第5話
修之輔と原の二人の足元に転がる死体を片付けるといって何人かがやってきたのを機に、原は音もなくその場を離れた。そうして原のその背を見て初めて、右肩に刺された跡か、血が滲んでいるのが見えた。剣術に長けているとはいえ修之輔と同様、原もまた手傷を負ったようだった。筵が広げられ、敵か味方か判別できない血に染まる死体と、折れた刀が回収されていった。
目を上げれば、近くの河原から松風が加ヶ里に牽かれてくる姿があった。奇しくも加ヶ里と同じ腿に傷を負った松風は、あの後、人の手を振り切って川に逃れ、さらに自分への追撃があれば川を渡るつもりで人間の様子を窺っていたらしい。それ以上移動しなかったのは自身も傷を負った加ヶ里が手綱を取って、ともに河原に身を潜めていたからのようだった。
松風の腿に血の跡はあるが流れるほどではない。骨にも異常はなさそうだが、遠目にも興奮している様子が見て取れた。あれでは弘紀を乗せるわけにはいかない。替え馬がどこにいるか、遠方まで逃亡してしまったのかと目を凝らすと、道の向こうから数頭の馬が駆ける蹄の音が聞こえてきた。
人を乗せた馬が二頭、空馬が二頭、近づいてきて止まる。騎乗しているのは田崎と、もう一人は見知らぬものだった。空馬の内の一頭は今まさに行方を危惧していた替え馬で、田崎たちがどこかで捕まえてきたらしい。様子は落ち着いていてこれなら弘紀が使えそうだった。
一度下馬した田崎が弘紀の下に替え馬を牽いて行き、弘紀が騎乗して直ぐ、急誂えの行列は羽代城に向けて進み出した。
見送る修之輔の視界の片隅に、乱闘に無残に折られた彼岸花が映った。
帰城する行列には加わらず、改めて現場の状況を検分する田崎の着物は昼に見た物とは異なっていた。田崎も来襲した敵と一足早く交戦していたはずで、血の汚れを嫌ったのか、あるいは実際的な意味があるのか、今、その身に纏う羽織は漆黒、小袖は薄墨、袴は夜の黒さで、足袋も黒。もう一人の見慣れない者も同じ揃いの黒い着物を着ていた。
原が近くに来て、空馬だった青毛の空馬に跨った。いつの間にか新しい黒い羽織を身に着けている。黒い着物に黒い馬。そこの三人の周りだけが夜の気配を身に纏っていて、密やかに人の注目から逃れていた。姿を隠すわけでなく、当たり前のようにそこにいることが、かえって存在感を希薄にする。
烏。その言葉を修之輔は強く意識した。
あの夜、弘紀と交わした言葉を思い出す前に、騎乗したままの田崎が修之輔に近付き原と同じ黒い羽織を投げて寄越した。
「秋生、それを着て松風に乗れ」
その命令に、先ほど原の云っていた任務がこの先にあることが察せられた。興奮の納まっていない松風は、だが背に人を乗せれば奔ることができると分かっているのだろう、修之輔がその背に乗ることを許した。
辺りは次第に夕暮れて、片付けが終った者達が少人数ずつ城に向かって戻り始めている。それらの者に背を向けた田崎は低く掛け声をかけて馬首を城とは反対の方向に向け、駆け始めた。烏二人がその後を追い、松風は修之輔が慣れない鞭を使う前に、自分以外の馬影を追って走り始めた。
勝気な気性の松風は群れの先頭を走りたがる。その習性を知っている田崎が一行を先導することで松風は自ら走り、修之輔はただその背から落ちないように手綱を握っているだけで良かった。
秋の日の落ちる速さに山の端の空の群青が濃くなる時刻、修之輔たちは先ほど発った龍景寺に再び辿りついた。境内には篝火が焚かれて提灯もいくつか揺れており、見るからに慌ただしい。山門に残る原以外の者は下馬して、手綱を原に預けた。
田崎の後について修之輔と烏一人が龍景寺に入ると、一つの建物から誰か出立の準備をしているようだった。近づけばそれが二、三人の供を連れた英仁であろうことが分かった。供の物は身の回りの世話をしていた小者らしく、帯刀していない。英仁の配下で武術に秀でた者は、田崎と烏、そして修之輔の手によって既に殲滅させられていた。
簡素な僧衣に身を包んだ英仁が田崎に気づいて、一瞬、体を強張らせたのが提灯の灯りでも見て取れた。田崎は夜の闇に浮かぶ自分の姿が相手に与える印象を充分に知っている。ゆっくり近づいて重く低い声で尋ねた。
