第18話

 僕はぶっ通しで書き続けた物語に終止符を打ってパソコンを閉じ、部屋の窓に向かってカーテンを勢いよく開けた。冷たい風が一気に部屋に流れ込んでくる。いつの間にか外はすっかりと明るくなっていて、陽の光が優しく差し込んでくる。どうやら徹夜してしまったようだ。

 僕は彼女がそうしていたように、うーん、とうめき声を上げながら、太陽に向かって伸びをした。それから軽く朝ごはんを食べて、身支度をする。

「今日は一限目からか」

 大学進学を機に、僕は親元を離れて一人暮らしをしている。学生用のアパートを借りており、一人暮らしは大変でありながら実に有意義な時間を持つことができる。小説を書いていても誰かから声を掛けられて集中が途切れることもない。

 僕は両親の応援を受けて大学の文学部に入学した。今まで周りにはおらず、むしろそのせいで自分を特異な存在だと決めつけていた僕の価値観が、読書を日常生活の一部とし、当たり前のように小説を書いている同志たちの存在で簡単に打ち砕かれたのを今では懐かしく思う。

 僕はさっき書いていた僕と彼女の物語とは別の、大学に提出するための原稿用紙を忘れていないか確認し、自転車に跨って大学に向かうことにした。

 通学の途中、実家にいる母親から電話が掛かってきた。僕は真面目なので丁寧に自転車から降りて通話ボタンを押した。

「もしもし」

「もしもし、紡? あんたちゃんと起きた?」

 電話に出ている時点でちゃんと起きていることは分かっているだろうに。

 大学に通い始めてすでに七ヶ月が経過しているのだけど、母さんはこの通り心配性で、頼んでもいないモーニングコールを、もしも今この電話で起きたならすでに手遅れな時間帯に掛けてくる。なぜここまで心配するのか僕には理解できないのだけど、親とはそういうものなのかもしれなかった。けれど、僕は実家にいた頃だって母さんの助けを借りずに皆勤賞を果たした。前に帰省したとき、うっかり寝過ごして一度講義に遅れたことを口にしたのがまずかったか。それでも、それ以外にポカはやらかしていないのだから、朝の目覚めに関してはそろそろ信用してくれてもいいように思う。

「大丈夫、起きてるよ」

「ならいいんだけど。それより」

 母さんは電話の向こうで一拍分だけ空けて、僕に訊いた。

「大学はどう?」

「どうって?」

「だから、その……」

 とぼける僕は、言葉に詰まっている母さんをこれ以上困らせるという親不孝はやめておくことにし、言葉にする歯痒さから誤魔化していた自分の気持ちを素直に伝えた。

「楽しいよ。友達もできたし」

「……そう、良かったわ。お父さんも心配してたから」

「うん、大丈夫だって伝えておいて」

 どうやらこの電話の本来の目的は、僕にそれを確認するためのものだったようだ。

 僕は家族会議で父さんと母さんと話して以来、父さんと衝突することはなくなっていた。普段から無口な父さんの無口っぷりはそれによって拍車がかかり、僕と父さんは、僕が大学に出るまでほとんど何も話さなかった。別にそれは、互いを無視しているわけではなく、ただなんとなく、僕と父さんの性格上、それが自然なだけだった。

 安心した様子の母さんの声を聞き届けてから、僕は通話を切った。そして、また自転車に跨って大学を目指した。

 僕が通っている大学のキャンパスはそれなりに大きく、入学当初は文字通り迷子になった。方向音痴なわけでもない僕でこうなのだから、きっと多くの人も大学の広さに驚き、目的地が分からずに彷徨ったことだろう。

 そんな入学当初の僕とは裏腹に、すでにキャンパスの構造を熟知している僕は、足取りに迷いを見せずに自転車を然るべき場所に停め、それから一限目の講義に向かった。

 講義室は広く、このご時世ではパワーポイントを黒板にたらしたシートに映しながら授業を進める教授が多いのだけど、まだハイテクへの移行時期である現代では、板書による講義の促進を図る教授も多い。この講義が、まさにそうだった。すでに教卓で待機している中年男性の教授は、掛けた眼鏡を外しながら、持参してきたノートに顔を近づけている。

僕の周りに座っている生徒たち、そして難しそうな顔をしている教授が自分と同じように、そして、彼女と同じように自分で選んでこの環境を選んだのだと思うと、自然と頬が緩んだ。

