第5話

 約束の満月の夜、暦は既に師走に入っており、弘紀は修之輔を月観楼へいざなった。


 前日受けとった差出人の書かれていない手紙には二の丸から観月楼に至る簡単な道筋と、そして銀杏いちょうの小袖を着てくるように、とひと言、書かれていた。松露の間で警固の任に着いたとき身に付けたその着物は、その後、修之輔に下げ渡されていたものの、着る機会失く行李にしまわれたままだった。

 青海波の紙に記された弘紀の筆跡は手元に残しておきたかったが、内容を確認した後、火の残る風呂釜の炉にくべた。

 当日の夜になって海の向こうに美しい黄金色の満月が上り始めた頃。

 修之輔が指定された銀杏いちょうの小袖の上に羽織を着て、人気の少ない三の丸から夜空を見上げると、着物の銀杏と満月の色が良く似ていることに気がついた。銀杏の文様は少々季節から外れていたが、これは月見の衣装ということなのだろう。

 月の灯りが照らす道、すれ違う今夜の宿直の者と挨拶を交わしながら歩を進める。夏の終わりに初めて羽代城に来た夜は、まるで現実感の薄い夢心地で辿った道も、今夜は行く先を見定めて歩むことができる。

 弘紀に手紙で教えられたとおり、二の丸御殿の庭を渡って植栽の間を進んだその先に、見覚えのある小ぶりの門が見えてきた。門番の姿はなかったが半分開いているその扉を通った後、修之輔の背後で門が閉じる音がした。その先は一度通った道。もう案内の灯明がなくても迷わない。


 あの日と同じ観月楼の座敷で、けれど今夜は床の間を背に座って、弘紀は修之輔を待っていた。その姿は黒の菱菊綸子に雪華紋様が染め抜かれた小袖、青海波文様の袴をつけて、正装と呼ぶのに相応しい装いだった。傍らにはいつもの煎茶の道具ではなく、朱塗りの酒器一式が置かれている。

「ほんとうにこのところ、忙しいですよね」

 特に挨拶するでもなく、弘紀が話しかけてくる。

「俺はそうでもないが、弘紀の方だろう、忙しいのは」

 どこに座るべきかと一瞬迷い、弘紀の正面に腰を下ろした。それを待って弘紀は自分の前に酒器を引き寄せて、銚子から盃に酒を注いだ。灯籠の明かりに光を零しながら朱い盃に酒が満たされていく。


 これは月見酒とはただの言い訳、簡素な、しかし正式な主従の契約の儀式に違いなかった。

「黒河の流儀とは違うかもしれませんが」

 弘紀が自ら満たした盃を持ちあげ一口飲んで、それを修之輔に差し出した。両手で受け取って、修之輔がそこから一口。弘紀に返して、残りを全て弘紀が飲んだ。

 媒酌人は夜空の月だけ、二人だけの儀式はこれでおしまいだった。修之輔が居住まいを正してから一礼すると、弘紀も慌ててそれに倣った。

「弘紀は伏礼をしなくてもいいのでは」

 主従の契約なら、ここで伏礼を解いてよい、という弘紀の言葉があるはずだがそれがなく、自ら頭を上げた修之輔が呆れてそう言うと、その修之輔にすら遅れて顔を上げた弘紀の頬が紅い。

「やっぱり酒は苦手です」

 照れ隠しか、盃を持ったり下ろしたりしながら弘紀がそんなことを言う。

「修之輔様、まだ残っているので、あとはどうぞ召し上がってください」

 挙句、酒器一揃いをこちらに押して寄越した。主従の契りの儀式を終えたばかりだというのに名字ではなく名を呼ぶ癖はそのまま、けれどそれは修之輔にも言えることだった。せめて今夜はこのままで良いと修之輔は胸の内に思った。

 いや、今夜だけではない。主従の契約ではあるけれど、この契約で繋がる関係は二人が共有するもの、二人だけのもの。互いの呼び方だけでなく、いくつかのこと、様々なことをどのような形にしていくかは、これから自分たちで決めればよい。


「それからこちらを貴方に」

 弘紀が床の間に置かれていた大小の刀を揃えて、自分と修之輔の間の畳の上に置いた。

「これは」

 そう聞く修之輔に、褒美なのです、と弘紀が笑む。

「今後のことを考えると、長覆輪ではない太刀が貴方には必要でしょう。皆に分かるようなはたらきがあったことですし、しっかりした褒美を出すべきだと思ったのです。皆の前で渡すことも考えたのですが、やっぱりこうして近くで渡したかった」

 もっとも貴方が望むのなら、皆を集めて褒賞しますが、と続ける弘紀の言葉に、それは必要ないと断って刀を手に取ると、滑らかな黒漆の鞘に、つばには青海波の文様があしらわれている。見覚えがある。前に借りた弘紀の刀が、確か同じ装飾だった。

「またお揃いにしました」

 弘紀が修之輔の手の中の太刀を見て言う。黒河にいた時、弘紀の刀は修之輔の長覆輪を誂えた刀工が打ったものだった。今回は羽代の刀工の手によるもので、銘は、と云い掛けて弘紀は言葉を切った。