「これは英仁様、この夜分にどちらにお出かけか」
「答える必要はないだろう」
「此度、貴方様は少々やり過ぎたのではござらぬか。先日の件にしても弘紀様のご温情でその命、助けられたというのに、そのお情けすら無下にするか」
英仁は田崎のその言葉を聞いて、開き直ったかのように声を荒げた。
「何を言う、田崎。お前こそ分をわきまえろ。お前こそただの家臣ではないか。そこをどけ」
「引くわけには参りませぬ。あなたは二度までも弘紀様を襲った。二度あることは三度ある、もし此度も貴方様を見逃したなら、必ずや再び弘紀様の命を狙うでしょう。藩主を謀殺しようとしたその罪、もはや言い逃れはできませぬ。大人しく、今のうちにご自分で自害されるのがよろしいのでは」
「死ぬ気など毛頭ない。ここよりひなびた田舎の座敷牢に謹慎蟄居など絶対に受け入れるものか。この世情不安に乗じて京都にでも行って
「そうはさせません。どうあっても貴方様にはここで自害していただきます。武士として名誉の死のはず。甘んじて受け入れるのがよろしいかと。今逃げ出せば終身罪人、武士の身分も危ういのでは」
「退け」
「どうあっても」
「くどい」
英仁は田崎の肩を掴んで脇に押しやった。田崎の後ろにいた修之輔は英仁と初めて間近に顔を合わせた。
母親は違っても同じ父親、同じ年。目元、口元にどこかやはり弘紀と似通ったその容貌。だが弘紀が環姫から受け継いだ気品も威厳もそこにはなく、己の邪心に任せて弟を何度も殺そうとしたその顔は。
ひどく醜悪で、邪悪だった。
弘紀と似通っている分、情も沸くかと思ったが、出来の悪い紛い物は本物を侮辱するだけだと思い知る。
「やれ」
こちらに背を向けたままの田崎にひとこと、命じられた。
音もなく滑らかに刀を鞘から抜いて振りかぶる。驚愕に目を見張る英仁の首を、修之輔は
血の噴出が絶えるのを待って、田崎は烏とともに倒れる英仁の体を持ち上げ、手近な部屋に運び込んだ。
「ま、形だけでもな」
田崎は英仁の死体を座った形にして、烏に死体の腹を裂かせた。腹を裂いたその懐剣は英仁の手に握らされ、辺りの血の匂いに臓物の匂いが混ざった。
「後の始末だが」
そう云ってこちらをふり返ろうとする田崎に、修之輔は声を掛けた。
「田崎様、私はこれより城へ戻ります。弘紀様に日が暮れたらすぐに戻るよう言われております。あまり遅くなると余計な疑念を弘紀様に抱かせることになりますが」
それは田崎の望むところではないだろう、という言葉を言外に滲ませる。この成り行き、弘紀の了解を得ていない田崎の独断によるものだと分かっている。そして、弘紀の兄を修之輔に殺害させることが目的でもあった。
巧妙に隠された田崎の裏の顔、原にも共通する人間味の欠如は、英仁を
しかしこれを契機として、修之輔を強引に烏へ編入させようとする田崎の目論みは阻止しなければならない。それは弘紀との約束だった。
田崎は軽く目を細めた。修之輔の意を測って事の損得を計算したであろうその後、修之輔の城への帰還を許した。修之輔は一礼し、速やかに、血の匂い漂うその建物の外に出た。門前で馬をつなぐ原は、一人で出てきた修之輔に何か言いたそうな顔をしたが、松風の手綱を要求すると素直にこちらに寄越した。
再び松風に騎乗して今度こそ、修之輔は羽代城を目指して松風とともに駆け始めた。
街道を城に向けてひたすら松風を駆る。松風は道を覚えていて、ほとんど勝手に走ってくれた。暗い道も松風には全く問題がないようだ。坂も泥濘も、川の流れにさえ松風の足は緩まない。月明かりも乏しい夜道を松風は迷うことなく走り続ける。大気の湿度は昼間より増して、時折吹く風は突風の強さになりつつあった。
先ほどの襲撃があった辺りに差し掛かると、最早人影は無く、だが空気に血生臭さが残るのを感じた。地に沁み込んだ血がそのままなのだろう。不意に道端に黒い塊が現れて道の真ん中に立ちふさがった。その異様な迫力に松風の足が止まる。影は人間の形をしていて、少しの間修之輔の様子を吟味する気配があった。
