第6章 波の音色
第1話
霜月も中旬を過ぎれば修之輔の傷も次第に癒えてきて、舟の荷下ろしも時々、庭の掃除などは以前通りにできるようになった。もう少し様子を見た方がいいんじゃないか、と木村に心配されたが、動かさないと傷が変に癒着して動きが鈍くなることがあると、最後に傷の様子を見せた時に医者にそう言われた。傷跡は赤く肉が盛り上がっているがもう開くことはなさそうで、だが痕にはなるだろうとのことだった。
剣を振るう動きに支障はないか、仕事の合間に竹刀を振ってみようと剣道場に向かう修之輔に、木村が声を掛けてきた。
「秋生、道場に行くなら俺にちょっと剣の稽古をつけてくれ」
「構わないが」
見返す修之輔の視線に、木村がちょっと神妙な顔をした後、柄ではないと思ったのか照れ隠しの笑みを浮かべる。
「いやなに、このところのあれやこれやで、やはり武士たるもの、剣術を身に着けておかねばならんと思ってな。剣術の師匠として適任の秋生がここにいて、なにも学ばないというのも惜しく思えてきた」
思い立ったが吉日と言うではないか、今日これから儂は秋生に弟子入りするぞと木村は張り切るが、それを横目で見る三山は顔の前で手を左右に振る。
「私はいいです。剣術が必要となるような、そんな危ないお役目を貰わないことを祈って過ごします」
「城中の警備だって場合によっては剣を抜く必要があると分かったばかりなのに、何を言ってるんだ。まあ、こいつは放っておいて、じゃあ俺だけでも頼む」
そんな他愛無い、いつも通りのやり取りを交わしていると、菊部屋の入り口、襖の向こうに誰かがやってきた気配がある。入ってもいいかと几帳面に聞いてくるその声に、どうぞ、と気の抜けた声で三山が応答して、入ってきた人影に、そこにいる皆が驚き慌てて平伏した。
「秋生はここか」
そう部屋の中を眺めていうのは家老の加納だった。供の姿がないのは城中だからだろう。平伏したまま、ここに、と返事をする。
「頼みがあってきた。此度の件で家中がいかに剣術を疎かにしていたのか、あからさまとなった。後々家中に触れを出すが、人に命ずる前に自分も鍛える必要がある。なので秋生に剣の練習の相手を頼みたい」
家老の頼みとなればそれは命令と同じ意味だったが、言っていることは木村と同じだった。
「加納様がお望みならば、いつでもお相手いたします」
「では、今これから」
たまたま政務の手が空いた時間に来たのだという。急なことだったが断れる話ではない。承諾して、加納を先頭に、修之輔と木村が後に従う形で剣道場へ向かうその間、自分より体格の良い加納の背を見ながら修之輔はどうするかと考えた。
完全に怪我が回復しているとは言えない状況で、木村相手なら何とか、だが加納を相手にしての稽古は十分にはできないと思った。木村と加納の組稽古を横から指導するのが良いだろうと結論を出し、剣道場についてそう告げると、木村が、うへえ、などと小さく変な声を出した。家老相手に竹刀を振るうことになるとは思っていなかったのだろう。
防具らしい防具も剣道場にはなく、できることと言えば型通りの動きを確認するだけではあったが、一つ一つを丁寧に見ていくと案外体を動かすことになり、木村も加納も額から汗を流した。
「加納様はこれだけできれば充分じゃあないんですかね」
真面目に習ってみようという気持ちはあっても体力がまだ追いつかず、今日も床にへたり込む木村に、汗は流しても十分に余力の残る加納は、何回か素振りをしながら生真面目に言葉を返した。
「鈍っている。仕事が忙しくなってから稽古というものをしなくなった」
加納は今、三十二歳であることを話の合間に聞いていて、ならば加納から剣の稽古の時間を奪ったのは、弘紀の母親を巡る一連の事件の処理に費やした時間だと察せられた。
「いやあ、でも由緒ある道場に通っておられたんでしょう、身に付いている構えから違いますって」
寅丸はそういう基礎なんか全然教えてくれなかったと木村が今さらのように不平顔だが、師範となる者がおらず、どの流派の免許状も持たない寅丸が主であるあの道場に、そういうものを求めても仕方ないと、修之輔には分かっていた。
それは同時に寅丸が道場を立てた目的に対する疑念とすり替わる。隠れて手勢を集めていた英仁と、堂々と城下に名ばかりの道場を立てて人を集める寅丸と。表向きには違って見えても、その内情はどこか似通う。寅丸がどのような意図を以ってあの虎道場を建てたのか、その真意を探るために田崎は度々、烏の一人である加ヶ里を様子見に行かせていた。
