第15話
十一月に入ってから、彼女の容態は目に見えて悪化していった。治療の回数も増え、精神的にも肉体的にも疲労している様子だった。加えて抗がん剤の副作用から彼女の髪の毛が抜け落ち、いつからか彼女はニット帽を被って僕を病室に迎えるようになっていた。治療薬の影響、そして病気の進行によって顔色は悪く、唇の色も紫になって、いよいよ死が彼女に迫っていることを告げていた。
「恥ずかしいな、こんな姿を見られるの」
「そんなことないよ」
「もうー、紡くんは優しいんだから」
彼女とそうやって他愛のない話をできたのも、十一月の半ばまでだった。すでに冬を感じさせるほどの寒さを運んでくる十一月の下旬になると、彼女は一言、二言返すのがやっとの状態になり、僕は彼女が横たわるベッドの側の椅子に座り、彼女を見守るだけとなった。その頃には毎日の日課となっていた彼女の読書、つまり僕が書いた物語を読むという習慣もすっかり消失してしまっていた。彼女はもう、ノートを持つ気力もなくなっていた。その代わりに僕は毎日、彼女に僕が書いた物語を読み聞かせていた。これは、彼女の要望だった。物語を聞くだけでもそれなりの体力を要すると思った僕は、短く、極力分かりやすい内容を扱った物語を書くように心掛けた。彼女は時折微笑みながら、僕の物語に耳を傾けていた。
僕はまだ、彼女から小説を完成させたという報告を受けていない。もしかすると、未完のまま今の状態になってしまったのかもしれない。
僕はいよいよ彼女との別れを意識し、一切の後悔を残さないよう、今までは自分のプライドや羞恥心が邪魔をして選べなかったことを、選ぶことにした。僕は一切の不純な感情を捨て、彼女に対して素直な思いの丈を晒すことにした。
いつものように彼女に物語を読み聞かせたあと、微笑む彼女の名前を僕は呼んだ。
「咲」
僕は初めて、彼女の名前を呼んだ。今まで躊躇していたのが嘘のように、彼女の名前を呼ぶことに抵抗感がなかった。
彼女は僕が名前を呼んだことに驚いたようで、僅かに目を見開き、それから笑顔を見せたかと思うと、両目から涙が零れだした。
「ずっと黙っていたけど、僕は咲のこと、好きなんだ」
「…………」
「最初はさ、いきなり花がない、なんて言われて、正直なんだこいつ、って思ったよ」
僕は彼女を見ながら笑った。
「でも、咲の人生哲学や行動に触れているうちに、一緒に過ごしているうちに、僕は咲のことを好きになってた」
彼女はくしゃりとした笑顔で小さく頷いた。僕は彼女のその表情を見て、思わず泣きそうになった。まだ、泣いてはいけない。彼女の前で泣いてしまったら、彼女をまた困らせてしまう。一番大変なのは、当たり前だけど彼女なんだ。そんな彼女に、僕は何度勇気づけられてきたことか。今度は僕が、彼女を勇気づける番だ。
「咲は本当にすごいよ。僕という、それなりに頑固な人間をここまで変えたんだから。今まで現実世界なんて意味がない、なんて思っていた僕が、楽しいと思えるようになったんだから」
きっと、世界は彼女のような貴重な存在に対して早くに天に召すよう天啓を授けるのだろう。彼女のように、人間として出来上がった存在は、この世での修行をいち早く終えた者としてみなされ、ただちに死がもたらされる。過去の偉人たちにも短命が多いのは、きっとそういった理由なのかもしれない。それはつまり、彼らなりの使命を全うし終えたということを意味しているのだとも思う。
「咲は僕という一人の人間を救った。咲から教えてもらったことは、これからもずっと心に留めて生きていくよ。きっと僕以外にも、咲に花を選んでもらえた人は、幸せだったと思う」
彼女は虚ろな、けれど今までと何ら変わりない力強い目を僕に向けながら微笑んでいる。そんな彼女に、僕は誠心誠意を込めて言った。
「僕に花を選んでくれて、ありがとう。咲」
僕の言葉に、彼女は目を閉じながら涙を流した。僕はゆっくりと彼女の手を握った。
「わ、たし、も……わたし、に、も、花を、選んで、くれ、て、ありが、とう……」
彼女は握っている僕の手を握り返した。もちろん力は弱いけど、その手が彼女の「いし」を反映していることは、よく分かった。
僕はすんでのところで涙が零れ落ちそうになるのを堪えて、彼女の額に僕の額を当てた。
彼女にお礼を述べた翌日、学校で授業を受けていると、彼女の携帯から着信があった。先生にお手洗いに行くと嘘をついて急いで廊下に出てから電話に出ると、か細い彼女の声が聞こえてきた。
「つ、むぐ、くん……の、は、なは、とて、も、きれい、だよ」
「…………咲」
「あり、が、と……」
