聖典γ
その本は、とある新興宗教の聖典である。この宗教と教団をそれぞれα教、教団βとし、本を聖典γと呼ぶことにする。
聖典γの特徴の一つとして、他の本を補食することが挙げられる。この本とともに本棚に並べられた本はやがて、観測者の居ない状況下で消失する。ある実験では、情報が完全に密閉された地下空間において、用意された百冊の本が一ヶ月で全て消失した。同実験では消失の速度が観測可能性と負の相関を持つことも確認されている。観測下では本の消失は発生しないため、補食の瞬間は捉えられていない。逆に、どんな形であれ観測者がいれば補食は防げる。例として、カメラで映像が記録されている間、本の消失は起こらないことが実験により確認されている。
第二の特徴は、人間を介した繁殖である。聖典γは二種類の繁殖方法を持つ。一つは本の読者にこの本の複製を作らせる方法である。複製する媒体は読者に委ねられ、読者がα教の信徒である場合(この場合、主体性の評価が困難である)を除き、作業中、読者は聖典γによる行動操作に無自覚であり、自分の行っている作業が主体的な創作活動であると信じて疑わない。この催眠状態は、読者が完成品を何らかの形で外部に発信(紙媒体なら図書館や書店に隠す、電子媒体ならネット上で公開)すると解けるが、催眠期間中の記憶は全くないか、希薄である。以上のことから、聖典の中身について、情報は皆無に近い。複製物も補食能力を持つ(電子媒体についてはネット上の情報の喪失が観測し難いため確認されていないが、インターネットにおいて観測可能性は高水準で偏在するため、補食能力はあるとしても抑制されるものと考えられる)が、繁殖能力については今のところ二つの方法のどちらにおいても確認されていない。そのため複製物は眷属本と呼ばれ、対して繁殖能力を持つ個体は真祖本と呼ばれる。眷属本と異なり、真祖本は全て紙媒体で、同一の外見を持つことが知られている。
二つ目の繁殖方法は直接的な人間との交配である。交配は満月の夜に行われることが分かっている。補食と異なり、こちらはその過程が実際に観測されており、三点の映像記録が残されている。うち二点の映像において交配は未遂に終わっているが、真祖からにじみ出た黒い液体が肥満体の男(生殖器δとする)に変形し、近くの人間と強引な交配を図る様子が確認できる。一方では撮影者が男性だったため、もう一方では撮影者の女性が素早くその場を離れたため、交配は未遂に終わったものと考えられる。以上から、交配は女性と行われること、生殖器δが聖典γから離れる距離には制限があることなどが推測されている。
残る一つの映像記録は、教団βによる儀式の様子をとらえたものである。撮影者は不明。映像では、α教の教会と思われる暗い空間に、蝋燭と辞書を携えた、信徒と思われる裸の女が現れ、床に置かれた真祖本の前に座る。しばらくすると真祖本から生殖器δが現れ、女と(人間のそれと同様の)交尾をし、それを終えると液化して真祖本に戻った。生殖器δが消えてから約十五分後、床に横たわっていた女は突然苦しみはじめ、性器から大量の黒い液体を放出する。女の体は波のようにうねる液体の中に消え、女を取り込んだ液体は近くに置かれていた辞書に吸収された。液体を吸収したあと、辞書の外見は真祖本のそれに変わっていることが確認できる。全てが終わったあと、α教の聖衣に身を包んだ男が現れ、二冊の真祖本を回収、蝋燭を消して退出した。カメラはその後、暗闇を二時間撮影したあと、何者かの手によって停止される。
現在、教団β以外の勢力によって公式に保管されている真祖本は五点存在し、いずれにおいも、カメラによる監視、外界からの遮断、非常用焼却装置の設置が徹底されている。今のところ、焼却などの根絶的処分は公式には試みられていない。これは二次被害を警戒してのことであるが、知性と正義を重んじる一部の勢力は、「我々は聖典γの増殖を防止するが、聖典γを燃やしはしない。本を焼く者はいずれ、人間も焼くことになるからだ」との見解を示してもいる。
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