第3話
夜の静かな波音に、穏やかに凪ぐ気持ちに促され、ふと、このところの心のわだかまりを弘紀に打ち明けてみようと思った。
「加納様の事だが」
だがこれは口にすべきことなのだろうか。言葉が口の端から零れた途端に感じた躊躇は、だが遅すぎた。
「加納がどうしました」
修之輔に体の重さを預けて目を伏せたままの弘紀に言葉の先を促され、ごまかすこともできなくなって仕方なく話を続ける。
「弘紀の云う様に、加納様は今の羽代藩にとって必要な人物だというのは分かる。だが俺はこの藩のために何かできるかといえば、何もできない。できるのは弘紀の身を守ることだが、加納様のように十分に剣術に優れている家臣もいる。替えが効かないというわけではない。それでも弘紀は俺のことを必要だと思ってくれるのか」
「えっと、修之輔様」
話が少々唐突になり、質問の真意を捉えきれない弘紀が修之輔の胸から一度身を離した。そのまま首を傾げて顔を覗き込んできて、修之輔は思わず視線を逸らせた。自分がとても恥ずかしいことを言った気がした。
弘紀が何かに気づいた様子で目を軽く見開き、身ごとこちらに乗り出してくる。
「修之輔様も、やきもち、焼くのですか」
修之輔は落ち着かない気分のまま、弘紀は一体、自分のことを何だと思っているんだろう、と一言文句を言いたくなった。
「なんかちょっと嬉しいような、可笑しいような気がしますね。ああでも、修之輔様は少し不安なんですよね」
うんうん、と頷く弘紀の顔は見るからに喜色に溢れていて、言わない方が良かったのかもしれないと今さらながら後悔した。
貴方の質問の答えになるか分かりませんが、と弘紀が云う。
「実は私は最初、加納が苦手だったのです。兄の家臣で、私よりもずっとこの藩について知っていましたから」
礼儀正しいし、面と向かって弘紀に反対することも、陰で悪口を言うような人物でもないのですが、どうも打ち解けなくて、と、その弘紀の言葉は、素直な気持ちの吐露だった。
「修之輔様が来てくれてからなんですよ、加納と面と向かって話せるようになったのは」
そういえば誰かが言っていた気がする。弘紀が臆せずに加納と話すようになったのは割と最近の事だと。
「貴方が近くにいると思えば、守ってくれると思えば、苦手なものも恐れずに心を強く持てる気がするのです」
「周りは弘紀がそんなに人見知りのような事をするとは思っていないようだ」
「誰もに対して平等に接することができるほど、私は人間ができてはおりません。あまり出来た人間と思われるのも居心地が悪いですね」
修之輔様は分かっているでしょう、とこちらを見上げる上目の目線も声も甘えている。確かに、と、菊部屋での三山と弘紀のやり合いを思い出してその頬を撫でてやると、弘紀は嬉しそうに修之輔の手の平に頬を寄せてきた。
「けれど、皆は弘紀のすべてを知っているわけではないし、良いところを見ようとしてくれているのではないか」
「それはそうなのですが」
弘紀は言い募るが、これはただ甘えたいだけで、まだ何か言おうと開きかけたその唇を修之輔は指で押した。
柔らかな感触をそのまま左右になぞると、弘紀が目に笑みを浮かべたまま、軽く歯を立ててその指を捉え、そのまま口の中に咥えて舌を絡めてきた。濡れた舌で吸われ舐められる感覚に、痺れるような快感を覚えて軽く目を閉じると指先の触感がより深く感じられた。
弘紀が咥えてねぶり、唾液を絡めてくる指とは反対、空いている手で弘紀の背から腰を背筋に沿ってその先までを軽く撫でていると、弘紀の歯が指を軽く噛んだ。ここまで、という合図だと思い、指を口腔から抜こうとすると後を追うように軽く吸われた。
口の端に垂れる唾液を拭おうともせず、気に入りの玩具を取り上げられたような顔の弘紀に、噛まれたのは手を先に進める催促だったと気がついた。着物を脱ぐからと言い聞かせていったん体を離す前、身を伸ばした弘紀に唇を舐められた。
修之輔が袴の帯を解き小袖を脱ぐ間、弘紀はその様子を床に身を横たえて眺めていて、羽織を落とした真白な襦袢一枚、緩められた襟に胸元が覗き、割れた裾から足の付け根まで露わにしている。修之輔を誘うためのその姿態に思惑通りに煽られて、単衣の一枚で弘紀の横に膝をつき、ねだる上目遣いの視線に目を合わせながら弘紀の襦袢の帯に指を掛けて抜いた。
