夜の応援人

 衝動のままにシャッターを切った。何故写真を撮ったのかは分からないが、ボタンを押した手が震えているのは分かる。スマホの光に照らされて薄暗がりの中に浮かび上がるものを前に、口をはくはくと動かした。何故、これがここに。


 昔はこれでも一躍時の人だった。だが長いスランプに陥った途端ネット上ではありもしない噂が飛び交い、心が駄目になった。挫折し、何もかもがどうでも良くなった末にヤケで道を踏み外してこれだ。初犯も初犯。何も計画していない、ただ目に付いた家に忍び込んだだけの空き巣もどき。だというのに私は運も悪いのか。注目を浴びる前の全然売れなかった作品がこんな所に大切そうに飾られているなんて嫌になる。連鎖的に思い出されるのはこれを買っていった物好きの顔だ。描いたものが見向きもされず、あからさまに態度の悪い私に「ずっとファンです、一生応援してます」とキラキラした顔で言っていた男の顔だ。

 最早何も盗む気になれず、此処を出たら近くの交番に自首しに行こうと考えていた時、ふと気になった。彼は今、何をしているのだろうか。あの時は高校生だと言っていた。ならば、今はとっくに社会人になっているはずの年齢だ。どんな道に進んでいるのだろうか。ファンだと言っていた相手が筆を折ったと公言した時、彼は何を考えたのか。とても、知りたくなった。

 家主を起こさぬよう出来る限り音を立てずに部屋を見て回る。まるで空き巣のようだな、と思ったが実際その通りなので何も考えないようにした。部屋は一人暮らしには少々広い3LDKだった。ということは恋人なんかと同棲しているということか。もしくはもう結婚しているのか。いずれにせよ幸せそうだ。食器棚に可愛らしいお茶碗やお皿が並んでいるのも恋人の趣味だろう。リビングのローテーブルの上には空になったマグカップがあり、その近くには本や書類が散乱していた。そのうちの一枚を手に取ると、当時も気にしていた可愛らしい字が並んでいる。内容を見た限り、彼は美術研究家になっているようだ。本もよく見ればわたしの著書ばかりで、紙には私の絵が印刷されており、その周りをびっしりと丸っこい字が埋めつくしていた。胸がじんと痺れ、思わず手で押える。彼は今でも私のファンでいてくれたのだ。勝手に駄目になって、勝手に挫けた私のような人間でもまだファンはいたのだ。

 最後に彼を一目見たら此処を出ようと考え、一番近くにあったドアをそっと開ける。本棚や段ボールが所狭しと並んでいて物置のようだった。ゆっくりドアを閉めて次の部屋を覗き込む。二つ目の部屋の真ん中には大きな机と柔らかそうな椅子がドーンと此方を向いて置かれていた。書斎と言うことだろうか。こちらの机の上にも紙が散らばっていた。

 最後の部屋のドアのノブに手をかけた途端、何故か嫌な予感がした。恐る恐るドアを開けようとするが、他の部屋と比べてやけに重たい。体重をかけて思い切り押すと、中で何かがズ、と音を立てて動いた。やっとの思いで出来た隙間から覗くと、男性がドアにもたれかかっていた。よく見ると首元にはネクタイが巻きついており、その先はドアノブにかかっていた。慌てて隙間から手を差し込んでネクタイをノブから外す。先程リビングで見たマグカップの内側がまだ濡れていたということは、間に合うかもしれない。全体重をかけてドアをこじ開け、彼の腕を取る。手首に指を当てると、僅かだが脈が感じられた。生きている。私は自分が空き巣だということも忘れて無我夢中で電話をかけた。

 救急車が到着するまでの間、風呂やトイレなど他に人がいないかを見て回ったが誰もいなかった。最後に確認した大きな靴箱は、不自然にも半分だけが使われておらずがらんとしていた。彼はずっと追いかけていた相手と、付き合っていた彼女が不運にも同時にいなくなってしまったのだろう。とてもショックを受けた彼はこの世を諦めた。申し訳ないことをしてしまったという気持ちが重くのしかかる。しかしそれと同時に、彼のためにも捕まる訳にはいかないという気持ちが何故か沸いてきていた。救急隊員がスムーズに入れるように玄関の鍵を開け、もう一度彼の顔を見る。彼を死なせたくないと思った。

 芸術家とファン、空き巣と被害者、それにもう一つ。描く理由と死なない理由という繋がりを彼のためにつくりたくなった私は、来た時と同じように窓から外に出た。私の頭上には夜の闇と切れかかった街灯の光だけがあり、遠くからはサイレンの音が聞こえていた。

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