第10話

 それから一週間が経ったけれど、僕はあの日以来父さんとは口をきいていない。僕にとって父さんと会話しないのは今までとさほど変わらないため、特に不都合はなかった。けれど、母さんは今の状態を良しとせず、しきりに僕に父さんと仲直りするよう勧めてきた。けれど、僕はそれを突き放し続けていた。

 そんな中、彼女から連絡が来た。明日、どうやらこの街で夏祭りが催されるらしく、一緒に行かないかという誘いだった。僕は二つ返事で彼女に応えた。父さんから圧をかけられることもない今の状況に居心地の良さを感じているはずだったのだけど、無意識のうちに家にいることに苦痛を感じていたのだろう。僕は、外に出る口実ができたことに安堵した。

 次の日、僕は彼女の指定した集合場所に向かった。夕飯にしては早い時間での集合なので、僕は夏祭りの会場となる神社に並べられた屋台で食べ物を購入し、それでお腹を膨らませるという算段で彼女と合流した。彼女は僕よりも一足先に神社に到着していた。そして、彼女ははりきったのか、浴衣を纏っていた。浴衣の柄は、花柄だった。

「諏形くん! よかった、思ったより人が多いからちゃんと会えるか不安だったんだ」

 彼女は安心したように破顔した。彼女のその笑顔に、早くも汗が噴き出していた。確かにこの人混みから発せられる数多の体温と屋台からの熱気でこの神社の気温は著しく上昇している。僕が来るまで待っていた彼女は、その熱さに晒されていたのだろう。少しだけ申し訳なくなった。

「さーて、じゃあ早速回って行こっか!」

 彼女ははりきった様子で僕を先導し始めた。彼女の背中は、いつも僕をどこかへ連れて行ってくれる。僕はそれに、頼もしさを感じている。僕は彼女のおかげで、かなり気分が楽になり始めている。色々なことに気づくことができている。それなのに、僕は彼女に何も与えることができていない。

 僕は、彼女に何かお返しができないかと考えた。けれど、まともに人付き合いをしたこともなければ、人が喜ぶことを考えることができるような想像力を生憎ながら持ち合わせていることもない。

彼女が、喜ぶこと。そういえば僕は、彼女のことをあまり知らない。けれど、知らないなりにも、何かあるはずだ。奇をてらう必要はない。僕は普段から人に何かを贈る習慣がないのだ。だから、普通の人がサラッとできるようなことも、僕にはできない。周りの人間が定義する普通は、僕にとってはスマートだ。

 そして、僕はようやく思いつく。

「ねぇねぇ、私焼きそばが食べたいんだけど、諏形くんは何が食べたい?」

 いつものように、僕に何を選びたいのかを尋ねてくる彼女。そんな彼女に向かって、僕は脈絡もなく切り出した。

「あのさ」

「ん?」

 いつになく真剣な表情をしているであろう僕の顔を見て、彼女は不思議そうに首を傾げた。そんな彼女に向かって、僕はかなり緊張しながら言った。

「…………浴衣、似合ってるね」

 言ってみて、僕は自分の顔が爆発してしまうんじゃないかと思うほど熱くなるのが分かった。漫画ならば、きっと蒸気機関車のように僕の頭から蒸気を噴出している絵が描写されているだろう。

 僕は今まで、自分の思ったことを口にする習慣がなかった。だから、本当の自分を表現するのに、抵抗があったのだろう。

 恥ずかしさを紛らわせるために必死に思考していると、ぽかんとする彼女の顔が見る間に赤くなっていくのが見えた。

「……あ、ありがとう。へへ、結構はりきったんだ」

 彼女はそう言って、身体をくねらせながらはにかんだ。

 彼女に毒された僕は、素直になることの愉快さを知った。そして、それを実際に行動に移すことの大切さを学んだ。

 僕と彼女は気を取り直すように、二人していつも以上にテンション高く夏祭りを堪能した。焼きそばやたこ焼き、わたあめやリンゴ飴、チョコバナナやフランクフルト……食べ物ばかりだった。そのことに気がついた僕と彼女は、定番の金魚すくいや射的などにも挑戦したけれど、二人して食べすぎによる横腹の痛みを患うことになった。

