第6話

 処置が終わると縫われた傷の周りは晒しで巻いて固定され、新しい清潔な単衣に着替えさせられた。喉の渇きを覚えて水を探し、上体を起こそうとして医師に制止される前、傷を起点に激痛が全身をはしって体を動かすことができなかった。痛みよりも思うように動かない自分の体に困惑していると、部屋の奥の襖が開いた。

 医者が深く平伏する気配で、入ってきた者が誰か察することができた。軽い足取り。けれど片足を少し引き摺っている。

 平伏したままで医師が云う。

「弘紀様、こちらまでご足労頂かなくても宜しかったのですが。これからご報告に伺うところでございました」

「私も様子を見たかったから、構わない。この場で報告を」

 部屋に入ってきた弘紀が修之輔に近付いてきて、枕元に座った。

「小さな切り傷はいくつも。それらは問題がありませんが、左脇腹から腰にかけての傷が深く、数か所縫いました」

「血はそれで止まったのか」

「まだ少し流れていますが、糸で縫い留め、血止めの膏薬を塗っております。明日の朝には血は止まりましょう」

「気をつけるべきことは」

「今、今夜から三日三晩、熱が上がり過ぎないように気をつけなくてはなりません。深い傷が熱を持つのは仕方のない事ですが、全身が熱を発するようになると別の病を呼び込みます」

 こちらに熱さましが、と医者は弘紀に薬包をいくつか指し示した。

「しかし剣で鍛えていただけあって、脇の、この筋肉の厚みで助かったようなものです。もっとこの肉が薄ければ内臓が溢れて、そうなれば命を落としていたでしょう」

 弘紀の視線が自分の顔に向けられるのを感じた。心配をさせたくなくて、大丈夫だからと手を伸ばして頬に触れたかったが、痛みと熱、巻かれた晒しに身動きが取れなかった。

「この者への手当、御苦労だった。後ほど十分に褒美を遣わそう。他に怪我をしたものが北の丸に運び込まれている。そちらの手当ても頼みたい」

 その弘紀の言葉に、医者は、明朝また診に来ますがそれまでに何かあればお呼びください、と言い残し、助手と共に道具を纏めて部屋を出て行った。彼らの仕事は夜明けまでかかるに違いない。

「大丈夫、ではないですね」

 弘紀の手が自分の頬に触れた。いつもは温かなその指が、今は冷たく感じて心地良い。首はかろうじて動かせたので、何とか弘紀の方を見ることができた。

 城に着いてから着替えもして湯も浴びたのだろう、秋の空の鮮やかな水色に沸立ての小袖、海老茶の袴のその姿は昼間の乱闘を思わせない端正さで、その分、その瞳の曇りが気になった。随分落ち込んでいるようだ。

「傷が治るまで、この部屋を使ってください。ここは奥にある部屋の一つです。子どもの頃、私の部屋でした」

 そう言いながら、修之輔の額に乗せられた手拭を取って水に浸し、絞ってまた乗せてくれた。水の跳ねる音に喉の渇きを思い出して、水はないだろうかと弘紀に尋ねた。

「こちらに」

 弘紀は湯呑みに湯冷ましの水を入れて差し出したが、身を起こせずに受け取れない修之輔の様子に気づいて、一度自分の口に含んだ水を口移しで飲ませてきた。数回繰り返して湯呑の水を全て飲み干して、そのまま軽く舌を触れ合わせる。体も腕も動かせなかったが、舌は自由に動かせて、それだけが今自分ができる弘紀を宥めるための手段だった。

 弘紀は湯呑を置いて、修之輔に体を添わせてきた。もっと近くに引き寄せたいと、痛みを忘れて思わず持ち上げた右腕の、その指先で弘紀の髪に触れる。

 間近にある弘紀の頬に口づけると弘紀がゆっくりと顔を動かし、その動きに沿って頬から顎に、顎から首筋に唇が触れる。一度、深く息を吐いて弘紀が身を離し、けれどすぐに修之輔の胸に頭を摺り寄せてきた。

「また、私の判断の過ちで貴方をこんな目に合わせてしまった」

 それは違うと言いたかったし、自分が弘紀から欲しかったのは違う言葉だったけれど、どちらもどうやって伝えればいいのか分からなかった。ただ指先で弘紀の髪に触れ、少しでもその体温を感じていることが自分の傷の痛みを和らげているのだと、せめてそれだけでも伝わればと思った。

