第22話 優しくされたい ○

心機一転と思いながらもやはり一度は断念した職場だ……。なんとなく気まずい。

更衣室では鈴木に会うかもしれないし、

総務に意地の悪いお局様がいるかもしれない。頭の中には良くない想像がとめどなく流れてくる。そう思うと足取りは決して軽くはなかった。


家の中では親として気丈に振る舞っていても、外にでるとてんでだめだ。

不安の数だけ心臓が脈をうつ。

ドクン、ドッ、ドクンと早まってはおさまる。

不整脈のような不吉な振動と響き……。

嫌な記憶というのはいつまでも頭に残る…。


事務所の入り口でその心拍数の足並みを揃えるように、大きく息を吸い込んでゆっくりと深呼吸した。



「おはようございます。」


と声をかけてきたのは宮本だった。


「あっ!おはようございます。あの……。」


「謝らなくていいですよ。」


「え?」


「きっと、私のわがままで……とか迷惑ばかりかけて……とか思ってるんでしょう?」



少し明るめな声で私の気持ちを見透かされた気分だった。そう思うと心の中まで覗かれている様な気持ちになってとても恥ずかしかった。じわりじわりと自分の耳が恥ずかしさで

赤くなっていくのを感じた。


「そんなに真っ赤にならなくても……

あっ……僕なんか悪い事言いました?」


「悪い事なんて何も言ってないです。」

首を横にブンブン振ってそう言った。

宮本はフフっと鼻で笑った。


「じゃーあなたにやってもらう仕事の説明をするね。」


そう言ってサラッと仕事の話に持っていった。いつもなら流された……なんて思ってしまうけれど、全く嫌味がなく感じた。

それから机の上にいくつかの資料を広げた。


「デスクはここね。それからパソコン。ある程度の初期設定はしておいたから。」

そう言って宮本が近づくとほのかに清潔感が溢れる石けんの香りがした。

いい香り……。


も工場勤めだったけど、

いつも汗で蒸れた臭いがした。

夏場なんて帰ってきただけで、身体中に溜まりに溜まった悪い物が汗腺から湧き出て、

たとえようの無いような異臭がしていた。

私は人よりも匂いには敏感なのだ。

だから臭いのは絶対にだめ。

その反面好きな匂いには弱い……。


工場とはいえ総務勤務の宮本は作業着の下からピシッとアイロンのかけられたワイシャツの襟が見えていた。

先日来た時には『ただの上司』というかパート先の社員さんというイメージだった、が……。


「……というふうになるわけです。ここまでわかる?」


「え?あっはい。」


何となく遠慮気味な喋り方が、時折フレンドリーになるのが親近感を感じて少し心地よかった。

それに少し宮本の清潔感のある匂いにクラクラしてしまった……!

だめだめ!!

まったく何を考えてるんだ私は。

と喝を入れてみる。


そう思いながらも鼻の奥に残る柔軟剤?の甘い残り香が私を寂しくさせた。

よりかかりたい……。

ギューとされたい。

私の事を認めてほしい。

いつも私は頑張っているじゃないか?

なんで誰も私の事をわかってくれないんだ?

もう自分が中心になって判断する事には疲れた。


「ん……?難しい?」


「え?」


「すごく難しい顔してるから。大丈夫なのかな?と思って……。もう少しペース落とそうか?じゃなかった……。落としましょうか?どうしてもわからない事はしっかりクリアにしてほしいので。それでもわからなかったら直接聞いてくれてもいいし、あとで遠慮なくLINEをしてくださいね。」


なんでこんなに親切なのだろうか?

いつも要領の悪い私はどこの職場でも煙たがられてきたのに、今までに何回も言われてきた言葉の暴力が頭に浮かんでは消えた……。


「なんでわからないの?」


「いや別にそれ知らなくていいから……。」


「言われたままにしたらいいのに……」


「理屈なんか考えなくていいよ……」


「遅いなー……。」


「なんで早くできないの?」


「どうでもいい事にこだわらないでいいからさー、この仕事はスピード勝負なんだよ!」


嫌な事を思い出すと胃が痛くなってきた。

それでまた動悸がしてきそうになった。

浮いたり沈んだり……情緒不安定もいいところだ。それでもなんとか不安が顔に出ないようにつらつくろってできるだけ平静を装った。


「事務職経験ないって言ってましたもんね……。よしわかりました。」


そう言って手元の資料の中から、『小さな会社の事務が何でもこなせる本』というのをとりだした。


「こう見えてね、僕はたいして事務職の経験がないんですよ。総務に来る前は営業だったからね。だから本当は偉そうに教える事なんてできないんですよ。僕の教科書はこれ。」

そう言って微笑んできた。



「本当ですか?」



「本当本当。でもまぁー営業時代にパソコンはそこそこ触ってたからね。そこは良かったかな?でね、もし良かったらこの本あげますよ。」


「え?」


「ごめんね、こんなお古でよければ、一応僕なりにアンダーライン引っ張ってあるから、

参考になると思うんだよね。」



「ありがとうございます。すごく嬉しいです。

助かります。」



なんか感激してしまった。

思えば今まで私が働いてきた職場って女の世界が多かった。だからあまり男の人が働いているのを目の当たりににしたことがないし、

一緒に働く事も少なかった。

新鮮で心地よくてすっかり気分が良くなった。


私は駄目な女だ……。

一人ではやっぱり心配だし、

心さみしい。

だから…少しくらい甘い気持ちになったっていいじゃないか!

おかしな関係を求めているわけじゃない。

優しくされたいだけだ……。

ただ気持ちよく生きたいだけ……。


そう言い聞かせて自分を奮い立たせた。

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