第4話

 二の丸御殿の下にあたる砂浜まで進んで、弘紀が松風を止めた。

「少しだけ、海に」

 そう云って弘紀は松風から降り、波打ち際に歩み寄る。手綱を離された松風が数歩、勝手に歩くので、逃げはしないか様子を見ていると、特にそれ以上歩を進めることなくその場に留まった。そのように躾られているのかもしれない。修之輔も残雪から降りて弘紀の後を追った。

 慣れない砂浜に足を取られながら、海を背にしてこちらを振り返る弘紀にようやく追いつく。既に草履も足袋も脱いだ弘紀は、裸足の足下近くまで寄せる波をまったく気にしておらず、修之輔に袴の裾を上げてもらって早速、波打ち際で素足を海水に遊ばせ始めた。

 修之輔が自分の袴の裾も上げて弘紀の後を歩くと、足に冷たい秋の海の水が掛かり、黒河で馴染んでいた川の流れとは異なる感触に戸惑った。思えば羽代にやってきてこれほど海の近くに在りながら、修之輔はこれまで海に入るということをしてこなかった。

 海水の冷たさを忘れて打ち寄せる波を見つめる修之輔を、隣に並んだ弘紀は楽しそうに見ていて、夏になったら泳げますよ、と言う。羽代には水練が得意なものが多いと言うが、この海が近くにあればこそと納得できた。

「弘紀も泳げるのか」

「はい。でもそういえばしばらく泳いでいませんね」

 そう言って海の向こうを見る弘紀の視線の先、白い月が海の上に浮かんでいるのが見えた。  


 弘紀が海を見つめたまま、口を開く。

「貴方がいてくれて良かった。というか、今回の一連の出来事では貴方がいないと私は命が危うかった。もともと貴方と離れるのが嫌で、この羽代に連れて来たのですが」

 弘紀の言葉の隙間を秋の波音が埋めていく。

「貴方に剣を習った黒河のあの道場にいた時に、いえ、黒河藩にいたあの月日を通じて、貴方が私を見る目はいつも優しくて、他所から来た者でありながら、ここにいて良いのだと、私の存在を認めてもらえているようで、すごく嬉しかったのです」

 弘紀のその言葉は黒河藩でのことを語っていても、過去、生国であるはずの羽代にいた時に、自身の存在を否定される何らかの仕打ちを経験したからこそ出てくる言葉だった。

 弘紀と英仁の後継者争いは、外から窺うよりも熾烈であったことは、前藩主の正室であった弘紀の母親が城内で命を落としたことからも推察できることだった。そして先日の襲撃に至るまで、修之輔が幾度か巻き込まれた弘紀への直接的な攻撃からも明らかなことだった。


「その貴方が、今もこうして私の側にいて私を守ってくれる、私の身を案じてくれる、それがとても有り難く、嬉しいのです」

 弘紀が海風の中、こちらを振り向いた。

「黒河から羽代に戻ったのは私の意志です。でも貴方と離れたくなかったのは私の我儘です。その私の我儘の結果として、貴方が下手をすれば命に関わる怪我を負ったのはとてもつらいことなのです。貴方に謝って赦しの言葉を乞うのも私の我儘でしょう。そもそもその謝る言葉も見つからない」

 弘紀にそんな顔をさせるのは、自分の本意ではないのだと、望むことではないのだと伝えたくて、一歩、弘紀に近付いた。

 海は満ち始めていて、波打ち際の足元を潮の飛沫に濡らしながら、こちらを見上げてくる弘紀と目を合わせた。ひととき風が吹き止んで互いの言葉が明瞭に聞こえる。

「弘紀の言葉を借りるのなら、黒河を離れ羽代に来たのは俺の意志だ。弘紀と離れていたあの三か月こそひどく辛いものだった。あれ以上離れていては生きていけないと、そう思って黒河を離れた。だから今、ここにいるのは俺の我儘だ。その結果、この身に何が起きようと、それは俺自身の責でしかない」