 時刻を告げる鐘が鳴る。弘紀が体を起こして修之輔の体に掛けられている掛布を直した。

「今夜は定刻ごとに状況の報告を受けることになっています」

 また後で来ます、と言い残し、弘紀は部屋を出て行った。部屋に残されたのは修之輔の方なのに、なぜか自分が弘紀を置き去りにするように感じられた。それはつい最近も覚えたばかりの感覚だった。


 光量を抑えられた灯明は柔らかく部屋の闇を照らし、しかし火の揺らぎが傷の痛みの波と同調する様にも思えて固く目を閉じる。


 田崎は戻ったのだろうか。外からは強風に加えて雨の音が聞こえ始めた。

 英仁の暗殺は、弘紀の判断の誤りを揉み消すための田崎の工作だった。最初から死罪や流罪を申し付けて粛々と刑を執行していれば、今日の襲撃は起きなかった事である。家中に気の緩みがあったとはいえ、領地内で藩主が身内に襲われるというのは失態以外の何物でもない。

 田崎が弘紀にどのようにこの件を報告するのか、あるいは龍景寺の者に報告させるのか、この後どうなるのか、耐え難い痛みの中、気を紛らわせるためにそんなことを切れ切れに考え、そして夜の闇で松風の前に立ち塞がった者の言葉が甦る。


 奔れよ、狂狼。その運命に追いつかれればそなた自身が喰われるぞ。


 痛みは時間と共に増してすでに強弱なく、絶え間なく体中を巡る。痛みに思わず漏れる呻き声は、屋外を吹き荒れる風雨の音にかき消される。

 弘紀がこの部屋を出た後、奥に勤める者が様子を見に来て、その時に何とか動かせることが分かった右手を使って解熱の薬を飲んだ。修之輔が薬を飲んだことを見届けるとすぐに奥勤めの者は部屋を下がっていった。

 下働きの身分である修之輔に、看病する者が夜通し付くことはありえない。修之輔は一人で痛みに向き合い、だがあまりに耐えがたいその痛みと体全体の疲労にいつしか意識が遠のいた。


 そしてまた突然知覚した痛みに目を覚ますと、寝間着に羽織姿の弘紀が枕元に居て、額の濡れ手拭を替えてくれていた。

「弘紀、いいから休め」

 弘紀が修之輔のその声に気づいて柔らかに笑んだ。

「大丈夫です。先ほど重臣たちを集めた会議で、今回の一連の出来事に関する結論が出ました。明日、私がするべき仕事は書状を一通、書くことだけです。兄に死罪を申し渡すことになりますが、誰からも異論は出ませんでした」

 自分の兄の命を奪うその命令を下す心情を思う前、弘紀の言葉に、まだ田崎による英仁の暗殺が知らされていないことを知る。知らぬ顔で帰還した田崎はそのまま弘紀のいう会議に出席し、英仁の処罰に賛成したのだろう。明日の朝、英仁の死は龍景寺からは自害として報告され、そのまま処理される筈だ。逃亡しようとしていた英仁の様子から、ある意味、田崎の行いは正しかったと言える。

 だが自分が出した命令との辻褄合わせの工作に明日以降、弘紀が忙殺されるであろうことが予測されて、それが先程の、休め、という言葉になったのだが、そのことを弘紀につまびらかにできようはずがなかった。

「かなり痛みますか」

 修之輔が言葉に躊躇う様子をみて、それを痛みのためととった弘紀が心配そうに顔を寄せてくる。痛いのは確かなので、無言でうなずいた。

「膏薬を貼り換えましょう」

 医者に習っておいたのだと、弘紀は手際よく傷に貼られた湿布を替えてくれた。血は止まり、体液の滲出だけになってきている、と傷の様子を教えて寄越す。時折湿布を替えないと、傷から滲出する体液に膏薬が流れ出してしまうらしい。

 膏薬を新たにした湿布の冷たさが、錯覚ではあっても痛みを一時遠ざけて、深く息を吐くことができた。弘紀に言い出せない隠し事は、けれど弘紀自身を守るためとの自己満足を充たして、修之輔はまた気を失うように眠りに落ちた。