「そなた、烏か」
闇から滲むような声が質問を寄越した。
「烏とはなんのことか。人の名か。こちらはそのような名に覚えはない」
「ふん、先ほどの乱闘、烏一人、おぬし一人、たった二人で二十名ほどの敵を壊滅させたな。田崎が黒河から腕の良い剣士を雇ったと聞いていたがおぬしがそうか。黒河で拾われたという、もしやおぬしの名は秋生か」
「田崎様を知っているのか」
修之輔の言葉をどうとったか、甲高い笑い声が辺りに響いた。
「これはいい、あやつ、狂狼を拾ったか。日輪の巫女を失って、狂狼だけを単独、檻の外に出すとは。あの血の海こそ古の神話の具現。そうか、おぬしが狂狼か」
哄笑をひとしきり上げた後、修之輔を見据えて人影は云った。
「奔れよ、狂狼。その運命に追いつかれればそなた自身が喰われるぞ。日輪の巫女もおらぬまま、呪いを振りまくだけの存在を牢から出して、いったい田崎はどうしようというのだ。まったく面白い奴だ」
再び闇に響く笑い声は、今度は直ぐに止んだ。
「狂狼、また会おう。我らと手を組む気になったら連絡を寄越せ。なに、田崎が知っている。ともにこの世を騒乱に導こうではないか」
走りたがる松風が、己の進路をふさぐものに業を煮やして襲い掛かろうと後ろ脚に力を入れ、前足を浮かせる。人影は闇に溶けるように見えなくなった。
生温かい風に闇色の声だけが響いて、くろさぎと名乗った人影は姿も気配も消し去った。
修之輔は松風を宥め、
松風は自分も怪我をしている筈だが、素晴らしい俊足で走り続けた。多少扱いづらいが藩主の騎馬には相応しい気質で、弘紀は良い馬を持っていると、なぜか修之輔が誇らしく思う。
ぬるい強風が背を押す。興奮と緊張が緩むと、先ほど負った刀傷が痛み始めた。深手ではなかったが浅くもない。血もかなり流れた。傷に注意が向いた時から、次第に意識が危うくなるのが分かり、だがそれでも弘紀の下に戻るという強い意志で残りの道程、松風を駆り続けた。
城下町に入る番所で下馬しようとして、提灯をかざして近づく役人に、そのまま、と声を掛けられた。
「秋生修之輔か」
馬上で頷く。声を出そうとすると傷が広がる痛みがあった。
「弘紀様から城内まで下馬不要との下知を頂いている。そのまま城に入るように」
目礼してそのまま松風を駆った。額から流れる汗がねばりつくような、いや、この額の冷たさは汗ではなくて引いた血の気の冷たさか。
夜遅く、いつも賑わう料理屋は目抜き通りより一本外れた界隈で、今、目の前の路上に松風の障害はない。既に城は近いと知っている足取りで進む松風に任せて大手門までたどり着くと、直ぐに門番が松風の口輪を取りに来た。
両手で固く握っていた手綱から片手を離し、傷の出血を確かめる。袴に乾いた血の感触はなく、出血が続いている。痛みも次第に耐え難いものになってきていた。左右を牽かれて並足になった松風の揺れに落馬しないようにするのが精いっぱいで、だが下りて歩けるとも思えなかった。牽かれた松風は二の丸に向かい、御殿の表玄関で止まった。
次第に狭くなる視界の中、見慣れた木村と山崎が駆け寄ってくるのが見えて安堵に体の力が抜けるのが分かった。特に傷を負った側の手足に力が入らず、松風の背から落ちかけた修之輔の体を木村と山崎が二人がかりで抱え上げた。
朦朧とした意識のまま御殿の奥の方へ、やがて修之輔はどこかの座敷に運び込まれて降ろされた。
「あとはこちらに任せて下がれ」
医師らしき人物が木村と山崎を下がらせてすぐ、医師と助手の手で直ぐに手当てが始まった。着物を取られて血泥が拭われていく。
「灼くか、縫うか」
耳元で問われた。いずれもさらなる痛みを伴う処置であることはわかっていて、その覚悟を求めるための問いだった。
「縫う方で」
声を絞り出して答える。
「それでも処置の最後には糸ごと少々焼くことになる。痛みに舌を噛まぬよう、これを口に入れておけ」
その言葉と共に口に晒し布が押し込まれて、始まる処置の痛みに耐えるために修之輔は目を固く閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます