第12話

 彼女の病室へは極力毎日行くようにした。本当は、彼女のお見舞いに行くのが怖い。毎日病院に通って、そのたびに彼女の容態が悪化するのを見てしまうことになると思ったからだ。けれど、僕は彼女の元へ行くのを拒む自分の足を叱咤しながら、なんとか今日も彼女がいる病室に向かう。

 病室の前で、僕はいつものように深呼吸をする。それは、昨日までとは違う彼女がそこにいたらどうしようという、後ろ向きな考えを体外へ放出するためのルーティーンだった。

 深呼吸が終わってから勢いよく病室の扉を開けると、そこにはいつもと変わりない彼女の姿があった。僕は思わず安堵のため息を吐いた。

「あ、諏形くん! 今日も来てくれたんだね! ありがとう!」

 彼女は明るい笑顔を僕に向けてきた。その笑顔の裏に、何もないことを僕は願った。

「今日はみかんを買ってきたよ。食べれる?」

「みかん大好き! いつもありがとね」

「いいよ、これくらい」

 そう、これくらい、どうってことない。君からは、返しきれないほどのものをもらったのだから。

「そういえばちゃんと自分の心に従うことを意識しながら過ごしてる?」

 彼女は病人でありながら、僕のことを気遣った。さすがの彼女も余裕なんてないだろうに、そんなことを感じさせないような振舞いで彼女は僕に向きあった。

「うん。昨日はまっすぐに家に帰るのがなんとなく嫌だったから、目に入った細道で道草を食べたよ。とても美味しかった」

「あはは、良い傾向だね!」

 彼女は豪快に笑った。

 ここ最近、ずっとこの調子で彼女のチェックが入る。ちゃんと、自分が望むことに取り組んでいるのかを確認されるのだ。

ここ一週間、彼女の指示に従って実行した、彼女には見せていない自分のしたいことをした記録がこれである。


気になっていた新作のゲームを買った

駄菓子屋さんを見つけてお菓子を食べたくなったので、久しぶりに買った

昔好きだったアニメの絵を描いた

気になっていた映画を見た

昔仲が良かった友達とご飯を食べた(僕から誘ったことに驚かれた)

ネットカフェで初めて宿泊した

昔やめた執筆を再開した


 僕は思わず苦笑した。もう二度とやらないと決めていた執筆を、僕に再開させる機会を彼女は設けてきたのだ。やはり、彼女には恐れ入る。

 僕はそんな彼女に、ずっと秘密にしてきたことを打ち明けることにした。

「僕は昔、好きだった子を病気で亡くしたことがある」

 突然の僕の告白に、彼女は驚いたように目を丸くした。

「確かその子もがんを患っていた。幼かった僕は、その子の病気が治ることを信じて、励まし続けてたんだ。僕は昔、物語を書くのが好きで、その子も僕が書いた話を好きだと言ってくれてた。だから、僕はその子に毎日物語を書いては見せて、元気づけようとしてた。その子は喜んでくれてたけど、日を追うごとに衰弱していった。そしてついに、その子は亡くなった」

 そこまで一気に話してから彼女を見ると、彼女は神妙な面持ちで僕の話を聞いているのが確認できた。

「それ以来、僕は筆を取ることが、怖くなったんだ。言うまでもなく、その子の死を思い出してしまうからだと思うけど、とにかく、僕は物語を創作することを、諦めてしまった」

 僕が言い終わると、彼女は言った。

「そうだったんだね」

 彼女は同情というよりは、単に今の話を悲しく感じたようで、泣きそうな顔をした。それから彼女は赤くなった目を僕に向けてきた。

「その子のためにお話しを書いた諏形くん、とっても素敵だね」

 彼女は、今度は嬉しそうに笑った。

「その子は幸せだったはずだよ。君にそんなにも愛されてたんだから」

「……だといいな」

 僕は彼女の言葉に控えめに笑った。

 彼女はそれから真顔に戻って僕に訊いた。

「もう、お話しは書かないの?」

 彼女は、まっすぐに僕の目を見つめた。彼女のその目を前にして、嘘や誤魔化しが通用するはずはなかった。

「実は、最近また書き始めたんだ」

 僕の言葉に、彼女はベッドから少し身を乗り出しながら驚いた。

「ほんと?」

「うん、本当だよ。君がきっかけで」

 僕は、彼女と僕の幼馴染を無意識のうちに重ねてしまったのか、彼女が入院することを知ったときから、執筆のことが頭から離れなくなっていた。けれど、僕はまだ物語を書く勇気はなかった。それからずっと、迷っていた。もう一度筆を取るか。でも、僕は気づいていた。今までにないくらい、物語を書くことに心が躍っていることを。書きたくて仕方がないことを。