 そして自分が弘紀から欲しいのは謝罪の言葉ではない。

「弘紀、藩主はその臣下がその役目に見合う働きをしたなら、その功績を褒めることが重要だと思うのだが」

 自分から言い出すことではないと思ったけれど、この若く聡明な藩主はそれも含めて全て分かるはず。

「貴方は私に褒めてほしいのですか」

「主君から褒めてほしいために働く臣下もいるだろう」

 弘紀はそれでも少し何かを考えていて、そしてふいに修之輔に抱きついた。


「……修之輔様、私のことを守ってくれて、ありがとうございます」

 それは修之輔が予想していた言葉とは違ったけれど。

 弘紀がこうありたいと思うのなら、自分たちのこの関係なら、その言葉が相応しいのだろうと思った。ここは城に近く遠目にも人影がある。波に蹌踉けた体で、弘紀はすぐに修之輔の体に回した腕を解いた。


 風向きが変わり、海に還り始めた陸の空気が弘紀の頬から熱を奪っていく。

「貴方は自分の意志で羽代に来て、そして自らの意志で私の下にいることを望んでいると、そう思って良いのですね」

 波音を背景に、弘紀と正面から向かい合う。言葉を変えて繰り返される互いの意思の確認は、これまで二人の間で何度も行われてきたことだった。修之輔は迷いなく頷いた。

 弘紀が身に付けている薄黄の小袖に灰白の袴は、海辺の日の光に照らされてまるで真白な装束のように見えた。いつか夏の夜に同じような光景を、繰り返し尋ねる弘紀の言葉に、何度も同じ言葉を返したことがあった筈、そう修之輔は思い出そうとして記憶が明瞭に浮かぶ前、一度目線を足元に向けた弘紀が何かを振り切るような勢いで顔を上げた。

「修之輔様、今度の満月、月観楼で一緒にお月見をしましょう」

 弘紀はそう云って、華やかに笑んだ。


 その弘紀との約束の次の満月までの間に、羽代藩内では明らかにいくつかの物事が動き始めた。

 例えば新しい藩札の流布が始まって、修之輔が城に出入りの商人に日記に使用する紙を注文すると、これからは掛け売りではなく、新たに発行された藩札で取引を行うと伝えられた。それは、羽代城中が行う日常的な対外取引から率先して藩札を使おうという取り組みの一環だった。

 新たな藩札は、青海波を背景に鳳凰が舞う図柄が上半分、下半分には甲乙丙のいずれかの文字と羽代藩の藩印が記されている。甲乙丙それぞれの藩札の価格は、市場に出回る藩札の量と羽代藩の財政を反映し、月ごとに変動するという。

 折り目なく刷られた墨の匂いもまだ感じられる新しい藩札を使い、修之輔は商人から紙を手に入れた。まだ使い方に慣れていないが、今後、同じ藩札でもより高い価値のものと交換できるようになる可能性があるという事だった。


 また、既存の茶畑の整備と藩直轄の茶畑の開墾も進められた。同時に、農民に武士の資格を与える侍株とは逆の、武士に農地開墾を許す制度が新たに設けられた。これまで武士が俸禄を貰うのは藩主からのみ、という定めがあったが、藩に収入を依存するばかりでなく、自ら生計を支える術を得ることが公に促された。

 寅丸が斡旋していた農家への人員派遣はこれまで違法だったという事になるが、その仕組みをそのまま流用したこともあって、この制度が円滑に施行された面も否めない。人手の足りない茶園には藩からの派遣という形で人員が送られることになった。


 そして藩主の強い意向で、羽代藩は荷船を一艘、購入した。頑丈で大きな船で、これを使って羽代の特産品を直接江戸に送ることができる。積む荷には藩が元となる保険を掛けることができ、藩主が決めた数品種に関してはこの船を使う輸送に優遇措置が取られることになった。

 これは羽代藩で生産されたものでありながら、その価格や流通が江戸の商人によって決められていた現状を変える取り組みだった。同時に、藩内の既存の商人の利を損なうことなく、藩が経済に直接介入できる仕組みでもあった。


 弘紀はこの藩の支配者として確実に歩み始め、これまで様子見を決め込んでいた中立派が次第に弘紀を信頼し始めるようになった。

 一方で、実の兄を自害に追い込んでまで藩主の座に固執するという評価も陰に囁かれた。そのすべてが根拠のない事と一笑に付すわけにいかない事情は、羽代家中の者はみな承知している。こういった評価は、上に立つものがその身に負う宿命と言えた。