 一通り神社を周回したあと、僕と彼女は解放された神楽殿に腰を下ろしながら打ち上げ花火を眺めた。いくつも打ち上がる花火は色とりどりで、僕はいつか彼女が言っていた言葉を思い出した。

「自分がどの色に染まりに行くのか」

 記憶にあった彼女の言葉を復唱すると、彼女は僕の方を振り返った。

「覚えてくれてたんだ」

「君の言うことには、響くものが多いからね」

「……ありがとう。嬉しい」

 彼女はそう言うと、もう一度花火に視線を戻した。そして、夜空を見上げたまま、彼女は言った。

「みんな、好きなことは違う。人それぞれ、自分の才能や好きを生かしてこれから生きていく。けれど、やっていることは、みんな同じ。ただ、方法が違うだけ。みんな、本当の自分になることを望みながら、本当の自分を表現するために、生きている」

 彼女の言葉に、僕は息をのんだ。

「みんな、そのことには無意識のうちに気づいていると思う。ただ、普段忙しくてそのことを意識の外に追いやったり、そのことを言語化できていなかったりして、表向きは忘れてしまっている。人によっては、そんな考えが自分の中にあることを、認めたくない人もいるかもしれない」

 彼女はそれから視線を僕に向けた。

「でも、そのままだと、生きていくうちに身につけた自分じゃない色に翻弄される。本当は生まれたときには知っていた自分の色、そして、自分が本当に取り入れたい色を選ぶには、自分が心地よく感じるものをこなしていく必要がある。自分の心が喜ぶものが、自分の根底にある色。みんな混同してしまうけど、自分が好きだと思っているものに心が躍るように感じても、どこかで苦しさも感じるときがある。でもそれは、それを好きになるように強制されたからで、本当は自分が望んでいるものじゃないから共鳴できずに苦しんでる。つまり、それが好きなんじゃなく、好きなんだと信じ込んでいるだけ」

 僕は、彼女の言いたいことがなんとなく分かった。でも、僕の場合、自分が好きだと思っているもの自体、該当するものがない。一見すると矯正が容易いように思えるけど、僕の場合、自分の色を捨てて周りの色を無造作に取り入れてきた。だからむしろ、自分の意見がなさすぎて、自分の本当の色が何重にも塗られた他人の色の沼に沈んでしまって、虚偽のものですら自分の好きなものを把握できていない。

 気づくと彼女は、自分の膝を摩っていた。前に花畑に行ったときのケガをまだ引きずっているのだろうか。彼女の顔を窺ってみると、額に汗の粒がいくつも付着していて、元々白い顔がさらに白くなっていることに気づいた。これは間違いなく体調が芳しくないことを示している。

「ねぇ、大丈夫?」

 僕の問いかけに、彼女は顔色に似合わない笑顔を返した。

「うん、前に足をくじいちゃったときの痛みがまだ残ってるみたい。でも、大丈夫だから」

 彼女はそう言ってからしばらく膝を抱えていたけれど、しばらくすると顔色も戻ってきた。

「ふぅ、よかった。痛みが引いてくれたみたい」

「それはよかった。でも、悪化するとよくないから、今日はもう帰ろう」

 どのみち花火ももうすぐ終わりを迎える。心残りは何もない。同じことを彼女は思ったのか、僕の提案に素直に頷いた。

「ごめんね、また心配かけちゃって」

 彼女は申し訳なさそうな顔をして僕に謝った。

「いや、大丈夫。君の足に配慮できていなかった僕にも落ち度がある」

 僕がそう言うと、彼女は「やっぱり優しいね」と微笑んだ。僕は、肩をすくめて彼女の言葉に反応した。

 僕は彼女を家まで送った。道中では談笑をしたり、また彼女の哲学や人生学を聴講したりしながら楽しい時間を過ごした。彼女の家に着いたときには、お別れするのが名残惜しかった。

「じゃあ、またね」

 彼女と別れることを残念に思っているのに気づかれたくなくて、僕は早々に切り上げようとした。この場を去ろうと彼女に背を向けた、その瞬間、背中に感じたことのない重量と温かさを感じた。動けずに首だけ振り返ると、彼女が僕を背中から抱きしめているのが確認できた。

