第9話

 彼女の言葉通り、目的地にはすぐに着いた。目的地は何かの施設なのか、木でできたアーチが門として設置されていた。それから僕は、今来た道、もとい坂道を振り返った。そして、びっくりした。思った以上に僕たちは高度のある場所まで来ていたからだ。アスファルトの坂が下まで伸びていて、端にはガードレールが沿うようにして走っている。その下には住宅がいくつも敷き詰められており、その光景は田舎の雰囲気を醸し出している。彼女はさきほど、これだけの坂を走ろうとしていたのか。もちろん、完走する気はなかっただろうけど。いや、本当になかったのか。もしかすると、彼女ならやりかねない。目の前に彼女はいるけれど、怖くてとても答え合わせをする気にはなれない。

「やっと着いたー。ふぅ、長かったね」

 彼女は額の汗を拭って、また伸びをした。もちろん、空を見上げながら。

 僕と彼女は門付近に設置された自動販売機で水を購入し、二人並んでそれを一気に飲み干した。

「ぷはぁ、さいっこー!」

「うん、やっぱり水が一番だね」

「私は炭酸水が一番だけどね」

「うん、意見は人それぞれだけど、今それを口にするのは情緒がないってものだよ」

 彼女は僕の言葉に笑ってから門をくぐった。僕は彼女についていく。

「ところで、ここはどういった場所なの? いまだに掴めないんだけど」

「もうすぐ分かるよ」

 彼女の胡散臭い言葉に従うしかない僕は、鼻歌を歌う彼女についていく。しばらくすると、中年くらいの女性が、受付用の透明なガラス越しで座っているのが見えた。彼女はその人に向かって、「高校生二人」と伝えた。施設なのは分かっていたけれど、もしかすると、動物園か。

 けれど、金額は思った以上に安かった。僕は首をひねりっぱなしで彼女についていく。すると、やがて花のアーチが見えてきた。トンネルのように伸びるアーチにはそこかしこに花や蔓のようなものが絡まっている。

「もしかして、ここって」

「昔、お母さんと一緒に来たことがあるの。もう一度だけでいいから、来たかったんだ」

 彼女の言葉が、狭いアーチの中にいるせいかシリアスなものに聞こえた。けれど、その直後には全く正反対の声音が彼女から発された。アーチから抜けた彼女は、目の前に広がるとりどりの花に埋め尽くされた空間、花畑に歓喜の声を上げていた。

「きれーい!」

「これは……うん、確かにきれいだね」

 花畑に来たのは、人生で初めてだった。そして、僕にしては珍しく素直に感動した。それくらいに、目の前に広がる光景は美しかった。

 目の前の光景にご執心といった様子で歩き出す彼女に、僕も人のことを言えないくらいには言葉を失っている状態でついていった。

 花は同一種と思われるものが道の両脇に一区画ずつ植えられていて、それが永遠と続いている。段差はないはずなのに、色合いによって棚田のように見える。風に揺れる花々が、さわさわという心地よい音を僕たちの耳に運んできてくれる。死後の世界があるとすれば、本当にこういった景色なのではないのだろうか、と思うほど、目の前に広がる花畑は幻想的だった。

「この紫色の花は?」

「ラベンダーだよ。ちょうど今の時期に元気でいられるの」

 彼女は愛おしそうにラベンダーを眺めている。まるで、花にも意志があって、それを尊重するかのような眼差しだ。

「ラベンダー、きれいだね」

「それはアジサイだよ。色は似ているけど」

「……アジサイって、こんなだっけ?」

 僕は当然自分ほどの見識のある人間なら、これくらいの判別はつくだろうと驕り高ぶっていた。何より、小学生の頃にアジサイを育てたことがある。確かに、よく見れば彼女が愛でているラベンダーと見比べてみると、容姿はかなり違う。僕にはどうやら注意力が足りてないようだった。

 彼女と僕は花に囲まれた楽園をしばらく歩いた。ゆっくりと、一期一会の花を目に焼き付けながら、時折、彼女から花の名前や豆知識を教えてもらいながら、それなりに有意義な時間を過ごした。

「そういえば、花言葉って知ってる? それぞれの花に意味があるんだけど」

「さすがにそれくらいは知ってるよ」

「ごめんごめん。一応説明しただけだよ。それで、お花屋さんの娘としては、結構花をプレゼントするときに気を使うものなんだよね…………それはさておき」

 彼女はそこまで言うと、少しだけ、たまに見せる真剣な表情を見せた。

「私がみんなから見える花が、もしかすると、私の主観なのかもしれないことに、最近気がついたの」

「……どういうこと?」

 彼女は少し困ったように、僕を見つめた。

「私はずっと、自分がその人が持つ花を、客観的に、世の理として受信しているんだって思ってた。でも、最近、その人から見えた花の花言葉と、自分がその人に抱いているイメージが、一致していることに気がついたの」

