第11話

 新学期が始まって、僕は早急に彼女の在籍状況を確認するために、彼女の属する他クラスの教室に潜った。そして、僕は虚を突かれた。教卓に張り付けられた座席表に、彼女の名前があった。僕は呆気に取られた。教室にはまだ彼女の姿はない。一時間目の授業が始まるまでの間、僕は廊下の手すりにもたれながら、彼女がやって来るのを待った。けれど、彼女はいくら待っても、学校が終わっても、やって来ることはなかった。

 それもそのはずだった。一時間目の授業が始まる前、担任の先生がクラスの出席を確認した後、僕たちに向かってとんでもないことを告白した。

「えー、隣のクラスにいる風野咲さんが、病気を患ったため、夏休み中に入院したそうです。現在も病状はよくないらしく、しばらく学校には来れないそうだ。きっと本人は寂しい想いをしているはずだ。みんなで励ましてやってほしい。そして、学校に復帰できたときには優しくしてあげなさい」

 戻ってきやすいように環境づくりをするのが大切だという先生の言葉はもはや僕の耳には届いていなかった。僕は、昔に一度感じたことのある一抹の不安に襲われ、衝撃に打ちのめされていた。全く気がつかなかった。彼女が病気を抱えていたなんて。そして、彼女は全く言ってくれなかった。彼女が病気だということを。

 転校だなんてレベルじゃなかった。彼女は、大病を抱えて……。

「いや、待てよ。別に、彼女が死んでしまうほどの病気を抱えているとは限らないじゃないか」

 僕は一縷の希望に心が晴れた気がした。夏祭りのときの彼女の言葉を深刻に捉えすぎて、僕は極端なことを考えていた。もしかすると彼女が言った言葉は病気とは無関係かもしれないし、仮に病気のことだったとしても、彼女が感傷的になって大げさに言っていただけかもしれない。

 そう思った僕は、先生に彼女が入院している病院を訊き出し、すぐさまそこへ向かった。病院の受付で自分の正体を明かし、それから看護婦さんが僕を彼女のいる病室まで連れて行ってくれた。

 そしてそこで、僕は自分の考えが甘かったことを知った。

 病室では、窓の外を眺める彼女がベッドに座っており、僕が来たことに驚いた彼女は気まずそうに僕を病室に招き入れてくれた。そして彼女と僕はしばらく沈黙が流れる病室で、お互いの様子を窺い合っていた。そして先に口を開いたのは、彼女の方だった。

「来てくれてありがとう。ごめんね、あの日、あのまま帰っちゃって」

 彼女は申し訳なさそうに笑って僕から視線を逸らした。彼女は僕に対して後ろめたく思っているようだった。

「元気そうでよかったよ」

 僕がそう言うと、彼女の表情に一瞬、悲痛なものがよぎったのを見た。それから彼女は、目を赤くしながら、僕の顔を見上げた。

「…………私、余命半年なんだって」

 彼女の言葉を訊いた僕は思考が停止するのを感じた。もはや感覚でしかなく、脳がフリーズしたのか壊れてしまったのか、一切の思考を拒否するのが体感できた。

 彼女の言った言葉が、理解できなかった。一瞬にして言語機能を失ってしまったかのように、母語である日本語を彼女が発しているはずなのに、僕は彼女の言葉をどうしても理解できなかった。おそらく、僕は反射的に彼女の言葉を理解するのを拒んだのだろう。そのために、僕の脳は言語を認識する役目を放棄したのだろう。

 彼女は何かを諦めたかのような笑みを浮かべた。

 そんな彼女を見て、僕はかろうじて理解できた。彼女が、いなくなるのだ。この世界から。遠く離れてしまうわけでもなく、会おうと思えば会えるわけでもなく、電話越しに声を聞くこともできないのだ。

何も言えなかった。僕の喉は乾いて、唇は震えて、声を出すための器官が何か言葉を発することを拒否してくる。

まただ…………。

「僕は、また……」

 声にならない声で、僕は呟いた。

 僕はまた、大切な人を失ってしまうのか。


 彼女が患っている病気の名称は、「骨肉腫」。骨に現れるがんだという。

 この事実を、僕は彼女から聞いた。訊いたのではなく、聞いた。

 彼女は努めて明るく事の顛末を話していたけれど、そんな彼女の気遣いを無碍にしてしまうほど、僕は沈痛な表情を浮かべていたと思う。正直なところ、そのときのことをよく覚えていない。

ただ、一つだけ覚えているのは、花畑での彼女のケガは、実はケガではなく病気の兆候として発症していたものだということ。僕は彼女からその事実を聞かされたとき、激しい自己嫌悪に陥った。あのとき、僕が判断を誤ったことで、彼女の病気が進行してしまったのではないかと思ったからだ。けれど、彼女はそれをはっきりと否定した。

考えてみれば当たり前だけれど、あのとき、彼女は自分の膝の痛みがケガによるものではないと分かっていた。そして彼女は、自分の身体に異変が訪れていることに気づいていながら、病院に赴くことをしなかった。

「……前に、人生に絶望したことがあるって言ったよね」

 彼女は、吐き出すように僕に告白した。

「昔、今みたいに余命宣告をされたことがあるの。同じ病気で」

 彼女の言葉に、僕は息をのんだ。

「だから私は、その絶望から這い上がるために、自分が幸せになるためにあらゆることをした。そして、今君に勧めているようなことを心掛けることが大切なんだってことに気がついたの」

 彼女はそう言ってから、ベッドの上で体育座りをした。

「病気が再発したことには、薄々気づいてた。君と出会う少し前くらいから、足に痛みが走ることが何度もあった。君の前で痛みを患ったときも、その痛みだった」

 そういえば彼女は、夏祭りのときも膝を摩っていた。そして、体調もあまりよくなかったように思う。

「でも、誰にも言えなかった。また、お母さんを悲しませてしまうかもしれない。もう今までみたいに誰かと遊んだり、自由に行動したりできなくなるかもしれない。何より、また自分が病気になってしまったことを認めるのが、怖かった」

 彼女は涙ぐみながら、僕の目を見つめた。

「今まで黙っていて、ごめんなさい」

 その日の僕は確か、彼女に何も言えずに病室を立ち去った。彼女は終始不安げに僕を見ていた。そんな彼女に、僕は気の利いたことを何一つ言えなかった。まだ、彼女が余命いくばくもないことを、受け止めきれずにいた。病室のベッドの上で、患者着を身に纏う彼女を見ても、受け止めきれずにいた。

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