第57話 エマルシフィケーション ○
離婚してから初めて彼の家に来た。
お世辞にもきれいなお家とは言えなかったけれども、意外にも部屋の中はこざっぱりと片付いていた。
「ごめんね、来るとわかっていたらもう少し片付いておいたんだけど、こういうところが、無計画だね。」
と笑いをながら彼が言った。
たしかに彼が言うとおり、前日に慌てて掃除して必要以上に片付いているとういう感じではなかった。
けれどもそれが私には逆に好印象だった。
「ううん。もっとぐちゃぐちゃだと思っていた。」
「おいおい…そりゃないよ。」
そう言って二人で微笑んだ。
結局私はいつでも自分の不安に思うことを、
先回りして。なんでもかんでも必要以上に彼に言いすぎていたのかもしれない。
「疲れてる?」
「大丈夫よ。」
「よかったらパスタ一緒に作らない?」
「うん。作りたい。」
彼が作るパスタを食べるのはいつ以来だろうか?それより一緒に料理するなんて本当に、
はるか昔の事のように思う。
私はほうれん草を洗う。
虫がついていたら嫌だし、砂が入っているかもしれないから、葉っぱを一枚一枚外して、
丁寧に丁寧に洗う。
その間に彼はニンニクを包丁の背で潰して、
手早くみじん切りにする。
それをフライパンにいれてサラダ油を……、
ん?サラダ油?!
「オリーヴオイルは使わないの?」
「うん。使ってもいいんだけどね、熱が入るとせっかくの香りが飛んでしまうんだ。
だから最初はサラダ油で充分。そのかわりじっくり熱してニンニクと唐辛子の香りをしっかりとオイルに移すんだ。」
パスタを作るのはいつも彼の役割だったからあまり気にした事がなかった。
「そうなんだ。じゃーオリーヴオイルはいつ使うの?」
「仕上げだよ。」
「そんなに沢山油を使って、お腹痛くならないかな?」
「大丈夫だよ。いつもそうしていた。」
私がほうれん草を丁寧に洗っている間に、
彼はニンニクと唐辛子の香りをひきだして、
ベーコンとキノコをカットして炒めて、
あっという間にソースを作り上げた。
その間にほうれん草を湯がくお湯まで用意した。
「ごめん。あまり手伝えてないね。」
「大丈夫だよ。君は充分やってくれているよ。ニンニクを炒めながら、ほうれん草はそんなに丁寧に洗えないからね。」
フライパンからニンニクと唐辛子、
それからベーコンとキノコの混ざり合った、
美味しそうな香りがしてくる。
「美味しそう……。」
と思わず漏らす。
茹で上がったほうれん草を絞りながら、
彼が話し始める。
「乳化ってわかる?」
「うーん聞いたことあるような……。でも説明できないわ。」
「うん。簡単に言うとね。このパスタソースはさ、塩水と油で出来ているでしょう。」
「うん。」
「でもね、水と油はさ、『私とあなたは水と油のようだ。』なんて言うように、全く混じり合わない物の表現に使われるでしょう。
けれどもいろいろな食材…このパスタソースでいえばね、ベーコン、キノコ、ニンニク、唐辛子、それからサラダ油に、塩水。いろいろな食材が混ざることで、一つソースになる事ができるでしょう。」
「うん。わかる気がする。」
「でもね、このソースはまだ完成していないんだ。」
「え?そうなの?」
ちょうどそのタイミングで、
パスタの茹で上がるタイマーがなった。
手早くザルにあげて、茹で汁を少し多めにソースの入ったフライパンにいれる…?そんなにたくさん?
「そんなに茹で汁いれたら多くないの?」
「うん。」
それを菜箸で素早く混ぜていく、
フライパンを横に揺らしながら、
とても素早く。
そうすると水と油の分離していたソースが、
少し濃度のあるもったりした物に変化していくのがわかる。
「なるほど。」
「これが乳化っていうやつだよ。でもまだ少しシャバイでしょ。」
と言いながら、茹で上がったパスタとほうれん草を投入する。それから高級なオリーヴオイルを
少し水っぽく感じた液体がしっかりとパスタに纏わりついている。
「これで完成。とりあえず話は後ね。
せっかくだから美味しいうちに食べよう!」
先程までのソースの香りが、
ヴァージンオリーヴオイルの良い香りが、
混ざり合うもう一つ高級な芳醇な香りが
食欲をそそる。
白い大きなお皿に彩りのよくパスタを盛り付ける。盛り付けてから、
「しまったなー、もう少し季節感をだして、トマトとか、甘長唐辛子とか使ったら良かった。」
などと悔やんでいたけれど、
充分美味しそうだった。
グラスにお茶を注いで、縦長の焼き魚のお皿に焼き鳥を4本ならべた。
それからこの家にはそぐわない真っ赤なローテーブルに(リサイクルショップで安く買ったらしい)食事をならべた。
ソファはあるけれどテーブルが低すぎて、
そこで座って食べるのは難しいから、
ソファの前にも二人で並ん座った。
それから二人で
「いただきます。」
と手を合わせた。
「あなたと僕はね。全く違う性格だけれど、
きっと一つ一つ丁寧に合わせていけばさ、
ひょっとしたら上手くいくじゃないかな。」
「私たち乳化するの?」
「そう。」
昼間にフォーやら生春巻きやらを、
たくさん食べたのに、
二人ともあっという間にパスタと焼き鳥も平らげた。
それからまるで示し合わせたかのように、
二人でソファに座り直した。
彼の手が私の肩を引き寄せて優しい目で私を見つめてキスをした。
柔らかい唇が私の下唇を優しく包んで、
それからねっとりとお互いの感触を確かめ合う。それからゆっくりと舌を絡めた。
その後私たちは……。
まるでそう決まっていたかのように
『Emulsification』した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます