第2話

 田崎の姿が見えなくなってから、今いる場所は棕櫚の葉影になって辺りからは見えないはずだと、修之輔は跪礼を解いて立ち上がった。弘紀がその側、修之輔の袖が触れる近さに体を寄せてきて、田崎は何をあんなに神経質になっているんでしょう、と、修之輔の胸の内と同じことを口にした。

「私の母上が巫女で貴方が狼ですか。そもそも修之輔様は私の母に会ったことはありますか」

「いや、ない」

 そうですよね、と弘紀が頷く。

「でも実際、修之輔様は狼というか、大きい犬っぽいですよね」

 尻尾はないですけど、と言いながら、修之輔の背中の方を覗き込んできた。覗き込むだけならまだいいが腰のあたりも撫でてきて、それは必要ないだろうと弘紀の手首を軽く掴んで持ち上げると、今度は空いた片方の手を伸ばしてくる。張り詰めた気配の会話を終えて緊張が解け、修之輔にじゃれて構ってもらいたいだけの弘紀の両手首を纏めて抑えて話題を変えた。


「それはそうと弘紀、加納様が俺に剣術の指導を受けたいと言ってきたのだが」

 弘紀が身動きを止めてこちらを振り仰ぐ。

「傷はもう大丈夫なのですか。治るまで無理をしないでください」

「大丈夫だ。実は既に一度、加納様と城内の剣道場で手合わせをした。筋は良かったので、また稽古なり鍛錬なり続ければ十分に使えるようになると申し上げておいた。それで城中はなかなか手の空く者がいないから、今度、城下の虎丸の道場にお連れすることになった」

 弘紀は、へえ、あの加納が、とちょっと驚いたようだった。

「それは良い事です。加納はあまり下の者達と話したことがないそうですから。町の者の暮らしも少しは見てくればいいと思うのです」

 代々の家老という家柄だから確かに藩の政治については詳しいのですが、と弘紀が、おそらく加納の姿を思い出しながら言う。その様子を見て、修之輔は何か自分の心の内が疼くのを感じた。これはどういう感情なのか、これまで感じたことのない心の動きに自身が戸惑う。

「加納の仕事を調整して、城下に行きやすくしておきましょう。面倒を見てやってください。加納は優秀で、今の羽代の藩政にはなくてはならない人材です」

 弘紀がそう華やかに笑んで、けれど話している内容に、先ほどの疼きが形を持ってこごったように感じた。

 弘紀を二の丸御殿の中に見送りながら、どこか安定を欠いた自分の心の中、弘紀が向かうその先には加納を含む家臣が待っているという事実を確認して、また動揺を覚える。加納は弘紀の信頼厚い重臣で、剣も扱える文武両道の面を持つ。弘紀の政務の場には必ず加納がいるが、自分はいない。そこまで思って自分の動揺の正体に気づき、思わず空を仰いでため息を吐いた。


 どうしようもない。自分が加納に覚えたこの感情、この期に及んで嫉妬などと、そんな子供じみた感情を覚えるとは思ってもみなかった。


 虎道場にはそれから数日後、加納から同行するようにとの指示があって、修之輔は木村と共に加納を道場へと案内した。任務ではなく私的な目的だからと、加納の供についてきた者は道場の前で帰された。私的な目的であっても立場は重臣、護衛は修之輔と木村に任されたということだが、木村は己のその任務を分かっているのかどうか覚束ない。道場主の寅丸は寅丸で、まさか藩の重臣がこの道場に来るとは、と、驚いているのか面白がっているのか、どちらとも取れる口調で修之輔たちを出迎えた。

 加納は初めて足を踏み入れた虎道場の様子をそこそこ珍しそうに見回しながら、修之輔に聞いてきた。

「秋生はここにいたことがあるのか」

「羽代城に仕官する前、ここでしばらく世話になっていました」

「なるほど、ここならば剣の修業が充分にできそうだな」

 寅丸は加納と修之輔が会話する様子を眺めていて、会話に一区切りついたその辺りで、稽古をしましょう、と声を掛けてきた。

 一通りに打ち合い、日暮れの時分になって寅丸は加納を料理屋に誘った。加納に付き従うことが今日の修之輔と木村の任務だったが、木村はどうもそれを忘れているらしく、ただ臨時の休みをもらった気分のまま、料理屋で夕食を食べて行けると単純に喜んでいる。

 偉い方のお口に合うか分かりませんが、と云いながら寅丸が向かった先は加ヶ里が働いている料理屋だった。奥の座敷に通されて、寅丸はしばらく加納の様子を窺うように見ていたが、加納は何も頓着する様子は無く、ただ物珍し気にあたりを眺めている。本当に遊びとは無縁に生きてきた男のようだった。


