第7話
「カラオケに行きたい」
下駄箱で僕を待ち伏せしていた彼女は、高らかにそう言った。
「うん、行ってらっしゃい」
「ちょっと、どこ行くんだよー!」
僕が彼女の横を通り過ぎようとすると、彼女は何故か取り乱しながら僕を捕まえた。
「……それってもしかして、僕も一緒ってこと?」
「じゃなきゃ、いきなりカラオケに行きたいなんて君に言わないよ」
彼女は少し膨れながら言った。
「人前で歌うのはちょっと……」
「諏形くんは歌うの嫌い?」
「……いや、嫌いではないけど」
「あ、もしかして、周りのみんなが歌わないようになったから、それに合わせて歌うのをやめたとか? だったらなおさら行かないと!」
「……リハビリか」
「そう、リハビリ」
取って付けたように同調する彼女に呆れながら、僕は彼女と駅近のカラオケ店に赴いた。僕は騒がしい場所は苦手なので、ここには電車に乗る以外には近づかないようにしていた。案の定、駅周辺である程度の施設が集まっていることでここら一帯はそれなりに騒がしい。
僕は同じ高校生だと思われる制服を着た人たちとすれ違う度に、本当に放課後に友達とこういったところで遊ぶのだな、と妙に感心してしまった。
「私が誘ったから、お金は出すよ」
「遠慮しとく」
彼女の言葉を使うなら、ここに来ることを自分で選んだのだ。彼女は決して僕に強制してくるような人間ではない。ただ僕が、彼女に毒されたせいか、カラオケに行くことに少し興味を持ってしまったのだ。だから、彼女が僕の分まで支払う必要は、ない。
「あ、君はそういう人だった」
彼女はくすくすと笑いながら、僕の手を引いてカラオケ店に入って行く。慣れない場所に連れられた僕は、高校生にもなって若干の背徳感を抱いた。というのも、カラオケ店内ではタバコの臭いが充満していて、なんとなく、大人たちが集う場所のような雰囲気が漂っているように感じたからだ。
幸いにも、僕と彼女は禁煙指定の個室に通され、ずっとそわそわした気持ちでいることを強制するような原因がなくなり、比較的リラックスすることができた。
「あー、あ、あー」
彼女はマイクの電源を点け、音が出るか確認しているようだった。前にこの部屋を使っていたお客さんが自分の声に心酔する趣味があったのか、彼女の第一声が極端に大きく、室内に不快な音がキーンと響いた。僕と彼女は同時に耳を塞いだ。それから彼女は何が可笑しかったのか、僕の顔を見るなり笑った。もしかすると、自分の声が響いたことが恥ずかしく、その照れ隠しで笑ったのかもしれない。何でもいいけれど。
「どっちが先に歌う?」
「お先にどうぞ」
「では、遠慮なく」
彼女の選曲を見てから傾向を把握しようと思った。といっても、僕はあまり最近の歌を知らない。だから、少し古い曲にはなってしまうけれど、彼女が「あー」となるような、僕たちにとって懐かしい無難な曲を選べばそれなりに盛り上がるだろう。ただ残念ながら、僕の歌唱力は平凡だ。決して音痴でもないけれど、上手いというわけでもない。
「あ、そうそう。最近の人たちって、誰かのレパートリーに合わせるみたいだけど、諏形くんはちゃんと自分の好きな曲選びなよ」
僕はたった今自分が思考していたことを彼女に読み取られ、そして咎められたことに心底驚いた。いや、彼女だけが僕の思考を読み取れるわけではないだろう。彼女だけでなく、僕が誰かに合わせる性格だと、ほとんどの人は思うだろう。ただ、わざわざそれを指摘して、自分の好きな曲を選ぶように勧めてくるのが彼女だけで、結果的に僕は彼女のその行動力に驚かされたのだ。彼女がすごいのは、洞察力だけでなく、何よりも踏み込む行動力だ。
僕が彼女の分析を進めていると、聞き覚えのある、懐かしい曲が流れた。テレビ画面に表示されたタイトルを見て、僕は思わず笑ってしまった。
「世界に一つだけの花」
彼女らしい選曲というか、彼女そのものを表すような曲だ。何か大切なものを思い出させてくれるという点で、両者は共通している。あと、個人の花を大切にするという点も。
彼女は歌い始める。彼女の歌声は普段の声と同じで、透き通った、なんとも正直な何かを乗せたものだった。彼女の目と同じように、彼女の歌声もまた、切実なものだった。
僕はついつい彼女の歌声に聴き惚れてしまい、自分の曲を選び損ねていた。