 チャイムが鳴ってもざわつく生徒たちを窘めながら、例の教授は講義を進める。今日も、小説や映画など、創作物全般で使える物語の展開術を解説し始めた。この授業ではある意味正解とも言えるノウハウと心構えを教えてくれるのだけど、それに即して物語を書いても、書いた人の数だけ全く異なったものが完成する。僕はそれが、今まで僕が受けてきた義務教育とは違う好ましい点だと認識している。どのタイミングでこの手法を用い、どの程度自分の感情を創作物に乗せて執筆するか。それを自分で選び続けて完成するのが、小説や映画などの作品だ。

「さて、講義も佳境に入ったところなのだが、ここで課題だった原稿用紙を提出してもらおうと思う。前に出してほしい。それで、みんなに相談なんだが、誰か、みんなの前で自分が書いた作品を発表してほしいのだが……誰か立候補してくれる人はおらんか?」

 教授の発言に、生徒たちはざわついた。それもそうだ。自分が書いた小説を、プロという自分が小説を書いていることを正当化するような肩書を持っていない僕たちが発表することなんて、普通はできるわけがない。誰もが、「そんなの自分から立候補するやつなんていねえだろ」と口を揃えている。そう口にする周りの表情は、誰もがこの講義の当事者ではなく、自分の肉体で出席していながら、まるで心は替え玉で誰かの代わりをしているようなものだった。

 僕は昔、実はこう見えてそれなりに活発な子どもだった。自分が描いた絵や書いた物語をみんなに見せびらかすような、そんな子どもだった。けれど、周りがそうして出しゃばることを煙たがるようになるにつれて、僕は本当の自分を出すことを止めるようになっていた。だから、人に自分のことを分かってもらおうなんて思わなくなったし、自分が持つ本当の意見なんて、口に出さずに最初からなかったことにしてきた。それはきっと、実は周りのみんなもそうで、ただそこに漂うそうした空気に染まっただけで、誰もが本当は、本当の自分を表現したいはずだ。

 つまり、何が言いたいのかと白状すると、僕はみんなに、僕が書いた小説を披露したい。さっきから、うずうずが止まらない。

 彼女と出会う前は、そんな気持ちが湧き起ってもそれを外に表現することを諦め、そのうちに自分を外に表現したいという気持ちさえ感じなくなっていた。けれど、彼女と過ごした日々が心のリハビリとなって、僕は自分の本当の想いを体現しないことができなくなっていた。

 僕の手のひらに、自然と汗が滲んだ。

 手を挙げようか。でも、批判されたらどうしよう、という抑制がかかる。

 分かっている。他人からの評価を気にする必要がなく、第一、気にしていたらきりがない。

 けれど、分かっていても脈打つ心臓の動きを緩やかにすることはできない。僕の身体は、自分を誰かに表現することを諦め、自分を表現すること自体を愚かなことだと認識して行動するように洗練されている。そうした思考を常として日常生活を送っていた僕によって洗脳されている。そのため、今の僕の心と身体はせめぎ合い、どちらが譲るか必死に議論している。緊張して喉が渇いた。けれど、どうやら、昔の僕によって制限を掛けられてきた身体は、新しい僕の試みに興味を示したらしい。

 気がつくと僕は、自ら手を挙げていた。

 一瞬、講義室に静寂が訪れ、そもそも講義室での騒音を招くきっかけとなった教授も、まさか立候補者が出るとは予見していなかったらしい。教授を含めてこの教室にいるみんなが驚いた様子で僕に視線を注目させていた。僕はそれを、小気味よく感じて口角が上がりそうになるのを必死に堪えた。僕の心は喜び、さっきまでは反対していた僕の身体も、いつの間にかリラックスしているようだった。全く、素直じゃないんだから、とらしくもないジョークを心中で唱えた。もしかすると、緊張を紛らわせるために饒舌になっているだけなのかもしれない。

 少し余裕の出てきた僕は、講義室を見回した。そして、気がついた。僕以外にも一人、他の受講者たちからの視線を一心に受けていることに。

 少し幼い顔立ちをした、けれど凛々しくて「いし」の強そうな女の人が、ピシッと背中を伸ばして、手を真っ直ぐに突き上げていた。それから僕は自分の手を確認すると、そんな彼女に反して弱々しく、肘が折れているのに気がつき、そこで初めて赤面した。

 結局、その講義では僕と凛さん(仮称)の小説が朗読され、というか自分たちで自分の小説を読み上げ、僕は緊張で少し声を震わせながら、凛さんは将来アナウンサーにでもなるのではないかと思わせるほどの立ち振る舞いと淀みない朗読で、いかにもめんどくさそうにしていた受講者たちの気を惹いていた。