彼女の声が途切れ、続いてすすり泣く声が電話越しで聞こえてきた。静かに携帯に耳を当てていると、彼女の母親の声がした。
「紡くん。たった今、咲が亡くなったの。最後に紡くんと話したいって……だから、電話させてもらったの。本当に、今までありがとう。紡くんのおかげで、あの子は……」
そこで彼女の母親の嗚咽する声が聞こえてきた。
僕は居ても立っても居られなくなり、そのまま無断で学校を飛び出した。今はもう、先生や両親に怒られることなんてどうでもよかった。
僕は全速力で走り、電車に乗って彼女がいる病院に向かった。病院につくまでの間、僕は意外なほど冷静だった。もちろん、彼女が亡くなってしまったことを知った瞬間は動揺したけれど、今はとにかく、彼女の元へ向かわなければならないと、僕の思考は冷静に稼働していた。
病院のある最寄り駅で降りた僕は、冷静ながらも全速力で彼女が眠る病室に向かった。
彼女の病室からはすすり泣く声が聞こえ、ゆっくりと扉を開くと、ベッドの上には顔が白くなり、瞼を閉じた彼女が横たわっていた。その周りを、医者や看護婦さんが取り囲んでいた。亡くなった彼女の身体に覆いかぶさりながら泣き喚く彼女の母親を、彼らは俯きながら見守っていた。
やがて僕がやって来たことに気がついた彼女の母親は一瞬、僕を見て驚いた様子だったけれど、すぐに僕を彼女の側に導いてくれた。
僕は、冷たくなった彼女の頬を撫でた。何度も何度も、撫でた。そして、気がついた。どうして僕がここに来るまでずっと冷静だったのかを。
僕は、本当の意味で彼女が死んだという事実を見ていなかった。だから、僕は死んだ彼女の姿を見るまで、この世界から彼女がいなくなってしまったという事実を理解していると勘違いしていた。今目の前で息を引き取った彼女を見るまで、僕は彼女が死んだという事実を知っていただけで、全く理解はしていなかった。心のどこかで、また会えるだろうという気持ちが、どこかにあったのだ。そんな僕は、だから自分の感情が崩壊しているのに、今気がついた。
彼女の顔に、水滴がいくつも落ちた。最初、それが何であるのか分からなかったけれど、触れてみてそれが生暖かいことに気づいた僕は、ようやく分かった。これは、僕の涙だ。僕は、しばらく人のために泣くことがなかったので、自分が誰かに対して泣いているというのに気づいていなかった。泣きそうになったことは何度かある。けれど、本当に僕が人のために泣くなんて、思っていなかった。いや、これは人のためなんかじゃない。僕が悲しいから泣いているんだ。僕は彼女に、もっと側にいてほしかった。側にいてやりたかった。だから、彼女がいなくなってしまって悲しく思っている自分のために泣いているんだ。僕は、きっと他の人も、自分が抱く感情にいちいち言い訳を張る。それが無駄であることを、僕は彼女と過ごしているうちに学んだじゃないか。
僕は彼女から、本当に多くのことを学んだ。だから僕は、もう二度と目を覚ますことのない彼女の頬に、僕の頬を横たえた。彼女から体温を感じてみようとしたけれど、彼女の頬は、もうとっくに冷たかった。もっと君から、色々なことを教えてほしかった。僕ばかりが君から恩恵を受けた。僕は君に、何かを与えることができたのだろうか。
それからの日々は、とにかく目まぐるしく過ぎて行ったことを覚えている。
彼女のお葬式が執り行われ、それには学年全体で参加した。彼女は人望があったのか、何人もの生徒が泣いていた。僕はお葬式で泣くことはなかった。弔辞は生徒会長が行い、僕はきっと彼女とほとんど関わらなかったであろう彼のスピーチが保護者の方たちの涙を誘発するのを見ているだけだった。僕がもし彼と同じ立場だったとき、僕は彼女に何て言うのだろう。きっと、僕は上手く言葉をまとめることができず、伝えたい気持ちだけが先走って取り乱し、周囲に醜態を晒していたことだろう。もしかすると、お葬式をきれいに終えるためには、感情移入しないような、故人と関わりの薄かった人物に弔辞をお願いして円滑に進めるのが良いのかもしれない。少なくとも僕が弔われる立場だったら、それを望むかもしれない。もしも彼女が僕よりも長生きして名乗り出てくれるのであれば……そのときは考えるかもしれない。
お葬式が終わって帰宅すると、父さんと母さんは僕に余計なことは言わず、けれど気遣いながら夕飯やお風呂をもてなしてくれた。二人の対応を見るに、僕が弔ってきた相手が、僕にとって大切な人だったことを察していたのかもしれない。それほど、当時の僕は参っていたのだろう。僕は二人の気遣いをありがたく受け取った。
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