どうしようか、と思った。彼女の助言通り、自分が好きな曲を入れようか。ただ、僕はあまり曲を聴かない。そもそもレパートリーがない僕は、必然的に選択肢が狭まり、無難な曲を選ぶことになる。それでもいいのだろうけど、いまいち心は乗り気にならない。
そうやって悩んでいる中で、僕は彼女を待たせてしまっていることを思い出し、彼女に謝ろうと顔を上げた。そして僕は、またしても彼女に驚かされた。
彼女は、選曲に悩む僕を見て微笑んでいたのだ。まるで、成長する我が子を見守るような、柔らかい表情で。
「あ、えっと、待たせてごめん」
彼女の表情に戸惑い、言葉に詰まりながら謝罪した。けれど、彼女はゆっくりと首を振った。
「全然いいよ。ゆっくり好きなの選んで」
「……ありがとう」
僕は、高校生であんな表情をすることのできる人間がいるのだな、と大げさなことを考えた。僕は彼女の言葉に甘えて、けれど脳はフル回転させて自分の歌いたい曲が何かを考えた。
「僕は、何が好きだったっけ」
あまりにも思いつかずに、ついに僕はぼーっとしながら思い出そうとした。すると、気負いが外れたおかげか、ポンっと心に浮かんだものがあった。それは、僕が中学生のときに珍しく聴くのにはまった曲だった。けれど、僕はこれを選曲するか迷った。
実は、僕が思い浮かんだのは、ボカロの曲だった。もちろん、ボカロの曲自体に問題があるわけではないけれど、それを人前で歌うことに、少しばかり抵抗感がある。いわゆる陽な人間や、両親以上の世代の人たちの前で歌うと、前者にはオタク扱いされ、後者には奇妙な歌を歌うものだと、数奇な視線を浴びさせられるのではないかという懸念が付きまとう。
彼女はきっと、僕が何を選曲しようと文句は言わないのだろうけど、やっぱり、少し憚られた。けれど、これ以上選曲に時間を取っている場合ではなかった。
葛藤の末、僕は無難な曲を検索し、曲を予約するためのタッチパネルを押そうとした。すると、彼女が両手で僕の肩を軽く叩いた。そして、揉みほぐすようにしてマッサージを開始した。
彼女の意図が読めずに、ほぐれていく肩とは反比例して僕が固まっていると、彼女は僕の顔を横から覗き込んで言った。
「そんなに難しく考えなくても大丈夫。少しでも心が楽しくなったアイデアを採用すればいいよ」
彼女の言葉に、僕は自分の心を見ないふりした自分の選択を恥じた。本来なら、自分の好きなものを純粋に表現することを恥じる空気が漂うことが多いはずなのだけど、彼女がいる空間では、その価値観は百八十度ひっくり返る。
僕は彼女に見られていることから少し緊張しつつも、自分が歌いたいと思ったボカロの曲を選択した。彼女は「あ、それ知ってる!」と当然のように受け入れた。そんな彼女の反応を見て、僕はほっとした。
それからは自分の選曲を気にすることもなく、けれど人前で歌う経験に乏しい僕は毎曲、彼女の前で緊張しながら歌った。時折、僕と彼女はそれぞれ共通認識のある持ち歌があったときにはデュエットしたり、用意されていた楽器をでたらめに叩いたりして時間を過ごした。
二人して喉がガラガラになった頃に退出してお会計を済ませ、カラオケ店の外に出た。二人で呑気に会話しながら、僕の家よりは駅から近い彼女の家を目指した。
歌ってすっきりしていた僕と彼女は機嫌よく帰路についていた。けれど、道中で突如夕立が僕たちを襲った。二人とも傘を持っておらず、彼女は、「とりあえず私の家までダッシュ!」と叫んだ。その提案に首肯した僕は、彼女の背中に続いた。
無事に彼女の家にたどり着いた頃には、僕と彼女は仲良くずぶ濡れになっていた。今日はたまたま花屋さんはお店を閉めているらしく、彼女の母親は老人ホームで花を生ける会を開いており、今日の帰宅時間は遅いらしい。そこには高頻度でこの花屋さんに赴いてくれる人が多く集っているため、ボランティアとして無償で花をプレゼントしているのだという。
早口で僕に説明した彼女は、走って店内の階段を上って行き、すぐに戻って来た。どうやらタオルを取りに行ってくれていたらしく、自分の髪や首筋を拭いながら、僕にもタオルを一枚提供してくれた。きっと僕を家に上げる前に彼女の母親の所在を明かしたのは、家には誰もいないから遠慮は無用だという彼女なりの気遣いだったのかもしれない。