「貴方には刀の銘など必要ないですね」

 言葉の通りで、弘紀から貰ったものという、それだけで十分だった。藩主と揃いの刀を持つというのは一介の藩士として非常に名誉なことではあったが、それよりも、鍔以外にも青い下緒にも織り出されている青海波、細やかな細工の所々が弘紀との絆をより確かなものにしているように思えて嬉しかった。

「俺からも弘紀に渡すものがある」

 弘紀に貰った刀をいったん脇に置き、座敷に入る前に廊下に置いてきたものを部屋の中へ運び入れた。

「俺の長覆輪、弘紀が預かって貰えないだろうか」

 そう云って、自分の長覆輪を弘紀の目の前、畳の上に差し出した。ここに来る前に太刀番から受け出した長覆輪には厳重に柄袋が嵌められていて、そう簡単に刃を抜くことはできなくなっている。弘紀が柄袋の上から長覆輪を握って手に取り、鞘を軽く撫でると、自分の体が弘紀の手に撫でられた気がした。

「これを私が預かっていて良いのですね」

「弘紀から新しい太刀を貰わなくても、長覆輪は弘紀に預けておこうと思っていた。三の丸の片隅に眠らせるより、弘紀の側にあるのが相応しいと思う」

 修之輔の言葉を目を合わせて聞いていた弘紀が返事の代わりに軽く瞼を伏せた。

「分かりました。必要な時にはいつでも出せるようにしておきましょう」

 自分の手の中の長覆輪を眺めながら弘紀が尋ねる。

「そういえば修之輔様、黒河に便りは出したのですか」

「一度、羽代城に入る前に仕官が決まったことだけの短い手紙を出したが、それ以降はまったく出していない。役目を貰ったことだし、近いうちに師範にも大膳にも近況を知らせておこうと思っている」

「この間、私は礼次郎に便りを出しました。貴方のことも書いておいたから、大膳様も礼次郎から聞いているかもしれませんね」

 礼次郎は、弘紀が黒河にいた時の友人で、今も手紙のやり取りで交流を続けているという。その手紙も時候の挨拶などではなく和算の解き合いというのがこの二人らしい。懐かしい名前を聞いたと思い、それから連想して、礼次郎から弘紀が笛を吹けると聞いたことを思い出し、弘紀に尋ねてみた。

「笛ですか。ええ、吹けますが」

 きょとん、と修之輔の顔を見上げるその顔が藩主の肩書に似合わないあどけなさで、弘紀を年より幼く見せた。

「中々上手いと前に礼次郎から聞いたのだが、いつか聞かせてもらうことはできないだろうか」

「今でもいいですよ、確かここに笛を置いていたと思うのです」

 そう云って弘紀は振り向いて、床の間の戸棚を開けて中をごそごそと探し始めた。

「あった。このところずっと手に取っていませんでしたが、夏頃までは時々吹いていたのです。二の丸御殿だと煩いだろうから、吹きたい時はここに来て吹いていました」

 取り出した笛を手に立ち上がり、修之輔の前を通り過ぎて座敷を横切る弘紀の足元はどこか覚束なく、言葉もふわふわと浮いている。やけに機嫌も良さそうなのは、さっきのあれだけの酒で酔っているのだろうか。大丈夫だろうかと見守っているうちに、濡れ縁に出る一歩手前で腰を下ろし、座ってくれたので安心した。


 そうして弘紀は一度深く息を吸い込み、笛を吹き始めた。


 初めて耳にする弘紀の笛の音。淀みなく切れ目なく、音が紡がれていく。正直なところ、修之輔は楽器の音色自体、そうそう意識して聞いたことは無かった。だから弘紀の演奏の巧拙は分からなかったが、ただ単純に、弘紀の吹く笛の音は好きだと感じた。

 弘紀が自分のために演奏してくれる笛を聞きながら、酒の満たされた朱塗りの盃に月影が映って、弘紀の着物の袖、雪華紋様を縫い取る銀糸が月光に煌めいた。


 静かな夜に響く柔らかな笛の音色、波の音がその伴奏に。

 初冬の冷気に澄んだ夜空に浮かぶ月、その金色に溶けそうな。


 一曲演奏し終えた弘紀が軽く目を閉じて笛を下ろす。その弘紀の側に身を寄せて、気配を感じて目を上げたその弘紀の肩を抱き寄せる。酔いを言い訳にしたところで少々強引な腕の中、下ろした笛を手に握ったまま大人しく頬を寄せる体を抱きかかえて。

 月が落とす松葉の影が、弘紀の着物に、畳の上に、砂浜に打ち寄せる波の様な模様を描く。用意されている寝室へ行く前に月明かりの差すこの場でと、そう願うと、弘紀が小さく頷いた。


 黄金の銀杏、銀の雪華。衣擦れの音に次第に乱れる互いの息が絡まっていく。


 ふいに途切れた笛の音、その音色に耳を澄ませていた者達はいったい何を思うだろうか。波の音が満月の夜に、満ちていった。

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