第13話

 彼女のお見舞いに行く途中、僕は彼女の家である花屋に立ち寄った。仕事をしている最中だった彼女の母親は、僕が来たことを喜んでくれた。僕は一通り花屋を見回してみて気がついた。

「前に来たときとは、花の種類が違っていますね」

「花にも時期があるの。結構繊細だから、季節が変わるとすぐに変えなきゃいけない」

 彼女の母親はそう言って笑うと、「ゆっくり選んでね」と僕に言い残して仕事に戻った。僕は彼女に渡すための花を選びに来たのだけど、彼女に見合った花が見当たらない。もしかすると、違う時期に咲く花の中にお目当てのものがあるかもしれない。けれど、彼女の余命はあと半年を切っている。彼女が生きているうちに、僕はちゃんと彼女に花を選んで届けることができるのだろうかと不安になった。

 その不安から、僕は彼女の母親に尋ねた。

「お仕事中すみません。あの、咲さんに花を買ってあげたいんですが、彼女は何の花なら喜んでくれるでしょうか」

 僕の問いかけに、彼女の母親は微笑んだ。

「咲は花なら何でも好きだし、君が選んでくれた花なら喜んでくれると思うよ」

 彼女の母親の言葉はよくあるものだったけれど、僕をあしらうためではなく、本心から出たものだということがなんとなく感じ取れた。そして、僕は彼女の母親がそう返答することを予期していた。なぜなら、僕も僭越ながらそう思っていたからだ。彼女なら、きっと何を選ぼうと喜んでくれるだろうと。

 彼女の母親のアドバイスから彼女の考え方に通ずるものを感じ取ったので、僕は頭が上がらないな、と心の中で思いながら、気を取り直して彼女に贈るための花選びに腐心した。けれど、結局ピンとくるものがなかったので、彼女の母親には申し訳なかったけれど、何も買わずにお店を出た。去り際、彼女の母親は僕を慰めるように言った。

「花を選ぶ人はよく、たくさん迷って最後は何も買わずに去って行くの。きっと、しっくりくるものがなかったからね。でも、それってその花を贈る相手のことをちゃんと考えているってことなんだと、私は思う。だから、気にしないで大丈夫よ。あの子のことを大切に想ってくれているだけでありがたいし、あの子も幸せだと思うから」

 彼女の母親の言葉に、僕は励まされた。また何も彼女に与えられないまま終わってしまうのかと落ち込んでいた僕にとって、それは救いの言葉だった。

 僕は彼女の母親に頭を下げてから彼女がいる病院に向かった。いつものように病室のドアを開けると、いつも通りの彼女がいて僕はまたほっとした。

「今日も来てくれたね」

 彼女は嬉しそうに笑った。彼女がこうやって笑顔で僕を迎え入れてくれるのは、あと何回なのだろうか。

「物語、できたよ」

「え、ほんとっ?」

 僕が言うと、彼女はきらきらした瞳を麗せながら、僕が取り出したノートを覗き込んだ。彼女にノートを手渡すと、「うわぁ、いっぱい書いてある!」と興奮したようにページをめくった。

「今読んでいい?」

「いいよ」

「やったぁ!」

 彼女ははしゃぎながら僕のノートを食い入るように読み始めた。

 僕は一つだけ、彼女が僕の物語を読むことを懸念していた。というのも、彼女と同じように病気を患った登場人物を主人公にした物語も描かれているからだ。

 けれど、そんな心配は無用だったようで、彼女は僕が予想した以上に良い反応を示してくれた。読み終わった彼女はしみじみと物語の余韻に浸っているようで、その表情を見ることができるのは、創作者冥利に尽きるというものだ。

「すごくよかった」

 彼女はまだ物語の世界から抜け出せていないようで、何度も同じページに視線を走らせていた。今日僕が持ってきたノートには三つの物語が書かれている。一つ目は、少しファンタジー要素のあるもので、主人公は余命僅かな女の子と、その女の子から命をいただこうとする死神の話だ。二つ目の話は仲良しの兄弟が家出をして、その道中で色々な人と関わって、やっぱり我が家が一番だということに気づく話。三つ目は、植物を擬人化した話で、きれいな花に想いを寄せる雑草の話だ。ちなみに、三つ目の話はかなり昔に書いた話に手直しをしたもので、誓って彼女と出会ってから書いた話ではない。