 天高く良く晴れた日、既に初冬の時候だが、羽代藩にあっては日差しにはまだ温かさが感じられるその日に、今後およそ一年間の藩体制の指針が家中に公布された。

 新たに制定された決まり事や、確認しておくべきこと、そして参勤交代までの作業工程が藩主によって公示された。二の丸御殿の大広間には、弘紀の左右に田崎と加納、さらに高位の役職のある家臣が並んだ。弘紀の命令で烏を解散した田崎は、まだ藩政の中央にいるが次第に自分の仕事の引継ぎを始めているということだった。

 二の丸御殿の外壁をなす戸板はすべて取り払われて、秋の爽やかな風が御殿の隅まで巣食う小さな虫や埃まで吹き払うかと思われた。

「落ち着いてみていられるなあ」

 警固として配置されている庭からその広間の様子を覗きこみながら木村が云う。

「どうして」

 その木村の隣、修之輔も警固の任務中だった。

「先代まではこうして皆が集まると、誰の隣に誰が座るのか、誰と誰が味方なのか、腹の探り合いがあってピリピリしていた。今は弘紀様中心で、とりあえずは弘紀様を見ていればそれで良い。こういうのは安心するものだ」

「そういうものか」

「そういえば秋生はここにいていいのか。役目がついたのではなかったか」

「木村、今の俺たちの仕事がその新たな役目だが」

 木村の言う通りで、修之輔は藩主の護衛を主な任務とする馬廻衆の役を得たのだが、結局平時にやることの大半はこれまでと変わらず、それに加えて再編成された番方の軍事訓練にも加わわることになった。木村も番方の徒歩組に組み入れられて、本来は配置が異なるが、ようやく公表された人事のために当座の今日は二人して肩を並べて警護の任に当たっている。


「役目をもらったから小さな屋敷を手に入れた」

 一斉の人事配置の公表があった後、木村はさっそくそんなことを言い出した。これからは通いで城に務めるという。三山は御用人としての取り立てがあり、しばらくは行儀見習いを兼ねて役職のある家臣の家で働くことが決まったので、これも住み込み部屋を出るということだった。

「秋生も屋敷を構えればいいじゃないか」

 そう木村から言われたが、実家から家人を呼んで屋敷の世話をしてもらえる木村とは違って、身寄りのない修之輔が一から屋敷を構えるのは面倒ごとが多いから、と言い訳をしておいた。

 結局、下働きをしていたもの達のほとんどに改めて役が振られたことになる。これまで様々な役職の下位の者が行っていた城中の警護は、明確に番方の軍事訓練の一部として行われることになり、空いた三の丸の住み込み部屋はそのまま、修之輔が所属する馬廻衆や徒歩組の駐屯所となった。修之輔は部屋に残った山崎らと三の丸の管理もすることになった。

 結果だけを見て見れば、これで先代からの藩の内部は上から下に至るまで半数以上の人員が入れ替えられたことになる。


 弘紀が行った羽代藩政の改革は、人事、経済、そして軍事に及ぶ大規模なものになった。


 二の丸御殿の大広間で、今までに決まったこと、これから決めるべきことが読み上げられていくその間、修之輔は周囲を警戒しながらも弘紀の姿を遠目に見ながら思った。

 自分はあそこに並ぶ家臣の列に加わるつもりはなかった。自分は弘紀のことしか考えることができないし、弘紀のために動くことしかできない。それでは環姫にのみ忠誠を尽くし、結果として羽代家中を分断させた田崎と同じ道を辿ってしまうことになるのではないか。

 御殿の広間に居並ぶ者たちは、ただ誰か一人のためでなく、多くの者を擁する羽代藩のために働く者でなくてはならないと思う。自分は彼等とは違う道を、それでも弘紀と共に歩める道を探そう、そう思った。


 一人で決めることではない。弘紀とともに。


 視線を秋天の空に向ける。羽代城に棲むみさごが大きく白い翼を広げて空高く舞っているのが見えた。

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