第8話
夏休みに突入するまでの間、僕と彼女は公園や海やカラオケに行ったときのように遠出することはなかった。カラオケは遠出とは言わないだろうけど。
けれど、夏休みに突入して二日目に、彼女から招集命令が下った。どこに行くのかは当日に知らせると言われた時点で、僕はいくらかのお金を用意する必要性があることを察知し、彼女に尋ねた。すると、彼女は自分が呼び出すのだから全て負担すると言った。けれど、それは僕のポリシーに反するので、そこだけは譲らなかった。
当日、僕は彼女に指定された通り、朝から学校の最寄り駅に赴いた。彼女は小さなポーチをさげて、白い日除け帽子を被っていた。僕にとって、セレブでもない人が日除け帽子を被るイメージがなかったので、少々面食らった。そして、その帽子が彼女に似合っていることにも驚いた。決して口には出さないけれど。
彼女は、前に海に行ったときに降りた駅よりもさらに遠い、乗り換えを要する駅を指さした。思ったよりも高かったので少し渋い顔をしてしまったのを彼女に見られた。
「だから出すって言ってるのに」
「いいや、大丈夫。出せるよ、これくらいなら」
見栄を張りながら、僕は彼女と並んで券売機で切符を購入した。
電車に揺られながら、僕たちは窓の外の景色を眺めた。
「そういえば宿題終わった?」
「あと、数学が二ページくらい」
「えっ、まだ一つもやってないって返ってくると思ってた」
「それは君の方じゃないの?」
「私はもう終わったよ」
「随分強がるね」
「え、本当だよ」
話を聞くに、どうやら彼女は本当に宿題を全て終わらせているようだった。僕の進捗状況で学年トップだと思っていたのに、彼女から衝撃的な事実を告げられて少しばかり気落ちしてしまった。
「あ、見てみて! この前行った海だよ!」
僕の浅はかなこだわりには目もくれず、彼女ははしゃいだ様子で窓に手を重ねていた。そんな彼女の横顔を見て、本当の彼女がどちらなのか分からなくなった。今みたいに明るい彼女と、時折真剣な表情をする彼女。どちらにも違った魅力があるけれど、僕は正直、まだ彼女のことを掴めないままでいた。もしかすると、その両面とも彼女なのかもしれない。
一時間ほどしてから目的の駅に到着した。駅の改札をくぐると、煌めく太陽の日差しに彼女と僕は目を細めた。けれど、彼女は気持ちよさそうに伸びをした。僕も彼女に倣って伸びをしようと試みたけれど、太陽があまりにも眩しくて途中で断念した。彼女は日除け帽子のおかげで太陽の光に負けずに顔を上げている。
「んー、はぁ。よし、行こっか」
「そろそろどこに行くのか教えてくれてもいいんじゃないかな」
「まだないしょー。お楽しみはあとに取っておかなくちゃ」
彼女の言葉に従って嫌な思いをしたことはなかったので、僕は悔しく思いながらも彼女におとなしくついていく。数分アスファルトを照り付ける日差しに辟易しながら歩いていると、彼女は突然、僕に訊いてきた。
「諏形くんは何が食べたい?」
「え、どうして?」
「もうすぐお昼でしょ? 目的地までもう少しだけかかるんだけど、もうすぐで繁華街に出るから、そこで何か食べちゃおうと思って」
「あぁ、なるほど。それなら任せるよ」
「何が食べたいの?」
「だから、任せるって」
「な・に・が・た・べ・た・い・の」
「…………」
なるほど、確かに、こうしたところから主体性を持っていく必要があるのだろう。いつからか、母さんが出してくれる夕飯にワクワクして要望を出すこともなくなっていたな。
僕は自分を疎かにしていたことを反省して、考えてみることにした。
「うーん、昨日は蕎麦を食べたから麺類はやめておいて」
「そんなのは後回し! で、一番最初に何が食べたいと思ったの?」
「……冷たいうどん」
「じゃあ、それを食べに行こう!」
「……でも、それだと君が」