この表情も、この姿も、自分しか見ることができない弘紀だった。
修之輔が欲情に浅ましく掠れる声で、他の誰にも見せない顔があっていいと、弘紀の耳に囁くと、弘紀は耳朶に触れる修之輔の唇の感触に身を震わせて、貴方にしか見せませんから、と応えて寄越した。その弘紀の声も快楽への期待に熱を帯びて微かに掠れる。
襦袢の襟を左右に大きく開けば軽く滑らかな絹の地は弘紀の肌を滑って落ち、襦袢のその下、他は何も身に着けていない弘紀の体が顕になる。
弘紀はこのところ、修之輔に抱かれる夜は下帯も付けずにいると決めたらしく、この姿で弘紀が自分を待っていた時間を思うと眩暈を覚える程に強く身の内が煽られて、思わず加減の無い力で強くその身体を引き寄せた。
さっきは弘紀に咥えられていた指をその身体の内に沈ませると、長い息を吐いた弘紀が、貴方の指が好きです、と囁いた。唇を合わせ、舌を絡めながらそこを充分に解していく。
濡れた音を引き摺りながら指を抜くと、弘紀が腕を回して修之輔の首にしがみついた。貴方のことが好きなのです、その言葉の最後を聞く前に、深く、その身を奥までつらぬいた。
体を重ねるその間、いつもより波音が近くに聞こえるような気がした。
「年が明けたらいよいよ参勤交代の準備です」
互いの息が次第に収まると、弘紀が仰向けのまま天井を見上げながらそう言った。格子天井に施された花の装飾は揺らぐ燈篭の明かりを受けて風にそよぐ風情だが、弘紀の声音は情緒とは無縁に冷静だった。だがそれは事が済んだ後はいつものことで、それよりも修之輔は気に掛かっていた話題に思わず身を起こして弘紀を見た。
「弘紀は一年間、江戸にいることになるのか」
「このところ短縮されて百日で良いそうです」
「七十二日」
言わずにいようと思っていた言葉がつい口から出てしまい気まずく思ったが、弘紀はその辺りには気付かないようだった。今夜はなぜか、言わなくてもいい余計な事が、言葉になって零れ出る。
「なんですか、それ」
悪気なく、でも興味深々にこちらを見る弘紀の目から、先程と同じ様に顔を少し逸らせた。
「……黒河で、弘紀を待っていた日数だ」
その修之輔の答えを聞いた弘紀の反応は、やはり先ほどと同じだった。
「数えていたんですか。そして覚えていたんですか」
弘紀のその言葉に、先ほど加納への微妙な嫉妬を打ち明けた時より強く羞恥を感じたが、口に出してしまった以上、もう遅かった。そんな後悔を振り切って尚、弘紀に伝えておきたいことがあった。
「それより長く、また離れることになるのは」
最後まで言い切る前に、起き上がった弘紀が勢いよく修之輔に抱き着いてきて、起こしていた半身を床の上に押し倒された。
「いえ、貴方には一緒に来てもらいます」
ずっと一緒にいると、さっき言ったばかりではないですか、とこちらを見下ろして微笑む弘紀の言葉に、修之輔が感じていた羞恥も後悔も押しやられる。自分も弘紀と共に江戸に行く、という事実を再度確認したくて、弘紀に改めてそれを尋ねる前、また冷静に戻った声で告げられた。
「それから先に伝えておきますが、田崎には烏の解散を命じました」
「田崎様は応じたのか」
「はい。潮時だと言っていました」
今回の件に限った責というわけではなく、田崎も高齢の域になりつつあり、これを機に後続にその任を託すのだという。
「なので江戸での私の護衛は、貴方にも田崎の後任の一端を引継いでもらいます」
「大役だな」
「加納が大よそをまとめますから、修之輔様はその指示に従えば大丈夫です。田崎も補佐に入るので困ることはないかと」
加納の指揮下に入るということに個人的な引っ掛かりを感じたし、そもそも修之輔はその任に相応しい役職に就いていない。生じた疑問が解決されないまま、弘紀は話を先に進めていく。
「江戸屋敷に着けば、現地の者が仕切ってくれますから、道中ですね」
そこが一番大変なのではないかと素人にも分かるが、役職の事も含めて本当に大丈夫なのだろうか。
「そこで、なのですが、貴方に渡すものがあるのです。準備ができたら呼びに行かせます」
「今ここで、というわけではないのか」
「ここでは無理です。楽しみにしていてください」
