マイノリティ・ラブレター

詩野聡一郎

マイノリティ・ラブレター

 時間というものは、色んなものを見えなくしてくれる。

 きっと時間は私の目の前から後ろの方に向かって流れていて、その川は、ずっと先の見えなくなるところまで続いているのだと思っていた。

 そんな時間の悪戯のせいで、今の私はその川に身を投じて、散り散りになってしまったものを拾い上げなければいけなくなっている。

 一つ、二つと自分の感情を拾い上げる。二つ、三つと自分の言葉を積み上げる。

 今までは、こんなことはなかった。

 普通に生きていて感じるものなんていうのは、たかが知れていたし、それが手の中から離れて時間の川に呑まれてしまっても、別にいいかなと思えていた。

 なのに、今の私は必死にその川に溺れながらも、泳いでいる。

 いつだか聞いた言葉が頭に浮かぶ。

「きっといつかそういう日が来るよ」

 そんな日は、きっといつまでも来ないと思っていたし、一向に来る気配もなかった。

 やっぱりそんなものはただの一般論で、マイノリティの私には関係ないものだと思っていた。

 今の私のしていることが、マジョリティのみんなが言っていた「その日」なのかどうかは、私なんかには永遠にわかりそうもない。

 でも、今はきっと無様なことをしているのには変わりない。

 どうしてみんなが感情を文字や言葉で表現するのかは、これまで生きてきてもずっとよくわからなかった。

 どうせ明日になれば忘れてしまうほどの価値しかないし、昨日になれば美化されてしまうほどの確からしさしかないと思っていたから。

 感情なんていうものは、何もかも曖昧で移ろいやすくって、パンケーキ一枚で簡単に上書きされる程度の物、というのが私の自論だった。

 なのに、今の私が抱えている感情は、パンケーキを百枚食べても到底上書きできそうにない。

 これじゃあ、上書きしようとしてもお腹を壊してしまうじゃないか。

 そう合理的に考えて、私は慣れ親しんだシャープペンシルを左手に握って、今まで触れたこともない便箋に右手を添える計画を立てた。

 でも実際は、その計画を実現させることもできなければ、そもそも実行することだってできなかった。

 時間の川の流れは日に日に遅くなってしまっていて、そのくせ流れている感情の量は日に日に増してしまっていた。

 一日でも一時間でも一分でも一秒でも早く拾い上げなければ、感情の廃棄物で川が汚染されてしまいそうで。

 だから私は放課後、まだ慣れない窓側の席に座りながら、慣れ親しんだシャープペンシルとルーズリーフで、無謀で無計画な行動をするしかなかった。

 やっぱり私はこんなところでもマイノリティ。みんなみたいに器用なことはそうそうできそうにない。

「…………」

 無言で書き続ける。ルーズリーフのスペースを黒い文字が埋めていく音だけが、教室に響く。

 言葉や感情を口に出して、そこにある透明なホワイトボードの上に書いて置ける器用な人もいるけれど、残念なことに私は器用じゃない。

 頭の中は感情と言葉でいっぱいになってしまっていて、一度でも口に出したら何が何だかわからなくなってしまいそうだった。

 感情が溢れて止まらない。それを表現する言葉が溢れて止まらない。

 こんなにも一生懸命に拾い上げて、精一杯書き留めているのに、次から次に湧き上がってる。

 これじゃあ千日手じゃない…………あれ、千日手は同じ手順を繰り返すことだっけ?

 まあ、そんなものかもしれないね。

 私にとってはどれも違う感情で、これも違う言葉だけど、みんなにとっては全て一感一言で済んでしまうのかも。

 いつだって私の中の感情は、他人と共有することができる言葉を見つけられないままだったから。

 どうせこんなものは自分にしかわからない表現でしかない。一つの言葉に上手くまとめられないほどに不器用だから。

 だから、外から見ればずっと同じ駒を、同じ二点で往復させ続けていると思う。いつもみたいに。

 しかしまあ、対局相手がいるという意味では、千日手とも言えなくはない。

 実際は対局相手は不在で、それによく似たコンピューターAIを相手に仮想の対局をしているだけなんだけどね。

「…………ふぅ」

 ちょっと一息。

 ようやくちょっとは落ち着ける仕上がりになってきた。さっきまでは頭がパンクしてしまいそうだったから。

 どれどれ、お点前のほどはどうかな?