「木村、さきほどから鼻の下を伸ばしているようだが、この加ヶ里はどこぞの忍びだぞ」

 加納に裏はない、見切ったのか、寅丸は徳利を傾けながら木村に軽口を叩く。木村はまさか、と笑って取り合わず、今夜は給仕に侍る加ヶ里が寅丸を詰った。

「なにをいうのかしら、この人は」

「なに、そうでもなければここまで儂には近寄らん。仕事も持たず、金も持たず、なんでそんな男のもとに通おうなどと思うものか。腹に一物あればこそ、こんな儂を相手にするのだ」

 生真面目にやり取りを眺めていた加納が一言、本当か、と訊ねると、加ヶ里は加納の肩に手を置いて、その手に戸惑う加納ににっこりと笑んだ。

「加納様も本気になさらないでくださいまし。この方はずうっとこんなことを言ってあたしを困らせているのです」

 加ヶ里に相手にされない木村が修之輔に声を掛けてきた。

「秋生、静かだな」

「いつもどおりだが」

 実は先ほどから加ヶ里が隙あらば修之輔を睨み、余計なことをいうなと無言の圧力をかけてくるので、面倒臭いことになるならいっそ口を開かないでおこうと決めていた。反応の鈍い修之輔よりも、木村の目線が加ヶ里に向けられがちになるのは仕方がないだろう。

「ははあ、だがこんなに色っぽい忍びなら、籠絡されても良いなあ」

「木村、篭絡されたところで用済みになればお前なんぞさっさと始末されるぞ、これはそういう女だ」

 加ヶ里を見ながら惚けた顔で迂闊なことを言う木村に、寅丸が釘を刺す。

「いやだわ、まだそんなことをおっしゃるの」

 そこでしな垂れることなく、空の茶碗を差し出して自分の酒を要求するのが加ヶ里で、寅丸が苦笑しながら茶碗に酒を注いでやっている。

「加ヶ里、儂らだけでなくたまには修之輔にも絡んでやれよ。さっきから一度も話していないようだが」

「あたし、自分より綺麗な男は嫌いなの」

 ちょっとこちらに目線を流したと思うとすぐにぷいっと横を向く。自分にだけあたりが強いのは気のせいではなさそうで、寅丸が何か言いかける前、黙って話を聞いていた加納がおもむろに口を開いた。

「そうだな、確かに秋生の顔はこの加ヶ里とやらよりも美しい」

「加納様も何をおっしゃるの、ひどいわ」

「秋生、なんだおぬし、城でだいぶもてているようだな」

「そうなんだよ、寅丸。なんだか秋生に懐いている小さいのがいてな」

 この座の居心地の悪さに修之輔はすぐにでも城へ帰りたくなった。今度の当直の夜は何日後だったかと記憶をたどって何とか耐えようと努力したが、しばらく、座の話題は修之輔を巡って続けられ、いい加減なところで店の者が、お迎えが来ております、と加納を呼びに来た。


 料亭まで迎えに来た侍者と共に加納は自宅に帰り、酔った木村に加ヶ里が水を飲ませている間に寅丸が話しかけてきた。

「数日前かな、あの襲撃があった場所に行ってみたのだが、痕跡など何もなく、まるで何事もなかったようだった。あの日はあれから雨が随分降ったから、血なぞはすべて流されたんだろう」

 ただ、付近の農民への口止めは多少あったようだと虎丸が云う。

「領地内で身内に襲われたとあっては外聞が悪いからな」

 口止めされた情報を、武士であっても藩に仕官していない寅丸が知っていることは本来あってはならないことだった。それを敢て修之輔に教えて寄越す寅丸の真意は、いつものごとく飄々とした狐面に隠されていた。

「それからな、これは一昨日ぐらいだったか、見慣れぬ顔が道場に来たぞ。やたら強い奴であんな奴が羽代にいたとは儂は知らなかった。江戸に行く前の手馴らしだと言っておったが、そいつが秋生、おぬしによろしく言っといてくれとぬかしおってな」

 やはり秋生は城でもてているなあ、と寅丸が云う。思い当たることがあって聞いてみた。

「その者、原と名乗ってはいなかったか」

「どうだったか。ま、秋生もあれだ、城勤めが面倒になったらうちの道場に戻って来い。強い奴はいつでも歓迎だ」

 口元は笑っているようで親しみの感情に違いないとは思うのだが、やはり目的は分からなかった。戸惑う修之輔の肩を寅丸が叩いて、また道場に行く約束をしてその夜は別れた。


 次の当直の夜、修之輔は前番が終わるといつものように隠し通路を通って弘紀の部屋に向かった。夜は一段と冷えるようになってきて、隠し通路の足元には波音だけでなく冷たく湿った海風がどこからか忍び込む。灯りはもはや必要はなく、月のある時は月明かり、なくても行く先に漏れる光だけで辿りつけるようになっていた。