「大丈夫だよ。実は、たくさん食べたいものがあったんだけど、どれも捨てがたくて。だけど、共通して冷たいものが食べたいっていうのは自分の中で決まっていたから、君の意見には大賛成なの!」
「……そう」
本当にそうなのか、と一瞬疑ったけれど、彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。僕は余計な心配は野暮だと判断して、突入した繁華街で彼女とともにうどん屋さんを探した。
案外すんなりと見つかったうどん屋さんの中は風通しがよくて涼しく、首を左右に動かしている、壁に設置された扇風機がより冷気を運んでくれる。壁の隅から上にのぼったところに小さな台が設置されていて、そこにブラウン管が鎮座している。どことなくレトロなお店の雰囲気に、僕はかなりの好印象を抱いた。
「いいね、こういうところ。なんだかワクワクする!」
「同意見だね」
「お、素直だねー」
彼女は嬉しそうに言った。
僕と彼女は店員さんにざるうどんを注文し、それから二人でブラウン管に映る天気予報を眺めた。今日はこの地域では快晴のようだった。どおりで暑いわけだ。
「そういえば、君は僕以外の人にもこうしてリハビリを敢行しているの?」
「敢行って言い方をされるとは思ってなかったよ」
彼女は苦笑した。それから少し真面目な顔をして言った。
「みんな少なからず花が見えるってことは、きっと自分なりの目標や夢があるんだと思う」
「……なるほど。君がこうやってお節介をするのはイレギュラーなわけだ」
「私がこうやって君といることでどうにかなるのかと言われれば、はっきりとは答えられない。けれど、やっぱり君には、ちゃんと自分の花を持ってほしいの」
彼女はまっすぐに僕を見つめた。彼女の目に映る僕には、きっと花なんてないのだろう。
僕はそんな自分の思考を端に避けようと、彼女に訊いた。
「前から思っていたんだけど、君から見えている『花』っていうのは、いわゆるシックスセンス的なものなの?」
僕の問いに、彼女は肯定とも否定ともつかない笑みを浮かべた。そして、少しだけ息を吐き出して、僕に言った。
「昔から、私は人に花を当てはめることをよくしていたの。けれど、だからと言ってその人の花が見えることはなかった。いわゆる『視える』ようになったのは、私が昔、病気を患ったとき。そのときから私は、今の能力を得たと同時に、自分の人生に絶望するようになったの」
彼女は視線をテーブルの上に固定し、ゆっくりと言葉の続きを紡いだ。
「そのときのことは、今思い出してみても辛い。病気が治ったあとも、自分の人生から色がなくなってしまったかのように感じられて、毎日が憂鬱だった。でも、このままじゃだめだって思って、今の私がそうするように、自分の好きなもの、好きなことを選んでいくようにしたの」
当時の彼女はつまり、自分の「いし」を病気に委ねてしまったのだろう。そのときの彼女の心情はなんとなく分かる。自分の人生を直視したくなくて、自分の人生を諦めて押しやって、そうやって、自分から人生を切り離そうとした。そうするために手っ取り早いのが、人生の当事者を自分以外にあてること。自分が、自分の人生から降りてしまうこと。目的地に着かないうちに、途中下車してしまうこと。だからと言って死ぬ勇気もなくて、心のどこかでは自分を認めてほしくて、急行しか通らない駅で救いの手が差し伸べられることを待ち続けている。僕も昔、自分が人生の主役になることを拒むような出来事があった。そのことと彼女のことのどちらが大変だったのかは分からないけれど、少なくとも、荒波に一切もまれてこなかった人間よりかは、彼女の気持ちは分かっているつもりだ。
「ごめんね、ちょっと暗い話しちゃった」
「いいや、僕から訊いたんだし、気にすることはないよ」
「……うふふ、諏形くんはやっぱり優しいねぇ」
