第3話
9回の表が始まった。
始まった途端。今日はこれはもう駄目だ、と、大洋ファンは思ったに違いない。
この回の先頭打者、田代、三振。若菜、三振。早くにカウントを整えて、2ストライクの後は、高めの直球で空振り。バットはボールの下で空を切る。
「じいちゃん、これが浮く「変化球」なの?」
「分からん」
テレビの画面で、打者が本当にどう感じているかなんて、分かる由もなかった。それが例え、長年野球を見続けたじいさんであっても、そんなことを当てずっぽうに、答えるわけにはいかなかった。
「しかしまあ、きれいな球筋だな。ふわっと投げているように見えて、山倉の構えているミットに、糸を引くように吸い込まれているぞ。投げる側も、受ける側も、気持ちいいだろうなあ」
最後の打者、ピッチャーの遠藤に代わって代打加藤。直球見逃しのストライク、カーブは外に逸れてボール、もう一球カーブはバックネットへのファウル。
2ストライク1ボール。江川は山倉のサインに首を振る。
「浮く球、投げるかな」
「いや、投げない。次はカーブだな」
珍しく断言するじいさんの顔を見る。カーブを2球続けて投げただろう、とじいさんは続ける。
「加藤に直球が当たらないのは、もうお互い、江川も加藤も分かり切っていることだ。直球ってのは、もちろん「浮く球」も含まれている。とすると、加藤はカーブを待つしかない。江川はきっと、カーブを投げる」
「打者がカーブを待っているのに?」
「だからだよ。当ててもらえない直球を投げたって、そんな分かり切ったことは、江川はしないな。バッターがカーブを待っているからこそ、カーブを投げる。江川はそういう奴だ」
テレビ画面に映るのは、ゆったりとしたフォームから投げられる、山なりの球。カーブにタイミングを合わせていた加藤は、バットを合わせようとするものの、曲がり方が予想を超えていたのだろう。
外角低めに落ちるカーブを、あんなにも体勢を崩しながらでも、当てることすら出来なかった。三振。ゲームセット。3−1、完投勝利だった。
「相変わらずテンポのいい試合っぷりだ。大したもんだよな」
テレビから目を離さず、じいさんは続ける。
「この男は、野球に対して、もうやることなんてあるのかね。カーブ待っているベテラン打者に、注文通りカーブ放って、当たる気配すら無いんだ」
ため息のように、一息をついたあと、じいさんは続ける。
「もっと言えば……高校野球で、散々完全試合だのノーヒットノーランをやってきて、甲子園では決勝すら進めない。早慶戦で投げたいと希望していたのに、慶應には落とされる。巨人に入るのに、3回もドラフトを落ちた末に大騒動だ。ついでに、20勝もしておいて、沢村賞も貰えていない」
この男に、野球に未練はあるのかな……と、じいさんは再び呟いた。後楽園球場では、ヒーローインタビューとして江川がアナウンサーの質問に応えている。
昼と夜のあいだ、怪物と言われた男、江川は、夜なんて待たずに、簡単にゲームを終わらせてしまった。
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