 その欲望を現実にするのに後押ししたのが、彼女が僕に教えてくれたことだった。彼女が入院してから、毎日自分のしたいことを実行するようにした。その結果、何の意図もなしに再び筆を取るという事象にたどり着いた。そのときには気がつかなかったけれど、思い返してみて、自分がしたいことをした結果、それらが連鎖して僕を今という現実に導いていたことに気づいたのだ。詳細は長くなるので割愛するけれど、僕は彼女の言葉が本当だったことに驚き、戦慄したのを覚えている。

 彼女は僕の言葉に不思議そうに首を傾げた。それを見た僕は、思わず笑った。それから、彼女に「ありがとう」と言った。彼女の首がますます傾斜していくのがまたさらに滑稽で愉快だった。

 しばらくは他愛のない話をした。それから、そろそろお暇する旨を彼女に告げると、彼女は僕の袖を引っ張った。

「その、もしお話しを書き終わったら、私にも見せてくれる?」

 彼女は少し、不安そうに訊いてきた。けれど、彼女は何も不安に思う必要はない。僕は端から彼女に見せるために物語を書いているのだから。

「もちろん。書き終わったら君に見せるよ」

「本当に? やったぁ!」

 彼女に、僕は口約束した。彼女はとても喜んだ。そして僕の方にぐいっと上半身を寄せてきた。そして、小指を立てて僕に近づけてきた。

「約束」

 どうやら彼女は、物理的に認識できる契りを結びたいらしかった。僕は彼女の小指に自分の小指を絡ませた。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます! 指切った!」

 僕と彼女は互いに顔を見合わせて笑った。

 僕は彼女がいる病室を立ち去り、家に帰った。それから自分の部屋に籠って、まだ完成していない物語の続きを書き始めた。本当は今の時代、パソコンで執筆するのが主流で効率もいいのだろうけど、僕は昔みたいにノートに手書きで文字を連ねることにしていた。理由を問われれば、なんとなくとしか言えない。ただなんとなく、そっちの方が楽しいのだ。

 夢中でノートに話を書いていると、コンコン、とドアがノックされた。僕はいつの間にか暗くなっていた部屋を見渡して少し驚いた。それから小さく「はい」とドアにの向こうに返事をした。

 入ってきたのは、母さんだった。無言で電気を点けた母さんは、いつもとは少し違う、真面目な表情で僕を見ていた。

「どうしたの?」

「今から下に来れない? 家族会議があるの」

 家族会議、という言葉に、僕は露骨に嫌な表情を浮かべた。また、父さんの独壇場に付き合わされるのか、と思った。会議だなんて言うけれど、それは等しく全員に討議の権利が渡っている場合にのみ適用される言葉なのだと僕は思っている。けれどこの場合、父さんから僕への一方的な言い聞かせにすぎない。どうせまた父さんが発案したものだろうと思って黙っていると、母さんは静かに口を開いた。

「家族会議しようって言いだしたの、私だよ」

 僕の心を見透かしたように言った母さんの顔を、僕は思わず驚きの感情とともに振り返った。母さんはいつも、父さんのきつい発言から僕をフォローしてくれる存在だった。だから、自ら僕をその戦場へと送ろうとする母さんに、かなり驚いた。きっと父さんも面食らったに違いない。僕は無言で母さんのあとに続いて一階に下りた。僕は階段を下りながら、母さんの意図が少し分かった気がした。最近の僕たち家族は、今までにないほど険悪な雰囲気を漂わせながら毎日を過ごしている。主にその原因は父さんと僕であるわけだけど、このままの状態を続けるのは良くないと母さんは判断したのだろう。

 リビングに行くと、すでに父さんは着席していた。いつしか三人でテーブルを囲んでご飯を食べることもしなくなっていた。そのテーブルを囲んで、母さんは父さんの隣に、僕は二人に向き合うようにして座った。非常に居心地が悪く、視線をテーブルの上に向けることしかできない。