ありがたく彼女のおもてなしを受け取った僕は、彼女に手を引かれて半強制的に雨宿りすることになった。二階に上がってすぐに、一面が畳の居間があった。そして、居間以外で居所として機能する部屋は二つあった。彼女はそのうちの一つの部屋に入って行き、そこからドライヤーを取り出した。ピンク色のそれを見るに、おそらく彼女専用のものだと思われる。ということは、彼女が入って行った部屋はつまり、彼女の部屋なのだろう。
「いやー、急に降ってきたからびっくりしちゃったよね」
彼女はそう言ってから、ドライヤーを振りながら僕に言った。
「その濡れた制服、これで乾かすからその間にお風呂に入って来て。お風呂ためている間に身体が冷えちゃうとダメだから、申し訳ないけどシャワーで我慢してね」
彼女の提案を、僕は丁重にお断りすることにした。
「気持ちはありがたいけど、遠慮しておくよ。明日必ず返すから、傘を貸してくれたら帰るよ」
「ううん、ダメだよ。風邪引いちゃうよ」
「大丈夫だよ。ここからなら」
「傘は貸してあげないよ。どうせ夕立だから、帰る頃にはやんでるだろうし」
「…………えっと、僕は君の言うように、自分の選びたいことを尊重したい。だから、今すぐに帰らせてくれないかな?」
「まだ雨降ってるよ? あ、それと、私は今、君に傘を貸さないっていう選択をしてるから」
「…………そうかい」
先に折れたのは、僕の方だった。正直、人様の家でお風呂に入った経験のない僕は、なんとなく気恥ずかしくて辞退したのだけど、意思の固い彼女には通用しないようだった。何かを選ぶときには、もしかすると「いし」の強さも必要なのかもしれない。
「分かった。お言葉に甘えてお風呂を借りることにする。でも、せめてお風呂は先に君に入ってほしい」
僕が譲渡してそう言うと、彼女は難しそうに「うーん」と唸ってから、とんでもないことを口走った。
「じゃあ、一緒に入っちゃおっか」
彼女がニヤニヤと得意げに言ったのが癪に障った僕は、真顔で言い返してやった。
「うん、そうしようか」
僕が平然と返すのを見て、彼女はしばらくニヤニヤしていたけれど、僕が表情を変えないのを見てみるみるうちに焦りの色を見せた。
「…………え、えっと、もちろん冗談だよ?」
彼女は分かりやすく狼狽えた。
「なんだ冗談だったのか。人付き合いが少ないことによる弊害がここで出てしまったみたいだね。どうやら僕は、冗談の判断が人とズレているらしい」
僕が皮肉たっぷりに言ってやると、彼女は悔しそうに頬を膨らませた。
「…………分かってたくせに」
「はー、もう、びっくりしたー」と不機嫌になった彼女は先にお風呂に入ることにするようだった。最初からそんな冗談を言わなければこんなことにはならなかっただろうに。ただ、お風呂を貸してもらう手前、少し悪いことをしたかな、とも思った。
彼女がお風呂から上がり、髪を濡らしたまま僕にお風呂をバトンタッチしてきたのを平常心で受け取りながら、僕はシャワーを浴びた。正直、身体が冷えていたので非常にありがたかった。変な意地で僕が身体を壊すのを避けたかった彼女は、さきほど心を鬼にして僕にお風呂を強制してくれた。損な役を買ってまで僕の身体を気遣ってくれたことに、僕は申し訳なさを覚えた。
身も心もさっぱりとした状態でお風呂を上がった僕は、脱衣所にすっかり乾いた制服を丁寧に折りたたんであるのを見つけた。しわもないため、アイロンまでかけてくれたと思われる。僕はそれらを身に纏い、居間へと向かった。けれど、そこには彼女の姿はなく、僕は彼女の部屋のドアをノックした。
「はーい」という彼女の声を受けて、僕はゆっくりとドアを開けた。彼女の匂いがふわっと漂ってきた。申し訳程度に彼女の部屋をぐるりと見回すと、意外と物が少なく整頓されているのが分かった。
「お風呂ありがとう。あと、制服も」
「全然いいよ」
部屋着の彼女は僕に笑いかけ、それからテレビを点けた。画面は真っ暗で、右上に表示されている字幕を見るに、どうやら空のDVDデッキを接続しているようだった。それから、ホラー映画と思われる禍々しいイラストが描かれたDVDのパッケージを僕に見せつけながら、彼女は僕に懇願してきた。
