寿限無

 こぶの一件のあと、少年は名を縮めて寿限無と呼ばれるようになったが、これがどうにも不味かった。呼ばれなくなった名は死んだも同然、省略された残りの名たちは危機感から繁殖を始めてしまった。だが呑気な「寿限無」や両サイドを占められスペースのない「五劫の擦り切れ」たちは何もせず、繁殖は末尾で行われた。この点で名前の繁殖は細胞のそれに似ていたが、を要した点では異なる。まず、「長久命」と「長助」が「福福」を産んだ。「長助」と「福福」は「天網恢々」を産み、「福福」と「天網恢々」は「マイケル・ジョーダン」を産んだ。縁起の良い名前たちはこのように、まるでフィボナッチ数列のように増殖し、少年の名前は一日につきおよそ百二十節のペースで延長された。

 だが、どれだけ伸びても名前とは呼ばれなければ意味がない。そこで「海砂利水魚」ら老練な名前たちが力を発揮した。彼らは全人類に、少年を本名で呼ぶよう強制する呪いをかけた。最初の犠牲者は母親だった。朝、息子を起こすためいつも通りに「寿限無」と呼ぶと間髪いれずに次の「寿限無」が口から飛び出し、「五劫の擦り切れ、海砂利水魚…」と続いた。本名とは名の全文であるが、既存の名を読んでいるうち新しい名が産まれてしまう。よって「寿限無」と言ったが最後、終わりはなかった。母親の次に父親が、次いで隣の一家が犠牲になった。

「…魚民夢庵冴羽獠スリジャヤワルダナプラコッテ下乳下乳右フック下乳…」

 呪いは町を飲み込み、少年の名の輪唱が一帯に轟いた。唯一の例外は少年だったが、彼は両親が狂った時点で気絶していた。少年の名を呼び続ける町人たちは、のちに詠唱者と呼ばれるようになった。


 56億7千万年が過ぎたが、少年はまだ生きていた。まさに寿く、どうやら名前の加護らしかった。二万人の詠唱者たちはまだ彼の名を呼んでいた。彼らは長年かけて調子を合わせ、いまではぴったり重なる合唱を奏でた。もはや人間の面影はなく、石化し、風化し、灰色の円錐形を成している。先端に空いた穴――かつて口だった器官――から、少年の名が絶え間なく流れた。

 少年は更地と化した地球をさ迷った。太陽は赤く肥大し、空を覆い尽くしている。希に人間を見かけたが、彼らもまた人の形をしていなかった。不老不死を求めた人間の成れの果て。ピンク色の脳髄を閉じ込めた、浮遊する透明の結晶体。最早、死のうにも死ねないらしい。

 地球を何億周もして、幾つかのささやかな真理を悟った彼はある日、不死者たちを殺してやることに決めた。結晶を詠唱者の口で貫けることは知っていたから、彼は地球を練り歩き、不死者を捕獲して回った。それは張り合いのある仕事だったし、そのあとのこと――詠唱者の殺し方――を考えるのもなかなか興味深かった。彼は毎日を楽しんだ。彼は、密かに、自らを「弥勒」と呼んだ。自分で自分を名付けて漸く、彼は大人になれた気がした。

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