「…………うーん」

 結構なお点前で、と自画自賛したかったけれど、現実は厳しい。

 さっきまではすごく確からしさを感じられていたのに、今見たらぐちゃぐちゃで笑っちゃう。

 主語が欠けてたり、目的語が欠けてたり。酷いのは動詞だけだし。同じ単語が何度も出てくるし。

 したいしたいって、そんなの感情じゃなくてただの欲望じゃないの? 意味わかんないなぁ。

 なんでこんな馬鹿げたものまで拾い上げてしまったんだろう。そう思って、消しゴムを手に取る。

「…………」

 でも、結局は消さなかった。何となく、消せなかった。

 別に誰かに見せるものでもないんだから、文法が間違ってたって別にいいもんね。

 これはただの自己満足。ただ頭の中の湧き水が止まらないから、少しだけ蛇口を捻って出しただけだし。

 有名なミュージシャンには急に楽曲を作ってしまう人がいるらしいけれど、まあそんなもんかな。

 とはいえ、こんな表現は月とすっぽんでそのミュージシャンに失礼かも。

 私にも文才があったら、こんな支離滅裂でまとまりのない文章なんて書けそうにないもの。

「終わった?」

「…………え?」

 この教室には私しかいないはずなのに、一体いつの間にいたんだろう。全然気づかなかった。

 ずうっと自分の感情と言葉で頭がいっぱいだったから、私はルーズリーフだけを見ていたけれど、それでまさかこんなことになるなんて。

 そもそも、黙って隣の席に座っているなんて失礼じゃないの?

 一言ぐらい断りを入れてくれてもいいと思う。あるいは、放っておいてくれたらもっと良かった。

「何書いてたの?」

「…………」

 内容は見えていなかったみたいで一安心。

 あとはこのルーズリーフを今すぐ握りしめて開いた窓から――あ、それはまずいかな。

 友達に見つかって騒ぎになっても困るし、先生に見つかったら変に気遣われちゃうかも。

 こんなのは考えすぎかもしれない。みんなはもっと器用にやるんだろうな。

「見せて見せて」

「…………」

 無神経無神経ホントに無神経。そういうところが嫌いなの。

 人が真剣に書いてたものを普通覗こうとしたりするかな?

 これがラブレターだったら絶対に怒られるよ。何でそんなこともわからないかなあ。

 席替えがあってからずっとこんな調子で困っちゃう。

 私の気持ちは乱されっぱなしだ。

「ケチだなー。残念」

「…………」

 そう言いながら、席を立ってまで覗こうとするのをやめて欲しい。

 おかげでとっさにルーズリーフを反対側に遠ざけるので精一杯。

 嫌い嫌いホントに大嫌い。

「あ…………」

「…………え」

 あれ? なんで私の手元にルーズリーフがないんだろう。

 まさか取ったの? あれれ? そっちも持ってないんだ。

 それじゃあどこに――え、まさか。

 この窓から? 下に? 落としちゃった? 嘘でしょ?

 よりによってこんなにタイミング悪いことってあるの?

 最悪。

「取ってくるよ」

「…………」

 やめて、と言うよりも先に走り出してしまうのだから、私も追いかけるしかない。

 こんな時ばかりは自分が口下手なのを恨んでしまう。

 そしてこんな時ばかりは自分の足が遅いのを恨んでしまう。

 ようやく辿り着いた時には、当然のように先に拾われてしまっているんだから。

「…………」

「…………」

 失敗した。調子に乗って宛名なんて書かなければ良かった。絶対にバレてしまった。

 普通そのまま読むかな? そういう無神経なところが本当の本当に大嫌いなの。

「…………」

「…………」

 その時、ふと気づいた。

 時間の流れと一緒に流されて見えなくなったはずの私の感情たちが、今はたくさん目の前にあった。

 あんなにパンケーキで上書きしたのに、あんな感情もこんな感情も溢れて溢れて止まらない。

 良いことも悪いことも、色んなことが思い出されてしまって、何が何だかわからない。

 私は無感動なマイノリティのはずなのに、どうして今はこんなに感情が動いてしまっているんだろう。

 これが、みんなの言ってた「そういう日」ってことなの?

 みんなどうしてこんなことに耐えられているの?

 こんなことになるなら、ちゃんと消しゴムで消しておけばよかった。

「ごめん、ちょっと待ってて」

「…………」

 その表情は、真剣そのものだった。

 こんなはずじゃなかった。恥ずかしい。苦しい。顔が熱い。

 それでも、心の中ではほんのわずかに期待を持ってしまう。

 ただし、その言葉は、私がこれからきっと五分は待つことになるのを意味していた。

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マイノリティ・ラブレター 詩野聡一郎 @ShinoS1R

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