 講義が終わると、隣の席に座っていた男の人に、「さっきあんたが名乗り出てくれたおかげで講義潰れたの、感謝してるよ。名演説ご苦労さん」と笑顔で肩を叩かれた。僕の決死の覚悟を講義潰しだと称されたのはいささか不満ではあったけれど、その気持ちも分からないではないので、僕は曖昧に笑い返した。

 それから僕は、さきほど講義室で、それこそ僕なんかよりも名演説を披露した凛さんを探した。彼女が講義室を出てからさほど経っていないので、すぐに追いつけるはずだ。

 そしてその通りに、彼女は講義室をすぐ出たところで歩いていた。

 僕は、付き合いを持つ人間も、しっかりと選ぶようにしようと心掛けている。それは別に、自分と合わない人間を否定するわけではなくて、単に自分が楽しく生活を送るのに差し支えがないかどうか、といっただけの問題だった。

 そして僕は、大学に入ってから記念すべき友達の一人目として、彼女を選びたいと思った。もう気づいている人もいるかもしれないけど、さっき電話で母さんに友達がいると言ったこと、あれは嘘だ。それを批判する人もいると思うけれど、嘘も方便で、両親を心配させないための、しっかりと意味のある嘘だ。

 それはともかく、僕は姿勢よく歩く凛さんの背中に呼びかけながら追いかけた。

「凛さん!」

 僕にしては珍しく大きな声を発したつもりだったのだけど、どうやら凛さんの耳には届かなかったらしい。もう一度呼びかけてみようと思ったところで、凛さんというのが、僕が勝手に彼女につけた名前であることを思い出した。あまりにもその名前がしっくりと来すぎていて、彼女の名前が凛であると思い込んでしまっていた。僕はいつからこんなにも愉快になってしまったのだろう。

 僕は、「すみません」と後ろから彼女に声を掛けた。

「……あなたは、さっきの」

「諏形紡です。その、さっきのあなたの朗読に感動したので、よかったらこの後、ご一緒しませんか?」

 真面目そうな彼女は、窺うように僕を見つめている。ナンパだと思われていないだろうか。そう危惧していると、彼女は半身しか向けていなかった身体をしっかりと僕に向き合うようにずらした。僕の目を真っ直ぐに見つめる彼女は、

「私の名前は、五十嵐紗希です」

 と、礼儀正しくお辞儀した。

「さき……」

 彼女の名前を思わず復唱すると、「思ったよりもフレンドリーな方なんですね」と彼女は微笑んだ。どうやら、彼女のことをいきなり名前呼びしたと思われているようだった。

「あ、えっと」

「あなたの小説も、すごく良かった。実は、私もあなたに声を掛けようか迷っていたの。あなたって、勇気あるのね」

「え、いや、君の方こそ、講義室で手を挙げてたじゃないか」

「あなただって」

「けど、君ほど堂々と、手は挙げられなかった」

 僕は視線をどこに固定すればいいのか分からなくなって、思わず彼女から目を逸らした。

「次の講義終わったら、一緒にご飯でも食べない? あなたの小説のお話、聞きたいわ」

 次の講義名を訊くと、どうやら僕と彼女が次に履修している科目は違うようだった。そして、彼女が受講している講義からするに、僕と同じ一年生だろう。

「じゃあ、また」

「待って」

 僕は話す相手が見つかったことに安堵して足早に去ろうとした。けれど、彼女はそれを僕の袖を掴むことで制した。

「連絡先交換しないと……この大学、広いから」

「……あぁ、そうだね。ごめんごめん」

 慣れないことをしてうっかりしていた。

 僕は彼女にお礼を言うと、彼女は「こちらこそ」と笑った。僕はやっぱり、自分なりに何か哲学を持っている人間に惹かれるのだな、と思った。

 無事に二限目の講義を終えて、僕と彼女は一緒にご飯を食べ、今日自分たちが朗読した小説について改めて議論し、自分の好きな本や作家の名前を挙げてとても楽しい時間を過ごした。彼女が亡くなって以来、僕はこうやって同級生と話すことはほとんどなかったので、余計に充実した時間を過ごせた。彼女は翌日からも一緒にご飯を食べないか、と提案してくれた。

 どうやら僕は、これから両親たちに、胸を張って友達がいると言えることになりそうだ。

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