英仁という長年の懸案が片付いた今、寅丸とその周辺が、羽代藩にとっての最も注視が必要な存在となるのではないか。
そこまで考えて、木村の情けない声が床の上から聞こえてきた。
「秋生、儂はもう無理だ」
座り込んで立とうとしない木村の代わりに、修之輔が竹刀を取って加納と立ち会った。体術を交えない剣のみの立ち合いならばと思ったのだが、木村相手に既に体が温まっている加納は、鈍っているとはいえ十分に重い打ち込みをしてきた。足腰も頑健で、大きな振りにも体躯は動じない。
確かに時折反応に一呼吸置くようなところがあるが、今でこれなら、それこそ稽古に足繁く通っていた頃ならばかなり強かったのではないだろうか。家中では文官と思われているようだが、文武両道を体現していると云えて、なるほど、家老を輩出してきた家柄は伊達ではないと思われた。
打ち合いはほとんど型通りに終始したが、口に出さないまでも、傷を負った修之輔への加納なりの気遣いなのかも知れなかった。
「これで秋生は本気じゃないんだろう」
そろそろ御殿に戻る、という加納の言葉に、ではここまでにしましょう、と修之輔が竹刀を置き、袖にかけていた襷を取っていると、木村がそう云ってきた。
「指導としては本気だ」
「そりゃあそうだが。なあ、秋生は何か技を持っているのか。教えてくれ、いや見せてくれ」
「技は一つあるが、それは弘紀様に伝えているから教えるのも見せるのも弘紀様の許可が必要だ」
「うへえ、そういえば弘紀様の師匠だったな、秋生は」
それじゃあダメか、と木村は残念そうに引き下がる。
「しかし加納様にも親近感をもちましたよ。秋生もまだ怪我をしていることですし、良ければ今度いっしょに虎道場に行きませんか」
木村がやたら気安く加納に声を掛けるのは、その虎道場と今ここの雰囲気を混同しているからのようだ。いちばん竹刀を持つ時間が長かった加納はそれなりに気分が高揚しているようで、木村の無礼を気にしているようには見えず、それどころか木村に訊ねた。
「その虎道場とやら、どこにある」
「城下の外れですね。なんか加納様の様なきっちりしたお方にはあんまり似合いませんけど、まあ行ってみましょう」
「そうだな。秋生はどうする」
この様子の木村と加納の二人連れというのも心配な気がして、そうなると修之輔の答えは必然と決まっていた。
「御一緒致しますので、行かれる時はお声掛けいただければ有りがたく存じます」
加納はその修之輔の返事に短く、うん、と頷いて自分の袖から襷を外した。
「今日の剣術の指南に礼を言う。今後ともよろしく頼む」
当然の言葉ではあったが、いきなり寄越された礼の言葉にやや面食らいながら修之輔は頭を下げた。加納はその修之輔を一瞥した後、襟を直して道場を出て行った。
思いがけずに加納に剣術の指導をしたその数日後、修之輔が二の丸の庭でいつものように棕櫚の周りを掃除していると、後ろに田崎を従えた弘紀がやってきた。庭の散策に見せかけて、こちらを見て軽く首を傾げたのは用事がある、という合図だった。跪礼して、弘紀が近くに来るまでその場に留まった。
「あの事件に関連して、田崎と秋生に状況を確認しておきたい」
庭を散策している体裁を崩さない弘紀が、池の水面に視線を向けて云う。その言葉が、未だ伏せられている英仁の暗殺を追求するものにも思えて、つい田崎の方に視線が向かったが、弘紀が最初に話しかけたのは修之輔だった。
「秋生の怪我はいつ頃、本復するのか」
田崎が修之輔と弘紀の内情を知っているとはいえ、弘紀の口調は藩主としてのものだった。
「年内に八割方、春には以前と変わりがないだろうと医師から見立てを頂いています」
「田崎、烏の状況は」
「かなり深刻です。何人かが命を落とし、多くの者が深手を負いました」
「そうか。春までに秋生が使えるようになるなら、それまでに田崎に頼らない護衛の編成を行おう」
それは今後、田崎の配下を弘紀の護衛の任務から外すという宣告だった。明言はしていないが、やはり弘紀は英仁の自死は表向きで、田崎による暗殺であったことを見抜いている。
田崎は異論を唱える様子も、不服の様子も見せなかった。このような時が来ることを分かっていたのかもしれない。
「新たな護衛の編成について、私から加納に話をしておく。田崎は加納や番方の者と充分に話し合って、今年中に案を上げるように」
弘紀の一連の言動は、田崎への今の役目を引退せよという宣告であると同時に、修之輔に新たな役目が与えられることを示唆していた。これは表に明らかにできない事情を知るこの三人の間でのみ交わされた密談だった。
「さて、この話はここまでなのですが、あと何かありますか」