「二人とも、私の勝手に付き合ってくれてありがとう」

 母さんは重苦しい空気の中、主催者として自ら家族会議を開始した。

「私がどうして家族会議を開こうとしたのかは、二人ともなんとなく分かってくれてると思う」

 僕と父さんは、母さんの発言に顔を上げた。

「今日こそは、お互いにちゃんと向き合ってほしい。私も含めて、腹を割って話しましょう」

 母さんの宣言によって、リビングにはさらに緊張の雰囲気が漂った。

「紡。何か、私たちに言いたいことはない?」

 母さんの問いかけに、僕は無言で首を横に振った。

「……そう。じゃあ、まずは私から話すわね」

 母さんはそう言うと、なぜか緊張した面持ちで息を吐いた。

「紡。私、ずっとあなたに黙っていたことがあるの」

 進路のことについて言及するのだろうと予測していた僕は、母さんの予想外の導入にたじろいだ。それにしても、黙っていたこととはなんだろう。

 しばらくの沈黙のあと、母さんは言った。

「私、離婚したことがあるの」

「な、なにを…………」

 うるさいほど静かなリビングに、母さんの声が響いた。その声を境に、さらなる静寂が僕たちを取り囲んだ。父さんの動揺した声は、母さんの声とその後に訪れた静寂に挟まれて押しつぶされた。いつもなら嫌でも届いてくる父さんの声が、今は嘘みたいに存在感がなかった。

「ど、どういうこと?」

 僕は母さんの言葉、もとい告白を懸命に咀嚼してみたけれど、まさか自分の家族が離婚しているとは思っていなかったので、自分の解釈が正しいのかどうか判断できなかった。いや、間違いなく今の僕の理解の仕方はズレている。それを承知の上で、僕は母さんに訊いた。

「父さんと母さんが、実は離婚しているってことじゃないよね?」

 自分の戸惑った声を拾った母さんはすぐさま首を横に振った。

「私が、お父さんと結婚するよりも前に、一度離婚しているの」

 自分の中で故意に除外していた可能性を、母さんは僕に突きつけてきた。

 母さんが、離婚していた。自分の中で思い描いていた、優しくて世間の厳しさをあまり理解していないんじゃないかという母さんのイメージが、一瞬で崩れ去った。

「前の旦那さんはね、DVをする人だったの」

「DV……」

「家庭内暴力。つまり、私は前の旦那さんから暴力を受けていたの」

「…………」

 僕は衝撃のあまり、母さんの顔を凝視したまま制止してしまう。いつもと変わりのない母さんの優しそうな顔からは、そんな過去を見受けることができない。僕は思わず母さんの隣で静かに座っている父さんに視線を向けた。父さんは母さんの行動を見守ることを決意したらしく、腕を組んだまま、視線をテーブルの上に固定している。

「あざだらけでバツイチの私は、離婚したあとにお父さんと出会ったの」

 母さんは微笑みながら「今まで黙っててごめんね」と僕に謝ってから、隣でお地蔵さんのように険しい顔をしてじっとしている父さんを見つめた。

「お父さんはね、どうやら私に惹かれたみたいで、すごいアプローチを受けたのよ」

「おい、母さん」

 石のように固まっていた父さんは、母さんの言葉に思わず人間に戻って反応した。顔はほのかに赤くなっている。

「お父さんから受けたプロポーズの言葉はね」

「そこまでだ、恵子」

 父さんは相当動揺したのか、今までほとんど口にしてこなかった母さんの名前を口にした。

 僕は初めて、父さんに同情した。男にとって自分の愛の言葉を掘り返されることほど苦痛なことはない。頼む、やめてあげてくれ。

「もう、照れ屋さんなんだからー」

 母さんはいつもの調子で父さんの肩をバシバシ叩いているけど、父さんの方は疲労困憊している様子だった。

「じゃあ、せめてこれくらいなら言ってもいいかしら」

 母さんはそう言うと、リビングにある窓の縁に置かれた花瓶を指さした。そこには最近僕が母さんに買ってあげたカーネーションと、もう一つ、常にそこにある花がある。

「あそこに飾ってあるバラ。どうしていつもバラを飾っているのか不思議に思ったことはない?」

 母さんはニヤニヤとしながら僕に訊いてきた。

「うん、まぁ、確かに」

 当たり前にいつもそこにあるので、気にしたことがなかった。あのバラに意味があるのだとすれば、この話の流れから察するに、嫌な予感しかしなかった。この先の話を聞きたくない。

