第4話

 ここから先の話は蛇足である。


 江川卓は、このシーズンが終わると同時に引退を発表した。最後のシーズンは13勝5敗。32歳という年齢だった。


 じいさんのいう通り、もう野球には未練が無かったのかも知れない。監督はおろか、コーチとしても、ユニフォームに袖を通すことは、二度とは無かった。


 止める際にも多少のゴタゴタがあったが、「まあ江川らしい」と、じいさんは一言で片付けた。


 じいさんは、今でも野球を見続けている。今の野球は面白い、が口癖だ。


「やっぱりメジャーリーグってのは、大したものだな。江川の球は浮くって言っただろう? あれは、今の球種で言ったらフォーシームだ。球の回転数まで計測して記録するんだ。野茂がメジャーに行ってなかったら、日本の野球は、どれくらい遅れていたことか。面白いものだなあ」


 とのことだ。セイバーメトリクスという指標を使って、私が帰るたびに新しい発見を教えてくれる。その話は、いずれここで書きたい。


 江川は、解説者としても、タレントとしても、いまだに良い評価を受け続けている。「江川事件」の当事者、小林繁とはCMで共演を果たした。私はそのことで江川事件を調べ直し、そんなことがあったんだ……と、ものすごく驚いた。


 小林繁は亡くなり、江川本人も、すでに白髪のお爺さんとなっている。


 江川の引退について、最後にじいさんの見解を書いておく。


「巨人の本拠地が、後楽園球場じゃなく、東京ドームになることも、江川が辞めた原因のひとつだろうな。後楽園のナイターと比べたら、球場全体の明るさがケタ違いだ。暗闇の中から、球をすっ飛ばす、という技術が、シーズンの半分では使えなくなる。このことを、江川くらいの人間が、分からなかったはずがないな。


 おれは江川を悪人とは思ってないけど、例えば原辰徳が太陽の似合うヒーローだとすれば、江川は闇から来た化け物だ。ヒールだ。そう考えれば、甲子園では優勝出来ないのも分かる。早慶戦で大学野球の大トリを務められなかったのも分かる。沢村賞を、結局取れなかったのも分かる。そういうのは、ベビーフェイスのヒーローが取るのがいいってもんだ。


 それにしても、事件の時は、皆んながみんな「江川ってやな奴だよな」って、本気の表情で怒ってたけど、江川の凄さが分かって行くごとに、「江川ってやな奴だよな」って、半笑いで言うようになったのは面白かったな。実際、やな奴なんだよ。本気になったら、本当に誰も打てなかったんだから。ああいうヒールかつ、とてつもなく強い奴、次に出てくるのは、いつなんだろうな! ひょっとしたら、もう二度と、ああいうのは出てこないのかもしれないな! ああいうのがいた方が、絶対に面白いと思うんだけどな!」

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『昼と夜との間に現れた怪物』 森 桜惠 @sakurae_mori

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