 一つ目の話が彼女の心理状態に悪影響を及ぼすことを懸念していたけれど、むしろ彼女はその話が一番気に入ったようで、僕は安堵した。ちなみに、僕は個人的に三つ目の話が一番気に入っている。話のクオリティが三つの中で一番高いのだ。決して他意はない。

「兄弟二人とも純粋で可愛いかったし、雑草くんの一途な恋心も素敵だった。でも、死神さんと女の子の願い事にはじーんとしちゃったなぁ」

 驚くことに彼女は涙を流していた。ありがたいけれど、その物語に何か別の想いを彼女なりに当てはめているのかもしれないと思うと、少し複雑な気持ちになった。けれど、純粋に物語を楽しんでくれたことはよく分かったので、僕は素直に嬉しく思った。

「楽しんでもらえたようで何よりだよ」

「うん、すっごく良かった! 紡くんは才能あるよ! また書いてね!」

「…………」

「あれ、どうしたの?」

「……いや、今、僕のことを下の名前で呼ばなかった?」

「…………あ」

 僕の指摘に彼女は呆けたように口を開けた。それから急速に顔が赤色に染まっていくのを見届ける僕から逃れるように、彼女は布団を自分に覆い被せた。

「ご、ごめん! つい、ぽろっと……今のはなかったことに!」

 彼女はベッドの上でバタバタと悶えた。しばらくすると布団のもそもそが収まり、彼女は冷静さを取り戻したようで、普段の色に戻った顔を布団から覗かせた。

「……あのさ、その、やっぱり、なかったことにしないで」

 彼女は僕から顔を背けながら言った。さきほど顔から引いたはずの赤色が、今度は耳に侵食していた。そんな彼女から発された言葉の意味が分からずに首を傾げると、彼女は言った。

「だから、その、下の名前で呼びたいから」

 彼女は意を決したように僕の方に向き直った。

「これからは、名前で呼んでもいいかな」

 彼女は僕にそう告げてから俯いた。もしかして、彼女は不安に思っているのだろうか。僕が彼女の要求を拒絶することを恐れているのだろうか。そうだとすれば、それはあまりにも見当違いな杞憂だと言える。僕は彼女からお返しできないほどの恩恵を受けてきた。そんな彼女の申し出を断る理由なんて、どこにもなかった。

「もちろん、構わないよ」

 僕がそう言うと、彼女は顔を勢いよく上げて目を見開いた。

「本当に?」

「うん」

「ありがとう!」

 彼女は素直に自分の感情を表現した。これができる人間がいかに少ないことか、僕には想像がつかない。僕もまだ、彼女ほど感情を素直に出すことはできていない。

「じゃ、じゃあさ」

 彼女はさきほどお願いしたときよりもさらに緊張した面持ちで、僕に言った。

「紡くんもさ、私のこと、咲って呼んでくれないかな?」

 彼女は照れたようにはにかんだ。僕は彼女のお願いに対する返答に、今度は少しの時間を要した。というのも、僕は生まれてこの方、人の名前を呼んだことがほとんどないのだ。せいぜい、小学生のときに雪音のことを名前で呼んでいたくらいで、今や思春期に突入している僕にとって、誰かを名前呼びすることには猛烈な羞恥を伴う行為になっている。名前はおろか、苗字で人の名前を呼ぶことにも抵抗がある。

 人付き合いの少なさが災いして、僕は彼女の要求に二つ返事することができずに制止してしまっていた。彼女はそんな様子の僕を見て、徐々に不安の表情を浮かび上がらせていた。極力彼女の要求には答えたい。彼女には時間があまり残されていないから。けれど、そんな状況であるにもかかわらず、僕は自分を羞恥から守る選択を取ってしまった。