「あのさ、友達からこのDVD借りてきたんだけど、怖くて一人じゃ観れないから、これ観るの付き合ってくれないかな?」
「…………」
怖ければそんなもの観なければいいのに、と返すのはやめておいた。彼女には借りがある。もしかすると、最初から僕にそれをお願いするために恩を売るようなことをしたのではないのかと、軽く人間不信に陥った。けれど、受けた恩は必ず返す。
「いいよ」
「……え、ほんと? やったー」
彼女は僕が首肯するのが意外だとばかりに驚きながらも喜び勇んだ。
「借りっぱなしだったから、早く観たかったんだ。助かるよ」
「君の家族と一緒に観ればよかった気がするけど」
「お母さん、私よりもホラー映画が苦手なの」
「……なるほど」
僕もそれほどホラー映画が得意ではないけど、叫ぶほど驚くこともないので、せいぜい彼女に馬鹿にされない程度のリアクションに留めておこうと決心した。けれど、その心構えは到底必要のないものだった。
彼女は、一つ一つの驚かし要素に過剰反応を示し、耳を劈くような悲鳴を上げる彼女の姿を見ていたおかげで、僕は全く恐怖を感じることがなかった。さっきカラオケで声を枯らした人間とは思えなかった。そして、人間、自分よりもパニックに陥っている人間を見ると、至極冷静になれるというのは事実のようだった。
映画を無事に観終わって、気がつくと外も暗くなっているのに二人して驚いた。彼女はさきほどまでの自分の醜態を思い返して、気まずそうに俯いていた。耳を真っ赤にして。
「あ、あのさ……」
「ん? どうしたの?」
「その……」
「うん」
「えっと……今日ってさ、何時くらいまでなら、家に帰らなくても大丈夫?」
「どうしたの、突然。別に門限という門限はないけど」
僕が答えると、彼女は安心したようにため息を吐いてから、僕の手を握ってきた。
「え、なに?」
「まだ、帰らないでほしいの……」
「どうして?」
「……こ」
「こ?」
「怖いから……一人だと……」
彼女はバツが悪そうに顔を紅潮させた。そんな彼女を見て、僕は噴き出した。
「自分から観たくせに」
「しょ、しょうがないじゃん! 気になってたんだもん!」
頬を膨らませる彼女を前に、僕は直近では類を見ないほど笑った。そんな僕に、彼女は不機嫌そうな目を向け続けた。それなりに迫力のある彼女の目に怖気づいた僕は、頃合いを見て笑いを忍ばせ、「分かった。しばらくはここにいるよ」と彼女を安心させた。母さんに、「今日は帰るのが遅くなる」と連絡を入れておいた。別に門限はないけれど、帰宅時間が遅くなることがほとんどない僕を心配する可能性もあるので、念のための連絡だ。まあ、最近の僕は彼女が原因で帰るのが遅くなることが増えたけど。
「あ、そうだ。お腹すいてない? そろそろご飯作るつもりなんだけど、よかったら食べていく? カレーなんだけど」
彼女は台所に向かってエプロンを取り出し、それを身に着けながら首だけを僕に向けて提案してきた。確かに、お腹が減った気もする。それに、カレーは僕の好物だった。あまり食に関して執着のない方だけど、カレーだけはそれなりにこだわりがあったりする。だからと言って他人の家庭のカレーに口出しすることはないけれど、どうかスープカレーでないことを祈る。僕がここまで考えていることから分かる通り、僕はごちそうになろうかという気持ちに傾いていた。僕は母さんに「今日のご飯は何?」と連絡を入れ、すぐに返ってきたメッセージを確認した。
「そうめん」
僕は秒速で「今日はご飯食べてくる」と返信しておいた。ここ最近、夏だからといって毎食そうめんだった僕は、もちろんカレーを選ぶに相場が決まっている。作ってもらっている身で贅沢なことは言えないけど、八日間連続そうめんを記録している家庭はあまり見られないだろう。余談ではあるけれど、麺類続きではありながら、僕は大好きなうどんなら食べることができる。むしろ最近食べていないから、食べたいくらいだ。本当に余談だけど。
「家にも連絡を入れたんだけど、せっかくだからいただいてもいいかな?」
僕が言うと、彼女は「うん!」と笑顔で答えた。手伝おうとしてそれを制止した彼女が料理するのをぼんやりと見ながら、僕は自分が誰かの家に上がるのが随分と久しぶりであることに気づいた。なんとなく、懐かしい気がした。一人が気楽だと思っていたけれど、たまにこうして誰かの家に長居するのも悪くない。