彼女はいつもの調子を取り戻したのか、からかうような口調で言った。僕の頬を人差し指でつんつんしてくるのが至極うっとおしかった。
しばらくして運び込まれてきたざるうどんに僕と彼女はありついた。とても美味しかった。なんとなく、お腹だけでなく心も満たされたように感じた。これも自分が好きなものをちゃんと選んだ結果なのだろうか。
僕と彼女はうどんを食べ終えて、そこから十五分ほど歩いた。繁華街を抜けると、彼女は突然走り出した。
「ちょっと、突然どうしたの」
「今、私は走りたい気分なの!」
彼女は清々しい顔をしながら全力疾走した。僕も必死に彼女を追いかける。
「食べたばっかりなのに、お腹がおかしくなっちゃうよ」
「そうなっても休憩すれば問題なーし!」
彼女にもっと文句を言いたかったけれど、言葉を発しながら走るのが思ったよりも苦しくて、僕はそれ以上の抵抗を諦めた。
空からの日差しが坂道として伸びるアスファルトを、光を反射する水面のようにぎらぎらさせている。空から熱気が降り注ぐのと地面に蓄積された熱が放出されるのとで、僕と彼女は熱さに板挟みにされながら駆けた。さながら心臓破りの坂に挑戦しているような心境だ。道行く人たちはお年寄りの方が多く、僕と彼女が疾走しているのを応援してくれた。
かなりの距離を彼女は走り続け、僕がそろそろ諦めて徒歩に切り替えようとしたとき、目の前にいた彼女が突然転んだ。もちろん、故意に転ぶ人なんていないだろうから、突然という表現はあまり適切ではないかもしれない。けれど、とにかく彼女にとっても僕にとっても、突然の出来事であったのには変わりない。
彼女は膝を抱えていた。彼女のことだから、「いったーい!」といった具合でオーバーリアクションを取るのだろうと思っていた僕は、静かに呻くように座り込んで身体を丸める彼女に慌てて駆け寄った。
「風野さん!」
右膝を抱えた彼女はついに倒れこんだ。彼女の顔は普段からは想像もできないような、苦痛に塗れたものだった。額には汗が浮かんでいて、それがさっきまでの疾走による余韻なのか、転んだことによる痛みからくる冷や汗なのか、僕には判断できなった。僕は彼女がおさえている膝を覗き込んだ。特に擦り傷などの目立った外傷はない。もしかすると、捻挫したのか。膝が捻挫するのかどうかは分からないけれど、外傷がないのであれば、素人の僕にはそうした見解しか思い浮かばない。
「とりあえず、脇道に逸れよう」
彼女が倒れこんでいるのは、道の真ん中だった。幸い、この坂は車通りが少ないらしく、ここに来るまでに一台しか遭遇していない。けれど、万が一のこともあるため、一旦横道に逸れておいた方がいいだろう。
「おんぶするから。肩、掴める?」
顔を顰める彼女に尋ねると、彼女は頷いた。本当は彼女の脇と膝下に手を回して運ぶのがいいのだろうけど、膝を痛めているようなので、膝下に触れるのを躊躇しての選択だった。
彼女はゆっくりと僕の肩に手を回し、そして慎重に彼女の太ももに手をあてて持ち上げた。ゆっくりと坂の端に寄って、頃合いのいい岩があったので、そこに彼女を慎重におろした。
彼女は尚も苦しそうにしながら、右膝を抱えている。僕は彼女の膝を摩ってあげようかとも思ったけれど、勝手に触れてみていいものなのか分からずに狼狽えた。今は周りに人もおらず、助けを呼ぶこともできない。そこまで考えてみて、僕は自分がかなり冷静さを欠いていたことに気がついた。
「そうだ、救急車呼ぼうか」
僕には携帯があった。仮に救急車を呼ばないにしても、彼女や、最悪僕の家族に連絡して迎えに来てもらうことだって可能だ。僕は選択肢が広がったことに少しだけ安堵した。僕は、今の発言で救援を求めることができることを伝えた相手である彼女の反応を待った。けれど、彼女は首を横に振った。
「だ、だいじょ、ぶ……この間、膝を捻っちゃったのに、走っちゃったから」
