袋小路の桟橋
自販機のボタンを押した。ガコン、と重たい音を立てて冷えたアルコールの缶が吐き出される。プルタブを開けて一口飲むと、暑さで火照った体に染み渡っていくのがよく分かった。ちびちびと啜りながら腕時計を見ると、終電まであと三十分ほどの時刻を指している。まだ大丈夫そうだ。小銭を消化するために今度はロング缶のボタンを押す。先程よりも重たい音を立てて落ちてきた物を取り出すために屈むと、釣り銭の取り出し口に何かあることに気がついた。金額ちょうどを入れた筈なのでお釣りではないし、お金の落ちる音もしなかった。プラスチックカバーの外から見てみると、その何かは長方形で、切符のような形をしていた。仕事終わりの開放感と程よくまわったアルコールが好奇心を刺激し、その切符のようなものを手に取る。
「何も書いてない……」
見れば見るほど切符によく似ていたが、薄黄緑の表にも真っ黒な裏にも、文字らしきものは何も書かれていなかった。もっとよく見ようと自販機の光の前に持っていくと、水面にインクを零したように黒色が薄黄緑に滲んで、意味のある単語が形成された。
「ひょう、ちゃく……?」
思わず読み上げた文字はひらがなで書かれていて、それ以外の本来あるべき値段や時刻の表記は全て奇妙な、文字とも言えないようなものが並んでいた。何処の文字だろうかと考えていると、遠くの方から船の汽笛が鳴り響いた。突然響いた轟音に呆気に取られていると、切符を照らす無機質な白はいつの間にか穏やかなオレンジの街灯になっていて、目の前には木造の駅舎がまるでずっとそこにあったかのように、ぽつねんと存在していた。
あまりにも怪しい状況だったが、アルコールは人の理性というブレーキを簡単に鈍らせる。そのまま切符を使って構内に入り、電車を待つことにした。だが改札をくぐってホームを見渡した途端、ここに来るのは電車ではないということを理解した。白線の外側にあったのは、線路ではなく何処までも広がる水だった。指を浸して舐めてみると、独特の苦味と塩辛さが舌を通して現実を突きつけてくる。落ちないように注意しながらホームの真ん中あたりに見えた看板のような物まで歩いていくと、潮風にさらされて錆び付いた駅名標があった。そこには、辛うじて読めるほど掠れた文字で現在地と思われる名が大きく書かれていて、その左下と右下にも少し小さい文字で、一つずつ単語が書かれていた。
「ひょうちゃく、きこう、しゅっこう」
全てひらがなで書かれているため定かではないが、漢字を当てはめるならば漂着、帰港、出港だろうか。だとすれば、帰港の船に乗れば帰ることが出来るだろう。そう思いすぐ隣の時刻表を見たが、どの便も『ずいじ』としか書かれていなかった。
駅名標を見ながらようやく一本目の酎ハイを飲み終え、ふわふわした足取りでベンチに近づいた時、背後から影がさした。重たい頭を動かして振り向くと、そこに船があった。音も無く現れたその船は、巨大なタンカー船のようだったが、いつの間にかタラップまで下りていた。恐る恐る近づくと、そばには自販機くらいはありそうな背丈の、駅員らしき男が立っていた。一瞬前まではいなかったのに、だ。意を決して話しかけてみる。
「あの〜、どうやったら帰れますかね」
「切符を拝見」
「? だからどうや、」
「切符を拝見」
駅員の男は同じ言葉しか繰り返さなかった。仕方がないので持っていた切符を渡すと、大きな爪切りのようなものでプチ、と切符の端を切った。男は端の欠けた切符を恭しく差し出すと、いきなり声を張り上げた。
「次は、しゅっこう。しゅっこうでございます。お忘れ物のないようお気をつけください」
とても綺麗な鼻濁音で繰り返されるアナウンスは、どこへ辿り着くかも分からないしゅっこうへ向かうというのに、優しく、心を落ち着かせる響きを含んでいる。タラップを上りながらふと後ろを振り向くと、駅員の男は既に姿を消していた。
「……お……くさん……おきゃ……さん……お客さん!」
ガクンと頭が大きく揺れ、目が覚める。目の前にはあの駅員の男とは似ても似つかない、本物の駅員が迷惑そうな顔をして立っていた。慌てて立ち上がり、辺りを見回す。いつも通りの電車内、窓から見える駅名標は最寄り駅を随分過ぎた、終点を示していた。怪訝そうにこちらを見る駅員に頭を下げながら電車を降りる。タクシーを呼んで帰ろうと両手でポケットを探って気がついた。自販機で買ったはずのロング缶がどこにも見当たらない。鞄の中も探していると、ふいに頭の中で「次は気をつけてください」とあの駅員の声が響いた。やはり、何故だか落ち着く、綺麗な鼻濁音だった。
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