厳しさの感じられた口調から一転し、振り返った弘紀が今度は固さのない言葉で聞いてきた。思わず合わせた目をそのままで、弘紀が、どうでしょう、と修之輔に重ねて聞いてくる。弘紀本人へ聞きたいことがあれば当直の夜に聞けばいい事で、それは田崎へ何か言いたいことは無いか、という弘紀の修之輔への配慮だった。
護衛の任務とは関係がないが、一つ、田崎に聞いておきたいことがあった。そしてそれは弘紀と田崎が揃うこの場でしかできない質問だと思った。修之輔は田崎の方に向き直った。
「田崎様、くろさぎ、とは何でしょうか」
田崎は無言で感情の無い目を修之輔に向けた。それはその語句を知っている、という、肯定の意思表示だった。田崎からの返事がないまま、修之輔は言葉を重ねた。
「あの襲撃のあった日の夜、城に戻る折にくろさぎと名乗る者と接触しました。田崎様のことを知っているようでした」
「田崎」
弘紀が田崎に返答を促すと、田崎は重い口を開いた。
「弘紀様のお母上が羽代に来る前に嫁がれた家に仕えていた者達のことだ。その者、なにか他に言っていたか」
「わからない言葉ばかりで意味をなさないのですが、日輪の巫女、という言葉を何回か聞きました」
田崎の眉根が寄せられた。弘紀が修之輔を見上げる。
「私はその言葉を聞いたことがないです。田崎、知っていることを話せ」
弘紀の命令に田崎が応える。
「それは黒河に伝わる伝承です」
黒河の統治者を補佐する日輪の巫女は、狼を使役する。
その昔、人々に災いをもたらす狂狼を巫女が退治した。それから後、狂狼は月狼の名を与えられ巫女の命令に従うようになったが、狼を操ることができるのは巫女だけだった。
狼は巫女に呼ばれない間は牢に封印される。巫女がいなくなれば狼は牢を破って狂狼に戻り、その地に災いをもたらす。
昔語りというにはどこか生々しさを感じた。それは巫女も狂狼も滅んだものではなく、今も在るものととして田崎が語ったからかもしれない。今度は田崎が修之輔に尋ねてきた。
「秋生、黒河の地にあった時、そなた、父親からは何も聞かなかったか」
「何も。父以外に他に係累もおりません」
「そうだな」
既にそのことは知っている、そう言外に取れる返事だった。
「あ、そういえば一度、母上が真白な衣装を着ていたことがあった。今思うとあれは巫女の衣装では」
弘紀のその言葉を聞いて、田崎が顔を上げた。
「弘紀様、あの日のことを憶えておられましたか」
「とても綺麗だったから。母上はお伽噺に出てくる月の天女かと、そう思ったのを憶えている。あれはいつのことだったんだろう。何かの節句だったのか。田崎、分かるか」
「御母上がその衣装を召されたは正月十五日、その年初めての満月の夜でした」
「だから月に帰る天女を連想したのかもしれない。でも見たのはその一回だけだった気がする。私が覚えている限り、他の年の正月は毎年違う錦の打掛を着ていた。父から贈られたものだったと」
「御母上が羽代でその衣装を身に着けられたのは、弘紀様の御父上が亡くなられた翌年の正月一度きりで、直ぐにその衣装は処分されました」
「どうして」
「羽代へ輿入れした以上、朝永の家の風習に従うと、黒河の風習をその時限りですべて忘れ去ってこの地で生きていくお覚悟だったと聞いています」
だが、環姫のその思いは数年後に儚く砕けることになった。
「田崎、では母上がその日輪の巫女とやらだったのか」
しばしの沈黙の後、少し首を傾げた弘紀から問いに、田崎が明らかな狼狽の表情を見せた。弘紀にうまく誘導されて、話すつもりのなかったことまで口にしたらしい。この機にと、修之輔は重ねてもう一つ、自分の疑問を田崎に向けた。
「私が狂狼と呼ばれましたが、これの意味するところも田崎様はご存じなのでしょうか」
田崎がこちらを見た一瞬、その眉根が険しく寄せられていたと修之輔は思ったが、再度見直す前に田崎の顔から表情自体が消失した。
「弘紀様の御母上が必要ないと捨てられたことを蒸し返すことはできません。弘紀様がこれ以上お聞きになられても、私はこのことに関しては何も話すつもりはございません。秋生もそれは承知してほしい」
田崎は、先ほど弘紀に命じられた件の検討を始めると言って、通り一遍に無礼を詫びてからその場を去った。修之輔の質問に何一つ答えないままだったが、弘紀は田崎を引き留めようとはしなかった。引き留めたところで答えなど返ってこなかったに違いない。
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