 隠し通路を出た先、弘紀の私室は昼からおこされている大きな火鉢で温められていて暖かかった。加えて部屋の半分ほどを几帳で立て切っていて、その空間に書見台と長火鉢、台付きの有明灯明を持ち込んでいる弘紀の様子は、どこか冬籠りする動物を思わせた。

 袷の単衣を肌着に、金糸銀糸で縁取りされた宝尽くしの文様の刺繍も美しい臙脂の羽織を肩にかけている弘紀は、部屋に入ってきた修之輔の方を見て、長火鉢から土瓶を上げて茶を淹れてくれた。

「外はもうだいぶ寒かったのではないですか」

「ああ。随分と冷えるようになってきた。けれど湿気がある分、黒河より過ごしやすく感じる」

「確かに、黒河の冬はとても寒かったのです」

 弘紀が黒河藩で冬を過ごしたのは一度だけ、そういえば着膨れして福良雀のような姿の弘紀を見たことがある。それでも積もった雪で遊ぶ様子にも見覚えがあって、弘紀の寒がりをさほど気に留めずにいた。そう云うと弘紀が、修之輔様がやけに寒さに強いだけです、と返して来た。

 弘紀が淹れてくれた茶を飲みながら、木村と加納と、虎道場へ行ったことを話した。加ヶ里が料理屋にいたことも話したが、料理屋での仕事は加ヶ里の趣味だと弘紀は云う。

「この間、加ヶ里に聞いたら、料理屋の仕事は客の酒をただで飲めるし、給料も良いから気に入っている、と言ってました」

 加ヶ里は弘紀が幼いころから身近で護衛を務めているので、時々そのように気軽に話をするのだという。その弘紀の言葉にも修之輔はこれまで感じることがなかった嫉妬を覚えている自分に気がついた。

「それより、私もたまには竹刀を持ちたいのですが。修之輔様、いつだったら相手をしていただけますか」

 自分の心の内、身勝手に凝る感情は、こちらを見上げる弘紀の瞳に溶かされる。

「弘紀は俺の都合を聞く必要などないだろう」

 どうして、と疑問を口に出さずに目で問うてくる弘紀の頬に軽く指で触れた。

「弘紀に命じられれば俺はそれに従うだけだ」

 弘紀が首を傾げる。

「貴方の都合を、いえ、意思を尊重したいのですが」

「弘紀の命に従うことが俺の意志だ」

「……貴方は良いのですか、それで」

 何処か慎重にこちらを窺う様子の弘紀の目を見て頷いた。しばらく互いに見詰め合って、弘紀が修之輔の胸にその身を添わせてきた。


「貴方は私のもの。けれど今回のように私が判断を間違えば、それは貴方の身に災いとなって降りかかってしまいます。貴方の意志の全てを以って私の命に従うというのはそういうことです」

「それで良いと言っている」

 弘紀が目を伏せて頬を修之輔の胸に摺り寄せる。伏せられた瞼に長い睫毛。

「それでは、貴方が私を守ってくれるのと同様に、私も貴方を守ることを考えに入れて行動しないといけないといけませんね。私の過ちが貴方を傷つけることがない様に。……先日の様なことが二度と起きない様に」

 一度下げた腕を持ち上げ、弘紀の背に手の平を触れた。

「そこまで考えなくても、弘紀は自分の信じることを為せばいい」

 弘紀が首を左右に振った。

「貴方を思えば私は自分の判断に慎重になることができます。私を守ってくれる貴方を守る事、それを忘れずにいることは、少なからず、この藩を守ることにもなるでしょう」

 この藩を統べる弘紀はその振舞いの全てに責任やしがらみが絡みつく。その重さを共有できなくても、弘紀がそのような存在であることは羽代に来たこの数カ月で修之輔の思考にも心にも刻まれた。

 貴方はずっと一緒にいてくれますか、そう尋ねてくる弘紀に頷いた。

「それが約束だ」

「側にいて、私を、守ってください」

 抱き寄せる自分より小柄なその体、その肩に負う荷の重さを自分が少しでも軽くできるのなら。海風に運ばれて聞こえてくる波の音色にしばらく、二人して耳を傾けた。

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