「…………」

 それはつまり、彼女の持つその人のイメージが彼女の偏見で花に変換されて、視覚情報として彼女が受け取っているということ。それはシックスセンなんかじゃなくて、彼女が最も親しみを感じている花が、彼女の、その人の人となりの把握に影響を及ぼしているだけ、ということになる。

「もしかすると、私は見当違いのことを君にしちゃっているんじゃないかって、最近ちょっと不安になってるんだ」

 彼女ほどの人格者でも、そうやって不安になるものなのか、と僕は思った。

「私の理想を押し付けてしまっているだけなんじゃないかって、自分の勝手な正義感を振り回しているだけなんじゃないかって、今までの私の行いに、自信が持てなくなっちゃったの」

「…………」

「今日、君を誘ったのも、もちろん幸せになってほしいからっていうのもあるけど、いつの間にか君と一緒にいたいと、私の勝手で思うようになったから」

 僕は、彼女の次の言葉を、黙って待った。

「どうして君にだけ花のイメージが浮かんでこないのかは、やっぱり分からない。感覚的には、私が最初に話した仮説が正しい気がする。でも、もしもこれが私の個人的な」

 やっぱり、黙って待つのはやめた。

「楽しいから、別にいいよ」

「…………え」

「君と一緒にいて楽しいし、君が提案してくれることは全部、僕にとっては新鮮だから。それに、君はいつも、僕に何か大切なことを思い出させてくれている気がする。だから、誘ってくれてもいいよ。むしろ、誘ってほしいな」

 それにもしかすると、彼女がその人に抱いているイメージ自体、世界がその人に抱いているイメージなのかもしれない。僕は彼女のことを買い被りすぎているのかもしれない。けれど、彼女と一緒にいることで、僕はそれが現実的な考えであると思うようになっていた。

 僕はこれまでの人生でぶっちぎりに素直な自分の感情を他人に吐露した。彼女は目の前で口をパクパクさせている。行き場を失った魚のようだった。けれど、僕にとってはエキサイティングな川に連れて行ってくれる頼もしい魚だ。

「あ、あり、がと…………君が、そんな風に思ってくれてたなんて」

 彼女は僕から顔を逸らした。少し、鼻を啜る音がした。もしかすると、花に付着した花粉が彼女を襲っているのかもしれない。

 彼女はしばらくすると、僕に少し鼻先が赤くなった顔を向けた。それからは、彼女はいつも通り、僕と冗談を交わしながら花畑を堪能した。

 花畑を一周したあと、その花畑に併設されている小さな花の展示場を利用することになった。中は少々の冷房がかかっていて、冷気は強くはないけれど、外の環境に長時間身を投じていた僕と彼女は十分に涼むことができた。

「極楽だねぇ」

「景色でいうなら、さっきの花畑が極楽浄土さながらだったね」

「私、死んだあとにあんなきれいなところに行けるなら、死ぬの怖くないかも」

 彼女はそう言って、僕に微笑みかけた。

 透明なガラスの向こうにある空間に、季節を無視しているであろう花が思ったよりも多く展示されている。どの花がどの季節に咲くのか僕には分からないけれど、展示パネルを大まかに見たところ、今の時期とはかけ離れた月が記載されていた。僕の予想は概ね正しいだろう。この時期に咲くことのない花は、きっとレプリカか何かで作られていると思われる。

 僕は展示されている花々を見つめながら、それぞれの花言葉を彼女に尋ねてみた。

「花の名前じゃなくて、花言葉を訊くんだね」

「きっと覚えられないから。さっき、君から花の名前を教わっているときに気がついたんだ」

「え、ひどっ! 私の説明ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたよ。ただ、僕のキャパシティがそれまでだったってことだね」

 別に記憶力が特別悪いわけでもないけれど、他の人よりいいということもない。もちろん、彼女から聞いた花の名前全てを忘れたわけではない。覚えている花の数が少ないだけだ。きっと、一般的な記憶力を有する人なら、僕と同じ現象に陥るに違いない。

「うーん、じゃあ、余計な情報は省くね」

 彼女はそう言うと、端から順番に花を指差しながら花言葉を口にした。

「あの赤い花は、『勇敢』。あのピンクの花は『旅立ち』。あの黄色い花は、『誠実』」

 彼女は次々に花言葉を僕に紹介していく。淀みなく、図鑑も持たないで驚くほど流暢に記憶を引き出していく彼女に僕は思わず感心した。彼女ほどの記憶力を持つ人間ならば、なるほど、僕のような矮小な記憶力を怪訝に思うのも無理はないだろうと思った。