彼女はそう言って、汗をかきながらもいつもに近い笑顔を僕に向けた。
「もう少しだけ、待ってくれたら、おさまるから……」
彼女の言葉は気休めなのかもしれないけれど、それでも僕はかなり安心してしまった。息も絶え絶えの彼女をしばらく見守っていると、彼女の言葉通り、数分待つとかなり回復したようだった。途中からは口数も増えてケロッとしているようにさえも見えた。
「いやぁ、あはは。私としたことが、無理しちゃったなぁ」
「…………無茶は、だめだよ」
「ごめんね、心配させちゃって。でも、これで治ったことだし、もう少しで目的地にも着くから」
「帰ろう」
「…………え」
「また痛くなるかもしれない。危険だから、帰ろう」
「だ、大丈夫だよ。もう走ったりしないから」
「さっきみたいに苦しむ君の顔を、もう見たくないんだ」
僕は彼女から顔を逸らした。しばらく無言の状態が続いた。何故だか僕は、彼女の方を振り向くことができなかった。
「諏形くん」
彼女が僕の名前を不意に呼んだので、僕は彼女の方を振り返った。すると、彼女は僕の両手を握ってきた。
「心配させて、本当にごめんなさい。でも、どうしても行きたい場所なの。もう絶対に無茶はしないから、ついてきてほしい」
彼女は切実な表情で僕に言った。
僕は、どうするべきなのだろうか。目的地に行くことを、彼女は望んでいる。正解を選ぶのだとすれば、優しさを見せるのだとしたら、今すぐに引き返すべきなのだろう。でも、僕はそれを選んでしまうと、後悔してしまうように思えた。何故だか分からないけれど、後悔してしまいそうな……いや、回りくどい言い方はやめておこう。僕は、彼女とそこへ行きたいのだ。まだ目的地がどこなのかも知らされていないけれど、僕は、彼女と一緒に、そこへ行くことを望んでいる。ならば、でも、普通は、正解は、こうすべきか、こうしたい、いや、でも、いや、でも……。
僕はいつの間にかきつく目を瞑っていたらしい。何故それに気づいたのかと言えば、自分の胸元に彼女の手が重なっていることに遅れて気がついたからだ。彼女を見上げると、彼女はいつもの微笑みを僕に向けてきた。
「難しく考えなくてもいいんだよ。行くことを強制しているわけじゃない。今日は、諏形くんの意見を、尊重する。どっちを選んでくれても、私は嬉しいから」
そうか。彼女は自分の望みを口にしただけで、ただ僕に何を選択したいのかを伝えただけだ。そして彼女は、その言葉通り、僕がどちらを選ぼうと、本当にいいのだろう。彼女は今、僕がどうしたいのかを訊いているのだ。
尚も僕の胸に手をあてたまま、彼女は僕に訊いた。
「君は、どうしたい?」
「……僕は」
僕は、緊張して喉が閉まるのを感じた。けれど、勇気を振り絞って、彼女に意志表示をした。
「君と一緒に、そこに行きたい」
「……そっか。ありがとう」
僕の返答に、彼女は照れたように顔を少し赤らめた。僕はこの選択でよかったのか、と少し後ろめたくなった。けれど、それ以上に、心がスッとした。
「よし、じゃあ、日が落ちないうちに行こっか!」
彼女ははりきった声を出して、またも空を見上げて伸びをした。もしかすると、彼女は空を見上げているから幸せなのかもしれない。いつも通りの彼女の姿を見てさらに安心の度合いは高まったけれど、それでも、別に心配が消え去ったわけじゃない。
「ねぇ、僕がおんぶしながら君を目的地に連れていくよ」
僕はそれなりに真面目に提案した。すると、彼女は珍しく狼狽した。
「え、い、いや、いいよ、そんなの、恥ずかしいよ!」
「でも」
「大丈夫! もう走ったりしないから! それに、君に私を上まで運ぶ体力なんてあるの?」
彼女の言い草に、僕は少しムッとした。そこからは無言で彼女の後を追った。
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