「お父さんが私に結婚を申し込んでくれたときにくれた花が、バラだったの」

 母さんは、「きゃーっ」ととんだミーハーな調子ではしゃいでいる。僕は父さんの方を見るのが怖かった。けれど、人間怖いもの見たさが働くのは本当のようで、僕は欲に負けてちらりと父さんの方を見た。父さんは片手で顔を覆いながら、テーブルに肘をついていた。こんなにも人間的な父さんの仕草を見たのは初めてかもしれない。もしかすると、僕が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。

 僕だったら、彼女に何の花を渡すのだろう。そして、もしも彼女が僕の花を見つけたら、何の花だと教えてくれるのだろう。

 そこまで考えて、僕が正常ではない思考を走らせていることに気がついた。両親のプロポーズの話の流れで彼女のことを思い浮かべてしまったことに。彼女に花を選ぶことを前提に話を進めていることに。告白するわけじゃあるまいし。

 けれど、そんなどうでもいいことは、続く僕の妙案によってどこかへ吹き飛んで行った。

 彼女のお見舞いに、花を持っていくのはどうだろう。騒ぐ両親の前で、僕は密かに心が躍った。彼女にぴったりな贈り物は、まさに花じゃないか。それが盲点だったことに気づいて、僕は珍しくはしゃいだ。

「あれ? どうして笑ってるの、紡。そんなにお父さんの告白エピソードが面白かった?」

「もう、やめてくれ……」

 項垂れる父さんの横にいながら、母さんは全く悪びれる様子がなかった。僕は思わず苦笑し、そんな僕を見た母さんは微笑んだあと、真剣な表情をした。

「私みたいな人を選んでくれたのは、お父さんが優しかったから。お父さんは優しいから、紡のこと、心配して進路のことも気にかけてくれているのよ」

 母さんは諭すように僕に言った。父さんは珍しく一言も発さないまま、この議論を見守っている。そんな父さんを見て、僕はあることに気がついた。

「…………何を選んでも、いいの?」

 それは、自分が気がついたことに対する確認でしかなかった。

 母さんは僕が父さんに視線を向けていることから、僕が父さんに訊いているのだということに気づいた様子だった。父さんもそのことに気づいているようで、ゆっくりと伏せていた顔を上げて、僕と目を合わせてきた。やっぱり少しだけ怖いけれど、今の父さんには話が通じるような気がした。

「…………あぁ」

 やっぱり、僕が勝手に自分に制限をかけているだけだったんだ。父さんは一度たりとも、自分の好きなことやしたいことをしてはいけないなんて、言っていなかった。僕が勝手に、進路を自分のしたくもないことと無理やり結び付けていただけなんだ。自分の好きなことから目を背けて、諦めていただけなんだ。彼女が言っていた通り、自分の人生の責任を、他人に押し付けていただけなんだ。

「僕、また始めたんだ。小説を書くの」

 僕の発言に、二人が息をのむのを感じた。そして、母さんは笑顔になって僕に言った。

「いいじゃない! やっと書くのね!」

 母さんは、僕がいつかまた筆を取ることを分かっていたかのような口ぶりで言った。幼馴染の雪音が死んでから僕が小説を書かなくなったことを、二人は知っている。だからか、僕が小説を再び執筆していることを口にした瞬間、この場の空気が柔らかくなるのを感じた。