「……気が向いたらね」

 僕が言うと、彼女は残念そうに俯き、「そっか」と言った。良心が痛んだけれど、どうしても彼女の名前を呼ぼうとすると、とたんに口が塞がってしまうのだ。

 彼女は僕の意思を尊重して、それ以上の追求をしてくることはなかった。それからまた僕の書いた物語の感想を語ってくれた。

 それからも彼女の病室に向かうたびに、僕は自分が書いた物語を彼女に提供した。日が経つごとに僕のノートには文字が増えていき、冊数も増えていった。僕がノートを差し出すたびに、彼女は喜んでくれた。僕は日を重ねるごとに物語を書くことに熱中し、面白いことに書くこと以外のことに対しても積極的に取り組むようになった。今までなら、自分がふとこれをやってみたいな、と思ってもすぐに面倒になってなかったことにしていたけれど、最近の僕は思い立ったらすぐ行動するようになった。そのおかげで、僕は後悔することが極端に減った。

やって後悔することとやらなくて後悔すること、どちらを選べばよいのかという問いには、不必要な大前提がある。それは、人の目を気にするということだ。後悔とはつまるところ、人から反感を食らったり、自分が嫌われてしまったりすることから生まれるものだ。つまり、「いし」の軸を他人に置いたフィルターが自分の心と思考との間に介在していることを意味する。他人の目を気にする癖を一度取り払って考えてみれば、後者の選択をすることがいかに愚かであるかを理解することは容易い。本当の意味での自分の「いし」で生きるとは、つまりそういうことなのだろうと思う。

僕は彼女の病室に通いながら物語を書いている傍ら、毎日のように彼女を象るような花を探し続けていた。彼女の実家である花屋を訪れて彼女の母親に相談したり、図書館に行って花の図鑑を借りたりして自分のできる範囲で行動し続けた。けれど、一向に見つけることができず、気がつけば十月の半ばに差し掛かっていた。僕は焦り、どうにかヒントはないかと思案した。無論、彼女に相談するわけにはいかない。彼女の母親にも口封じしている。

 そうやって低迷している最中、彼女の病室を訪れたある日、僕は彼女の言葉がきっかけで彼女の花に関する手掛かりをつかむことになった。

「そういえば、前に二人で行ったお花畑、もうすぐで閉園しちゃうんだって」

 彼女は至極残念そうに呟いた。彼女と同じ感情を僕も抱いていた。あの花畑は、僕にとっても特別な思い出となっている。今後足繁く通うこともないだろうけど、もう二度とあそこに行けなくなってしまうのは非常に残念だ。人間も場所も同じで、自分が目にする回数が少なくても特に思うところはないはずなのに、それが完全に消えてしまうとなると、途端に物悲しくなる。もしかすると人間は、所有本能が強いのかもしれない。

 そんなことを思いつつ彼女と花畑に行ったときの記憶を懐かしんでいると、あることを思い出した。彼女が僕に展示場で花言葉を教えてくれたときに、僕が彼女にぴったりだと思った花があったことを。あのときはそれほど意識に留めなかったけど、今となってはあの花以外に彼女にぴったりな、少なくとも僕にとっては彼女にぴったりだと思う花はない。

「それだ」

 珍しく興奮して思わず立ち上がった僕を、彼女は不思議そうに見つめた。

「突然どうしたの?」

「良いことを思いついたんだ」

「良いこと? あ、もしかして、新しい物語のアイデアとか?」

「まあ、そんなところさ」

 僕は曖昧に答えて片方の口角を上げてみせた。彼女はそれを見てさらに目を見開いてからくすくすと笑った。

「どうしたの?」

「いや、紡くんがそんなにもはしゃいでる姿を見たことなかったから」

 彼女はそう言って、また可笑しそうに笑った。さすがに恥ずかしくなって、僕のテンションも通常の張り具合に戻った。

 翌日には居ても立っても居られずに、たまたま休日だったので、僕は午前中から例の花畑に一人で向かった。午後には彼女のお見舞いが予定として入っている。

 うきうきとした気持ちで僕は電車を乗り、逸る気持ちを何度もため息に混ぜた。身に覚えのないほど興奮しているらしい自分が可笑しかった。

 目的の駅に到着し、僕は彼女と行ったルートを思い出しながら早歩きで辿った。仮に道を思い出せなくても、携帯で地図を開けば問題はない。けれど、自分が思っていた以上に記憶に残っていたらしく、自分の足取りに淀みはなかった。

