最終話 淵の番人

 老人は淵の側に作られた粗末な小屋に今日も通う。

 老人は淵の番人だった。受け継がれているのは一つの伝承。


 月狼が使う月牙の剣を守る事。


 この淵は月牙の剣が沈む聖域。何人も近づけてはならない。

 しかし老人は知っている。彼が子供だった頃、酷い旱魃がこの地を襲った。雨は降らず川は枯れ、この淵も底が見えた。


 そして、白く干からびた淵の底には何も無かった。


 それでも老人は淵を守り続けた。

 好奇心の強い子どもたちが、たまにここまでやってくることもあったが、追い返した。ここは聖域だった。


 月牙の剣を守る事。


 今はもう無い、月牙の剣を守る事。

 それが老人の役割だった。


 毎年大晦日に山の上から白い着物を着た男がやってくる。黒河藩の重臣、本多家から使わされるという男は、毎年違っているようで、毎年同じ男のようでもあった。そして老人にその役割を確認し、一年分の金銭を置いて山に帰る。


 月牙の剣を守る事。


 佐宮司神社奥宮の御神体である月牙の剣を守る事。


 なぜ山の中の神社の御神体が、この淵の中に沈むのか。

 その理由を、本多家の使いという男も老人も知らなかった。すでに根拠が失われ、すでに本体が失われた伝承は、ただ意味のない慣習として続いていた。


 月牙の剣。それは。


 そして今年の冬。老人の下を訪れたのは本多家の使いではなく、佐宮司神社の神主だった。


 真白な狩衣に身を包んだ神主はよく通る声で老人に告げた。

 月狼は既に檻を出た。新たな月牙の剣を持って。この淵を守る理由は失われた。そなたも檻から出るがよい。


 老人は動かなかった。淵を見下ろす小屋に座り込んで、硬く凍える雪の冷たさを感じなくなってもう何年、いや何十年。役割を放棄してここを離れるだけの理由が老人にはなかった。


 月狼も日輪の巫女も己には関係のないこと。己の役割は、父の、その父の、はるか昔から継がれてきたこの役割は。


 月牙の剣を守る事。


 鈍色の空から雪片は絶え間なく降り積もり、神主の烏帽子にも白く重なる。

 動こうとしない老人の姿をしばらく見つめ、神主は来た道を戻っていった。

 白い雪、白い狩衣。


 淵から流れだす渓流の水は、この世の全ての光を拒絶して、ただ黒々とこの地を流れる。

 月牙の剣が眠る淵から流れる水は、狂狼の呪いで黒く染まり、黒い河となってこの地をはしる。


 狂狼はかつての月狼。月牙の剣は月狼の剣。月狼が日輪の巫女を守るための。

 伝承は入り組んで絡まり、その姿を変容させていく。そして形も定まらなくなって雪に埋もれて消えていく。


 月牙の剣を守る事。


 老人は淵の側に作られた粗末な小屋に座り、淵を守る。

 黒河の地に降り積もる雪はやがて全てを覆いつくすだろう。真白なその平原。まるで誰かが見た夢のようなその景色。


 老人は一人、淵を守り続ける。雪は黒河に白く、降り積もる。

 静かに。ただ静かに。

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