彼女の羅列する花言葉に耳を傾けていると、彼女は最後の一つを指さして言った。

「一番端にあるあの白い花は、『希望』」

 そこまで言い終えると、ふぅ、と彼女は息を吐いた。冷房が効いているとはいえ、こんな暑い日に使う労力ではなかった。僕は彼女に「ありがとう」と礼を述べた。

「君が最後に指したあの花は、なんとなく君に合っている気がする」

 僕がそう言うと、彼女は「そう?」と首を傾げた。

 しばらくしてから僕と彼女は学校の最寄り駅まで戻った。彼女の足の痛みが再発するのではないかと憂慮していたのだけど、それはただの杞憂に終わった。

 僕と彼女はその場で解散し、それぞれの自宅を目指した。

 夏休みといえども平日の今日、ちょうど夕飯ができる頃合いの時間に帰宅した僕は、完全に油断していた。リビングに行くと、父さんがすでに部屋着に着替えて腰をおろしていた。

「どこに行っていたんだ」

 いつものように不機嫌な表情をこちらに向けて、高圧的な声で僕に言った。

「……友達と、ちょっと」

「進路選択が秋にあるんじゃないか」

「……うん、まぁ」

「ちゃんと考えているのか」

「まぁ、それなりに……」

「はっきりと答えろ!」

 父さんは業を煮やしたのか、僕に向かって怒鳴った。

「ちょっとお父さん、何も怒鳴ることないでしょ」

「そんな甘いことを言っていたら、こいつが将来どうなるかは目に見えているだろう」

 父さんは母さんにも鋭く、厳しい目を向けた。

 理屈では分かっている。父さんの意見が正しいことを。正しさを追求するのだとすれば、僕は父さんに敵うことはないだろう。けれど、自分のしたいことなんて、そう簡単には見つからない。仮に見つけたとしても、その職業に就くことができる人間なんて、ほんの一握りしかいない。それに、したいことが見つからないのは、お互い様じゃないか。父さんだって、自分の好きなことを追求してこなかったから、今みたいにいつも不満そうな顔で、不機嫌そうな声で、周りにも気が重くなるような空気を振りまいているんじゃないか。

 今はまだいい。多少なりとも猶予があるのだから。けれど、例えば僕が大学に行き、それから学生に許されるモラトリアムが過ぎたとき、もしそのときまで、自分のしたいことが見つからなかったら、当然なのは分かっているけれど、好きでもない仕事に就くことが求められる。でも、そうしてしまうと、僕は、なりたくない大人に、なってしまう。いつもため息を零しながら、愚痴を交わしながらアルコールを摂取するような生産性のない時間を過ごしてしまう、大人に。自分の心を押し込んで、くぼみにはまってしまうくらいに押し込んで、もう取り出せなくなるくらいに、壊れたゲームコントローラーのボタンのように、深く沈み込んで。

 そんなの、僕じゃない。それなら、僕が僕じゃなくたっていいじゃないか。

「黙っていないで、何か言ったらどうなんだ」

「……何を選んだって、父さんみたいになっちゃうんだろ」

 自分の思っていることを口にしたところで、子どもだと嘲笑されるのは分かっている。事実、僕は心が幼稚なのだろう。それでも、今回ばかりは、我慢の限界のようだった。

「……なんだって?」

「…………僕は、僕は」

 僕は、父さんを睨みつけた。

「僕は、父さんみたいにはなりたくないんだ!」

 そう吐き捨てた僕は、取り返しのつかないような状況になったことを察知し、自分の部屋に向かって階段を駆け上った。父さんの顔も、母さんの顔も見ないままに。

「ちょっと、紡!」

 母さんの呼ぶ声がした。けれど、僕に残された選択肢は、自室に籠る。その一択だった。

 勢いよくドアを閉め、誰も入って来ないことを願いながら布団に潜った。さながら、お化けに怯える子どものような光景が、自室で繰り広げられているのが想像できた。けれど、あながちそれは、僕の心境を表していた。僕は、両親に顔を向けるのが、怖かった。

 結局、その日は二人が眠るまで部屋に閉じ籠り、一階の電気が消えていることを確認してからお風呂に入った。途中で二人の目が覚めないか心配したけれど、着替えて歯を磨く過程を終えるまで二人が目を覚ます気配はなかった。ご飯はラップをして用意してくれていたけれど、食欲がなかったのと罪悪感から食べないことにした。

 その日は肉体的にも精神的にも疲労していたので、僕は倒れこむように眠った。

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