の全てに、感謝と愛情がつまっているんだ。

「孝介さん孝介さん」

そう呼ぶ度に、私は「愛してる」と伝えているんだ。

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