「…………どうしたの?」

 やっとそれだけ言うと、彼女は鼻を啜りながら僕の背中に顔をうずめた。

「本当に、今日まで、ありが、とう」

 彼女は泣いているようで、しゃくりあげながら僕にお礼を言った。そしてそのお礼が何を意味しているのか、僕には分からなかった。

「私、君に何か与えられたかな? これから、希望を持って人生を生きようって思ってもらえるようなこと、できたかな?」

 彼女はか細い声で僕に訊いてきた。彼女の質問の意図を把握しかねたけれど、僕は正直に答えた。

「うん。君のおかげで、僕はかなり心が楽になった。君と過ごす時間が楽しくて、久しぶりに何かに夢中になれたよ。本当に、感謝してる」

 僕はありふれた表現で、けれどその言葉を器に、感謝というスープを溢れるほど投入したつもりだ。そんな僕の誠実な想いを受け取ったのか、彼女は安心したように息を吐いた。

「よか、ったぁ」

 そんな彼女を見て、僕もいつか恩返しができたらな、と密かに決心した。けれど、次に来る彼女の言葉で、その「いつか」が脆いものなんじゃないかという不安がよぎった。

「私がいなくなっても、絶対に、自分で自分の人生を生きてね」

「…………何、その言い方。君がもうすぐいなくなっちゃうみたいじゃないか」

「君なら大丈夫。私が保証する」

「ねぇ、答えてよ。いなくならないよね」

「私、君と過ごした時間は忘れない。絶対」

「…………どうして、答えてくれないの」

 声が震えた。彼女は何かを僕に隠している。それは、間違いないようだった。これがもし彼女のいつもの冗談なのだとしたら、僕は年甲斐もなく彼女を叱責することだろう。

 僕の問いかけに沈黙を選んだ彼女は、しばらくして僕から離れた。そして、儚げな笑顔を浮かべた。

「ごめんね。バイバイ」

 彼女は涙を浮かべながら花屋の中に、自分の家の中に入って行った。僕が呼び止めようとするのを予期したかのように、走って僕の視界から逃げた。

「どうして、何も言ってくれないんだよ」

 僕は視線を地面に落としながら独り言ちた。それから、一度彼女が走って行った方を見てから、自分の家に引き返すことにした。

 帰ってからの僕は、いつも以上に何にも手が付かず、この現実から逃れるように早くにベッドに潜った。もしかすると、明日以降、また彼女から連絡が来るかもしれない。仮にそれが希望的観測だとしても、自分から彼女に連絡をすればいいじゃないか。思えば、僕は自分から彼女に連絡したことがなかった。今まで、何度か自分から彼女に連絡しようと思ったことがある。けれど、変なプライドが邪魔をして、それを拒んだ。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。彼女が取り合ってくれようと取り合ってくれなかろうと、僕は彼女に連絡することを決意した。

 翌日から、僕は夏休みが終わるまでの間、彼女からの連絡を待ちつつ、何度か彼女に連絡を取ろうと試みた。けれど、彼女からの連絡が来ることはおろか、一度も僕からのメッセージに取り合ってくれることはなかった。きっと、彼女は僕からの連絡を確認すらしていないのだろう。もしかして、転校でもするのだろうか。それなら、彼女の言葉の説明がつく。生活が新しくなるのに伴って自分の交友関係を見直したりでもしたのだろうか。もしかすると、今は新生活に対する準備を進めていて忙しいのかもしれない。だから、僕からの連絡に気づいていないのかもしれない。でも、そうだとしたら、どうしてあのとき、僕にそう言ってくれなかったのだろうか。

 そうやって不安を覚えているくせに、僕は彼女から聞かされた最後の言葉に怖気づいて、あの花屋さんに赴くことはできなかった。

 不安で胸がいっぱいの毎日を送りながら、僕は進路のことにも手が付かずに惰性的に日々を過ごしていった。彼女からの教えを、今は実行する気にはなれなかった。僕にはまだ、彼女が必要だった。

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