 結局僕は、一度も携帯に頼ることなく目的地に到着することができた。十月の今、彼女と一緒にここに来た八月とは違って、随分と楽に赴くことができた。あのアスファルトの坂道も、大して苦になることはなかった。

 坂を登り切ってからいつかのように下を見下ろすと、前に来たときと変わらない景色が広がっていた。けれど、あのときにこの景色を見た僕と、今この景色を見ている僕とでは、かなりの差があった。周りから見れば変わっていないように見えるかもしれないけれど、それは見た目しか見えていないからで、僕の心境は以前に比べて大きく変化している。

 高度があるからか、地上よりも鋭い風が吹いて僕は少し寒く感じた。僕は急いで木のアーチをくぐった。きっと彼女がいればこの寒さも気にならなかっただろうな、と思ってしまった自分に気がついてこっぱずかしくなった僕はそれを誤魔化すように「高校生一人」と以前受付にいたのと同じ女性に早口で言った。女性は無言でチケットを渡してきた。それを受け取って、僕は展示場に向かうよりも先に花畑を堪能することにした。

 花畑に続く花のアーチを抜けると、当然ながら花畑が広がっていたのだけど、僕は違和感に襲われた。というのも、こんな雰囲気だったっけ、というのが第一印象だったからだ。そして、すぐにその違和感が細部の色合いの変化、すなわち植えられている花の種類が変化していることから生じたものであるということに気がついた。

 花畑の様相が変化しているのは当然だった。彼女の母親が言っていたように、花は季節の変化に敏感で、存在できる期間が限られているのだ。前に彼女と来たときの季節は夏で、今は秋。咲いている花が変わっているのは当然だった。けれど、夏に見たときとは随分と違う印象を受けていることに、僕の心は追い付いていなかった。

「こんなにも、儚かったっけ」

 照り付けるような空の下で咲いていた花々は、まさに「元気」を具現化したような光景を演出していた。けれど、秋になって少しの寒さを運んでくるこの季節の儚さを、目の前に広がる花畑は象徴していた。もちろんきれいなのには変わりない。けれど、前に見た花畑と今見ている花畑のギャップに、僕は驚いていた。

 花の鑑賞もそこそこに、僕は今日ここに来た理由である展示場の探索を実行することにした。前に彼女が指をさして花言葉を口にした花の中で、僕は彼女に見合った花を見つけていた。その花が何であったのかを、確認しに来たのだ。

 展示場に向かうと、僕は絶望することになった。展示場の入り口には張り紙と立ち入り禁止の看板が添えられていた。どうやら、花畑の閉園よりも一足先に閉館してしまったらしい。僕はしばらくの間展示場の前で立ち尽くし、それから窓から中が見えないかと悪足掻きしたけれど、すでに中はもぬけの殻となっていた。

 気落ちして花畑を後にして受付を通り過ぎようとした僕は、気まぐれで受付の女性に尋ねた。

「あの、ここの花畑って、どうして閉園するんですか?」

「公園ができるらしいよ」

「公園……」

 ケチをつけるつもりはないけど、ちゃんと立派な、子どもたちが喜ぶような公園を造らないと僕は納得しないぞ、と計画を企画したどこかの人に心の中で念を送った。

 僕は帰り際、行きとは百八十度反対の感情を抱きながら彼女が待つ病院に向かった。やっぱり、彼女に訊くしかないのだろうか。彼女が前に教えてくれた花が何であったのかを。でも、やっぱり僕のプライドがそれを許さない。どうしても彼女には秘密にしておきたかった。彼女の喜ぶ顔が、見たいから。

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