そう、いつものように華やかに笑んで直ぐその後、弘紀は堪え切れない欠伸をして、修之輔の胸の上にその身体の重みを預けてきた。用事を全て伝え終ったという事だろう。眠気に下がってくる弘紀の瞼、力が抜けるその手足。明日も朝から政務がある弘紀はもう寝たほうが良さそうだ。もう一度その肌を求めれば弘紀は応えてくれるだろうが、それよりもできるだけ休ませたいと思った。
名残惜しさを胸に収めるのはいつも通りで、修之輔は着物を身に着けて、宿直の控え部屋に戻る支度を整えた。弘紀は時折落ちてくっつく瞼をなんとか持ち上げながらこちらを見ていて、だが引き留めることなくあっさりと見送るこの様子だと、本当に近いうちに修之輔を呼びにくるのだろう。
有明灯明の明かりを落として隠し通路に足を踏み入れるその前に、もう一度振り返って肩越しに見た弘紀は夜着に包まり顔だけを出してこっちを見送っていた。本格的に冬になったらどういう格好になるのか、よく黒河の冬を越せたな、と、今さらながらそう思った。
その夜の言葉通りに、次の宿直の日を待たず、修之輔は二の丸御殿の玄関に呼び出された。御殿の玄関までは用人が弘紀に付き従っていたが、玄関を下りた弘紀は、護衛は秋生一人で十分だから、と他の者を下がらせた。
「こっちです」
軽い足取りで先を行く弘紀の後に付いて歩く。今日の弘紀は使用人の姿ではない。藩主の姿の弘紀と二人で城の中を歩いている事実に、夏にこの城に来たばかりの事を思い出せば、状況の変化は驚くほどだった。
弘紀に連れてこられたのは北の丸の
「この馬、秋生が使ってください。護衛には馬が必要です。江戸に行く時はこれに乗ってもらいます」
修之輔は羽代城下に自分の屋敷を持たないので、この馬は藩主の馬の内の一頭として扱われるらしい。世話も係りの者がするという。
「少し乗ってみましょう。砂浜ならば落ちても大丈夫ですし」
弘紀はそう云って、栗毛の馬を牽き出して修之輔に手綱を預けてから、自分は松風の手綱を取った。既に厩の役目の者によって二頭には馬具がつけられている。大手門に向けて、二人してそれぞれ馬を牽いて歩く間に、弘紀が話しかけてきた。
「尾花栗毛や黒鹿毛、いっそ葦毛でもと迷ったのですが、秋生にはその栗毛で正解でしたね」
「弘紀様が自ら選んで下さったのでしょうか」
周囲近くに人はいないとはいえ、日中の城内なので気を使った言葉遣いする修之輔を弘紀が楽しそうに見てくる。
「はい。いろいろな毛色の馬がいたのです。田崎は松風の影武者ならぬ影馬になるよう、同じ鹿毛の毛色を進めてきたのですが、それはそれで別に用意しようと」
修之輔は言葉遣いを変えているのに、弘紀はいつも通りのような気がする。
「名前、どうしますか。秋生が好きな名前を付けて下さい」
二の丸と三の丸を隔てる門をくぐり、その影から出た時、陽光に白い毛が輝いて見えた。馬の顔に伸びる白い筋。黒河の山に夏も残る雪渓の白さを、どこか遠い記憶として思い出した。
「
「良い名前ですね。もう調教は済んでいますからすぐに乗れます。春までに長距離に慣らしておいてください。城下にも乗っていけるよう、手配します」
それは虎道場に顔を出す時にもこの残雪に乗って行けるという事だろうか。徒歩では半刻近くかかるが、馬の足なら四半時で行けるだろう。今よりも気軽に通うことができそうだった。
大手門を出る手前で騎乗して、そのまま浜へ馬を進めた。弘紀の乗る松風が前を行き、残雪はおとなしくその後に付いて行く。城の前の砂浜は半里もない。
「途中まで、往復しましょう」
弘紀がそう言って松風を進ませた。しばらく馬房で顔を合わせる時間があったのか、松風と残雪のあいだに緊張は無いように見えたが、後ろから見ると松風の尾が少し上がり気味で、どうやら少々先輩風は吹かしているようだった。
すでに調教は済んでいるという言葉通り、残雪は慣れない修之輔の手綱にも言う事を聞いた。ただ、思うように操るようになるには、やはり訓練が必要だった。今後、修之輔にはより護衛に特化した任務に就いてもらうと弘紀には言われていたが、その内容はまだ明らかではなく、詳細が明らかになれば時間を見つけて残雪を馴らす時間を取らなければならないと考えた。
秋生は仕事ばかりが増えていくな、という木村の言葉を思い出して苦笑が漏れたが、これが弘紀のための任務と思えばもっと増えても良いと、そう思った。
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