そんなことを考えながらぼけっとしていると、しばらくしていい匂いが漂ってきた。
「もうすぐでできるよ」
という彼女の言葉に嘘はなかった。そして、僕は彼女がよそってくれたカレーを見て内心で歓喜した。彼女の出してくれたカレーにはとろみがあり、いわゆるドロドロしたカレーだった。僕の好みと合致していたカレーに年甲斐もなくはしゃぎながら、僕はそれを彼女に悟られないように振舞った。
「よし、じゃあ食べよっか」
「いただきます」
「どうぞー。私もいただきます」
彼女の作ったカレーは、非常に美味しかった。少なくとも、いつも食べているのとどちらが美味しいか、といった野暮な質問が浮かんでくる余地もないほどに、彼女のカレーは僕を満足させた。
「どう?」
首を傾げる彼女に、僕は正直な感想を述べた。
「美味しいよ」
「そっか、よかった」
彼女は満足そうに微笑んだ。
こんなとき、もっと気の利いた感想を言うべきなのかもしれないけど、生憎僕はそんな技術を持ち合わせていない。
彼女が言うに、今日の夕飯にカレーを選んだのは、帰りが遅くなる彼女の母親が簡易的に済ませられる料理にしたかったからなのだそうだ。そこへタイミングよく来た僕は運がよかった。
「そういえば、僕が食べても大丈夫なの? 他の家族は」
「ここには私とお母さんしか住んでないから」
彼女の言葉に、僕は迂闊なことを訊いてしまった、と後悔した。そういえば、ホラー映画を家族と観ればいいと僕が提案したときも、彼女は一緒に鑑賞する相手に母親しか挙げていなかった。僕は圧倒的に人と過ごした時間が足りないので、そういったところにいち早く気づくことができなかった。
「ごめん」
「ううん。もう、随分前のことだから」
彼女は控えめに笑っているけれど、何があったのかを話させる気にはならなかった。過去の彼女について聞いたところで、今の彼女に対する印象が変わるわけでもないから、問題はない。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
僕と彼女は手を合わせた。それから食器を運ぼうとすると、またもや彼女に制止され、「お客さんは座ってて」と何故か注意を受けた。けれど、ありがたい施しなので、僕は素直に彼女に従うことにした。
僕と彼女は、それからしばらくはお笑い番組を観ていた。特に何をするわけでもなかったけれど、こうして誰かが隣にいるだけでいつも一人でテレビを観ているときとは違う不思議な感覚を味わうことができた。
夜の十時頃になって、彼女の母親からそろそろ帰るという連絡が入った。もうそんな時間になっていたのかと驚いた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「うん、今日はありがとう! すっごく楽しかった!」
「もう怖くない?」
「うっ……その節は、本当にすみませんでした」
「あはは」
思わず笑うと、彼女は驚いたように僕を見た。
「諏形くんが普通に笑ってくれた……」
「……そりゃあ、僕だって人間だから、笑うことくらいあるよ」
「……そうだよね。うん、よかった」
何がよかったのか、具体的には分からなかったけれど、今日という一日は僕にしては充実していたので、よしとした。
僕は彼女にお風呂を貸してくれたこと、制服を乾かしてくれたこと、ご飯をごちそうしてくれたことにお礼を言ってから帰宅した。帰るとき、なんとなく名残惜しく感じた。小さい頃に友達と鬼ごっこをしたりゲームをしたりして、それこそ課せられていた門限で家に帰らなければならなかったあの頃。まだまだ遊びたくて、むしろ門限を過ぎてからが余計に遊びたくなっていたような、あの頃。そうした制限もなくなった今となっては、そうそうお目にかかるような感覚ではないはずだけど、友達付き合いの少ない僕は、懐かしくもその感覚を思い出していた。なんとなく、得した気分だった。
僕は少しだけ上機嫌になりながら家に帰り、特に何からも気分を害されることなく今日という日常を終えた。
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