 その眠りの中、熱と痛みにうなされて、奇妙にはっきりとした夢を見た。

 それは刺客の来襲に弘紀を助けられずに自分も殺される夢で、悪夢に違いないのに二人手を取り唇を重ねて共に命を落とすその光景は幸福に満ち溢れていた。 

 だが、今際の際に目に映る、真白な雪原に黒く流れて自分たちの身を浸す夥しい血の流れは、傍らに積まれた屍の山から流れる血液。それは自分たちが屠った者達の。血の匂いが麻薬のように甘く心に残った。


 夢にうなされながらも、眠ることで快復が早くなるとの医者の言葉通り、飲み薬と弘紀に貼ってもらう湿布が効いて、五日目ぐらいには痛みも落ち着いてきた。

 その間、ある程度予測した通り、田崎の謀に沿って物事が進められ、弘紀は事後処理に忙殺された。ただ弘紀が執務する部屋も修之輔にあてがわれた部屋も二の丸御殿で、弘紀は着替えることなく来れるとあって、ちょくちょく修之輔の様子を見に来た。

 夜も、気づくと弘紀が傍らに寝ていることがあった。

「貴方がいなくなってしまったらと思うと不安で仕方なかったのです」

 そう云って体を添わせてくる弘紀の体をより近くに抱き寄せて、胸元から聞こえる寝息を聞いていると、夜に強くなる痛みより、眠気が勝って良く眠ることができた。


 十日ほどで身を起こせるようになり、食事も自分で食べられるようになった辺りで田崎が見舞いにきた。互いに言うべきこと、言わなくても良いことを弁えたその面談は通り一遍のものになった。意外だったのは加納が見舞いに来たことで、真意がどこにあるのか戸惑ったが、新たに仕事を任せたいから回復具合を見に来たと本人に言われて、怪我人まで駆り出す何らかの計画が藩内で動いていることを知った。

 十二日目の午後には修之輔は三の丸の菊部屋に戻された。前日に傷を縫っていた糸が抜かれ、一晩たって傷口がもう開かないと医者に確かめられた後だった。晒できつく固定していれば歩くことも、身の回りのこともできるようになった。

 気づけば暦は既に霜月に入っていた。


「お、秋生、ようやく戻ってきたか」

 菊部屋に入ると、くつろいでいた木村の笑顔に迎えられた。三山もこちらを向いて尋ねてくる。

「傷は大丈夫ですか」

「あの夜の様子で、秋生がだいぶひどくやられたというのは分かっていたが、なにぶん情報が限られていて詳しいことが皆目分からん」

 聞くだけ秋生を困らせることになるかな、とこちらの顔色を見て木村が云った。こういう時の木村の気遣いはとても有難く感じた。

「しばらく秋生には軽い仕事が割り振られることになっている。休め、ではなくて、仕事をしろというのがひどいよな」

 それから、と言いにくそうな顔で木村が続ける。

「原がいなくなった」

 仔細は分からないが、あの日以降、姿を見せず、木村が山崎にどういうことなのかと聞きに行くと、すでに暇乞いの書類が受理されていて、城勤めを辞めていたという。

「まあ、あいつらしいと言えばそうなんだが、ひとことあっても良かったのにな」

「最後の最後まで、よく分からない人でしたねえ」

 原の去就はあの事件に大きく影響されているのが自明で、だが原が烏であったことは木村たちには言わなくて良い事だった。

 一方で、原を欠いたまま、修之輔が治療していた間の仕事を木村や三山が肩代わりしていたはずで、そのことには素直に感謝しなければならなかった。まずは早く通常の任務に復帰することが彼等への恩返しになるだろう。そうして修之輔にしばらくの間割り振られた仕事は書き物仕事が多くなり、腕ばかりが疲れたが傷の回復は順調に進んだ。


 夜、しばらくぶりに日記を開いた。表だっての口止めというものはなかったが、一連の出来事について詳細に記すのは控えた。けれど奥で出された食事の内容、赤身の魚の刺身に瓜の味噌汁はそれとなく書いてみて、食事が摂れるようになる前に、何度か弘紀に口移しで与えられた生姜糖の甘さと、この肌に直に触れてきた手の柔らかさはそのまま、胸にしまっておくことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る