第5話 限界

 やっぱりか……。


 こうなる事は予測していたが、明井から貰った抱き枕を抱いて寝ようとしても俺は一睡もする事が出来ず、遂に三徹をやってのけてしまった。


 俺は心身共にもうボロボロ。抱き枕が無いと眠れないとはいえ、意識が遠のいていくのを感じていた。

 疲労で意識を失ってしまえば眠りにつくことができる。こうなったら無理に眠るより、無理して起き続けて意識を失うように仕向けた方がいいのかもしれない。

 もはや冷静な判断が出来る状態ではないし、本当に死んでしまうのではないかと思いながらも眠ることは出来ないので大学に行く事にした。


 寝巻きから服だけ着替えて玄関の扉を開けると、なんの因果かまたもや明井と家を出るタイミングが同じになったのだ。


「おはよ。どう? ゆっくり眠れた?」


「あ、ああ。まぁまぁ、かな……」


「そう、ならよかった……ってちょっとあんた大丈夫⁉︎ 今までで一番酷い顔してるけど⁉︎」


「……実は貰った抱き枕じゃ眠れなくてさ」


「え、あんたって抱き枕があれば眠れるんじゃないの?」


 明井がそう思うのも無理はない。抱き枕が無いと眠れないと言った人物に対して、代わりの抱き枕を渡せば眠れるだろうと思うのは普通の事だ。

 しかし、俺の場合は特殊で昔から愛用していたあの抱き枕でしか眠る事が出来ない。


 それには深い理由があった。


「あの抱き枕さ、俺が小さい頃に亡くなった母さんが、私がいなくなっても大丈夫なようにって俺に残してくれた抱き枕だったんだよ。変な話だけどあの抱き枕が母親代わりみたいなもんでさ。あの抱き枕じゃないと眠れないみたいだわ」


「えっ……。じゃあ私、そんな大切なものを……」


「ぜ、全然大丈夫。それじゃ、もう行く……か……ら……」


「え、ちょっと⁉︎ 大丈夫⁉︎ ねぇ⁉︎ ちょっと⁉︎」


 体は限界を迎えていたようで、朦朧とし始めた俺は玄関の前で倒れてしまった。

 しかし、今の俺にとって倒れるという事は眠れるという事になるので、それがたとえ玄関の扉の前で硬い地面だったとしても、結果としてはそれで良かったのかもしれない。




 ◇◆




 倒れた瑞野を抱えて私は瑞野の家に入った。

 

 どれだけ引きずっても一向に目を覚ます気配がなく不安になるが、息はしているし、ここ何日か眠れていなかったのだとしたら今はそっとしておくべきだろう。重たい瑞野の体を引きずりながら、家の中に引きずり込んで布団の上に寝かした。


 眠っているというよりは意識を失っていると言った方が表現は正しいだろう。


 私は今、酷く罪悪感を感じていた。知らなかった事とはいえ、瑞野の母親の形見……、いや、母親代わりとも言える抱き枕を私は何も考えず捨ててしまったのだ。


 私には瑞野の気持ちが良く分かる。


 瑞野が拾ってくれた家の鍵がついているキーホルダー、あれは私の父親の形見なのだ。

 私が小さい頃に病気で亡くなってしまった父が使っていたキーホルダー、それを大学生になって母から譲り受け大事に使っていた。


 それを落としてしまった時にはどうなる事かと思い冷や汗をかいたが、瑞野は捨てるでもなく放っておくでもなく鍵を届けてくれた。

 私は素直じゃない上に、その時は気が動転していた事もあり瑞野に対して冷たく当たってしまったが、父親の形見を拾ってくれた瑞野にはどんなお返しをしても足りないくらい感謝していたのだ。


 それなのに、私はこいつの母親の形見をなんの躊躇いもなく捨ててしまい、罪悪感が私の心を支配している。


 せめてゆっくり眠ってもらえないだろうかと私が買ってきた抱き枕を眠っている瑞野にもう一度渡してみるが、抱き枕は投げ捨てられた。何度かチャレンジはしてはみたものの、瑞野が抱き枕を抱いて眠る事はなかった。


 私が買ってきたただの抱き枕と母親代わりの大切な抱き枕では勝手が違いすぎるんだ。

 無機物とはいえ瑞野が愛用していた抱き枕にはさまざまな想いが込められていて、温もりがあったのだろう。 




 ……あ、もしかして。


 瑞野が愛用していた抱き枕がなくてもぐっすり眠る事が出来る手段が一つだけあるかも知れない。


 普通なら躊躇する行動だが、その手段を思い付いた瞬間、私は全く躊躇する事なく瑞野の横に寝転がった。

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