「それで食べていくの?」

 母さんはただ確認を取っているようで、僕がそれを進路選択に当てはめることに対してまるで抵抗感を抱いていないようだった。

「分からない。小説を書くことを生業にするのかどうか、そこまでは考えていない。ただ、今の僕は、小説を書くのが楽しいと思ってる」

 僕の言葉にうんうんと母さんは頷いた。

「その言葉が聞きたかったの。いやぁ、嬉しいわぁ」

 母さんは年も年なのに、両頬を両手で押さえながら嬉しそうに言った。

「…………父さんは、どう思うの」

 緊張しながら、僕は父さんに訊いた。どんな答えが返ってこようと、僕は最初から自分の「いし」は固まっていた。だから、これはあくまで確認でしかなかった。

「…………そうしたいなら、すればいい」

 父さんはそう言ったきり、何も言い返してこなかった。

「じゃあ、どうする? 専門学校? 大学?」

「もしいいのなら、大学がいいと思ってる。文学部に入りたい」

 ここ最近考えていたことを、僕は二人に話した。

「遠慮なんてするものじゃないわよ」

「あと、せっかく4年間も通うのに、もしかすると途中でやめちゃうかもしれない」

「そんなの、当たり前じゃない。人の興味と恋心なんて、呆れるくらい移り変わるものなんだから」

 母さんはケロッとそんなことを言った。

「今、自分が楽しく感じていることをこなしていく。それができない人が大勢いる。紡はその中で、自分の考えで、そう決めた人間なんだから大したものよ」

 母さんは誇らしげに胸を張った。

 僕は、自分のしたいことを、していいんだ。自分の好きなものを、選んでいいんだ。体裁を気にして、自分をそこに当てはめていく必要なんて、これっぽっちもないんだ。

「お父さんだって、自分のしたいことをしてたもんねー」

 母さんはまたもニヤニヤしながら父さんの顔を覗き込んだ。

「また余計なことを」

「せっかく紡が私たちに自分のことを話してくれたんだから、お父さんの秘密も教えてあげる」

 その秘密とやらが気になって、僕は耳を傾けた。

「お父さん、実はミュージシャンになりたかったのよ」

「…………え」

 意外だった。いつもはあんなにも堅苦しいのに、いや、別にミュージシャンが堅苦しくないってわけでもないだろうけど、とにかく父さんが楽器を弾いたり、作曲したりするのを想像できなかった。

「意外でしょ? 作曲と作詞、どっちもしてたのよ」

「マジか」

「紡が小説を書いてるのを、同じ創作者だって言って喜んでたのよ」

「母さん、もういいだろ」

 父さんは僕から視線を逃すようにして母さんにそれ以上の暴露をやめるように窘めた。

「でもね、紡が生まれてからやめたの。お父さんは、仕事だけじゃなくて、子育てや家事も手伝ってくれたから」

 母さんの言ったことに、僕は驚いた。確かに、料理を作ってくれたり家事をしてくれたりすることはあるけれど、僕の子育てに干渉していたなんて知らなかった。僕の中で、父さんの人物像が大きく変わっていった。そして同時に、申し訳なく思った。僕のために時間を費やしたことで、自分が好きな音楽を諦めることになったのだから。そう思って落ち込んでいると、父さんは咳払いを一つしてから言った。

「やめてはいない」

「え?」

 父さんの言葉に、母さんは驚いたように反応した。

「今でも、続けている」

「……そうだったのね。よかったわ。音楽に熱中しているあなた、かっこよかったから」

 ……二人はこんなにも仲が良かったのか。父さんが無口なものだから、夫婦仲もそこまでよくないと、勝手に思っていた。そしてなにより、父さんが自分の好きなことを続けていることに驚いた。

「でも、ごめん。僕のせいで、時間を削ってしまうことになって」

 僕が謝罪すると、父さんはうめき声をあげてから、首を振った。

「俺が選んだことだ。後悔はしていない」

 父さんの言葉に、僕は、はっとした。

「後悔をするときは、他人の意見に耳を貸したときだ。それが納得できるものならいいが、少しでも違和感を感じたのなら、自分の意見に従うんだ。他人の思いに勝手に同調して、それで失敗して勝手にそいつを恨むのは、お門違いも甚だしい」

 父さんは、いつもと同じ目をしている。けれど、僕の心境の変化によって、いつもは怖くてうっとうしいだけだったはずの視線を、今は素直に受け取ることができた。

 その後、二人の昔話を聞かされてから、僕は解放されて自室に戻った。家にいる間中感じていた憂鬱さは、今の僕にはなかった。

 僕は机に広げたままだったノートに物語の続きを書き込んでいった。さっき、母さんから、完成したら見せてほしいという要望があった。正直なところ恥ずかしいけれど、今の僕は事態が好転したことに舞い上がっているのか、頷いてしまった。けれど、一番最初に僕の物語を見せる相手は決まっている。そして、僕は早く僕が書いた物語を彼女に見せたくて仕方がなかった。昔、雪音のために書いていたときの心情と同じ、ただ書きたくて、読んでほしくて夢中になっている、小さかった頃に感じていた純粋な情熱。鬼ごっこやゲームで何時間でも飽きずに遊んでいたときのような、ワクワクした気持ち。その感覚を、僕は物語を書きながら思い出していた。もちろん、僕の物語が彼女を元気づければ、という想いはある。けれど、誰かのために、を意識しすぎて、また自分の好きなことに打ち込むことに後ろめたさを感じてしまうようになってはいけない。彼女が教えてくれたのだ。自分のために好きなことをして、自分のために生きろと。それが、自分の人生に責任を持って生きるということだと。結果的にそれが、他の人の喜びにも繋がるのだと、僕は思っている。

 僕はいくつか物語を書いた。そして、僕は彼女が笑顔になってくれることを願った。

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