第2話
昨夜の別れはいつものように、どこか物足りない寂しさの尾を引いて、今、藩主行列の中ほどの馬上にある弘紀の背中は、後方にいる修之輔からは遠く見える。昨夜弘紀に見せてもらった桔梗の小袖は紋付羽織の下に隠され、ここからその色を見ることはできない。
修之輔の護衛の配置は、今朝、集合した時になって初めて明らかにされた。修之輔が行列の後方、原が前方に配置されているのは剣の技量の均衡を図ってのことだろう。松風に騎乗する弘紀の前には田崎がいる。
城下街中を藩主の行列が通る時、路上にいる町民は平伏が絶対だが、藩主が通り過ぎれば頭を上げて良い事になっているし、屋内にいればお咎めはないので、行列の後ろの方では初めて弘紀を間近に見た町民達の感想を聞くことができた。
「藩主様の御行列など、久しぶりだな」
「前の藩主様はずうっとお城の中だったし」
「ここしばらくいろいろあったようだが、今度のまだお若い藩主様はなかなかご立派な様子じゃないか」
治安の安定している城下では、藩主である弘紀の姿を目立たせるために、徒歩の従者は皆、菅笠を被っている。その笠の下から修之輔の耳が拾った内でも、少しでも弘紀を褒める言葉は嬉しく思った。
城下町の外郭の番所を出て、行列は北へ向かった。ここから一里ほどは起伏の無い台地が続く。城下町を出てからの道中は、笠を被るも被らないも各人の判断に委ねられていた。修之輔が笠を取って周囲を見渡すと、辺りは水田よりも畑と茶畑が半々ぐらいの割合で広がり、今の時期、茶の木の手入れをしたり作物を収穫する農民の姿がそこかしこに見られた。
農民は、藩主行列から十分に離れていれば平伏することもなく、遠目に行き過ぎるのを眺めていることもできるのだが、わざわざ近くにまで寄ってきて泥の畔に平伏する者も少なからずいたのは、物珍しさの好奇心だろう。いくらあっても困らない話の種に、新しい藩主様の姿を少しでも近くで見てみようとの思惑らしく、行列が通り過ぎて平伏を解いたその途端、背後にいる家族や仲間のところに駆け寄って、さっそく見たばかりのあれこれを話している様子だ。
そんな農民の姿を特に意に介することもなく、弘紀の目は度々茶の木や畑の作物の様子に向けられている。台地のこの辺りはこのところの山嵐にはさほど影響は受けなかったのか、著しい被害というようなものは見当たらなかった。背の低い茶の木は風に倒れることがまずない、ということもあっただろう。
一行は天気の良い野を歩く心安さで、私語こそないもの、皆、機嫌が良い。道程の半ばあたりで、修之輔は道脇の畑の中にどうも見慣れた姿があるのに気がついた。髷を結っているから武士ではあろうが、泥まみれで日に焼けた、その背恰好も同じような者数人が農民と同じ作業着を着て畑で作業をしている。
中でもヘタを結わえた立派な大きさの
あまり見過ぎても不審がられるので適当に視線は外したが、その姿が背後に過ぎてから名を呼ばれた気がして肩越しに振り返ると、こちらに向かってわさわさと大きく手を振っている人影がみえた。やはり寅丸達だったようだ。前に農民から金を貰って農作業を手伝っていると言っていたが、それは本当のようで、このように農作業を頻繁に手伝っていればこそ、腕太く、胸板厚く、剣を力で扱えるのも納得がいくことだった。
それにしても寅丸を始め、農作業を手伝っていた何人かの若者は、今行列の中にいる者達と同じ武士とは思えない出で立ちではあった。
道程も後半に差し掛かると辺りには起伏が出てきた。行列が一度、小休止を取ったのは小高い丘の上で、眼下にこれまでの道程を一望することができた。先程寅丸達が農作業をしていた畑は視界の中ほど、その向こうに羽代城とその城下町、そして青く広がる海原が見えた。
護衛の任務がある手前、風景に見惚れているわけにもいかず、直ぐに持ち場に戻るために背を返したが、少し離れた日当たりの良い場所では弘紀が松風から下りていて、おそらく修之輔と同じ光景を目にした弘紀はふっと、と視線をこちらによこした。
きれいですね。
そんな弘紀の言葉が聞こえたと思ったその瞬間だけ、二人で肩を並べ同じ風景を見ている幻想を共有した。
山間にある龍景寺の周辺には茶畑が広がる。大人の腰の高さほど、一本一本丁寧に手入れされた茶の木が並ぶ茶畑を抜けて坂道を登った先、住職が門前まで迎えに出てきている姿が見えた。温和な住職は気弱にも見えて、今日の藩主の来訪が決して喜ばしいものでないことを重々理解していると見えた。
案内に従って境内に入ると、小さな山門からは想像がつかないほど広い敷地であった。随行していた家臣、西川の顔が険しくなる。境内の建物に改築の跡が明らかな他、何棟か増築されているのだが、藩への報告がないという。使途不明金の一部が使われていることは明白だった。
弘紀と英仁の兄弟が直接顔を合わせるのは数年ぶりという事実は、この血族の確執の根深さを表している。龍景寺の住職が仲介人となった面会は、先日の件もあり、同席するもの全員が太刀も脇差もいったん外すことになった。
弘紀が英仁に羽代藩郡代に身代を預けた上での蟄居謹慎を言い渡すその間、修之輔は建物の外にいて周囲の警護を行っていたが、会談の途中、田崎が数人を連れて建物の外に出てきた。境内の詳細な探索を行っているようだ。しばらくして田崎が足早に修之輔の下にやってきたので跪礼しようとしたが、そのままでいいと制止された。
「境内に不審な建物がいくつか建てられていた。何者かが複数人、場合によっては十数人生活している形跡があったが今は誰もいなかった。弘紀様にこのことを報告するが、秋生、その場に同席いたせ」
そして田崎に呼ばれた場所は、会談が終わって寺が出す食事の前、弘紀が休む控えの間だった。
人払いを願い出た田崎の緊張した気配に怪訝な顔をした弘紀が、その後ろに控える修之輔の姿を見て、見て分かる明らかな喜色に表情を変えた。
「この者を部屋に入れても良いですか」
そう形式的に聞く田崎に、もちろん、と、藩主らしからぬ勢いで弘紀の返事が返ってきた。
「弘紀様、少々この寺での英仁様の動きに懸念があります。寺の中で、よもやこの間のようなことは起こすまいと思われますが、帰りの道中に不安があります。そこでお願いがございます。予備に持ってきている弘紀様の太刀を、この秋生に貸してやってはくださいませんか」
限りなく無礼に聞こえるその願いごとに、弘紀が首を傾げる。
「予備があるなら特に異存はないが、その理由は」
「秋生の剣術は防御に過ぎます。自分一人の身を守るにはそれで良いかも知れませんが、この者の任務は弘紀様の身を守る事です。英仁様にはいくつか不審な点があり、様子に不安が残ります。秋生の剣の腕を十二分に振るえる状態にしておきたいのです」
田崎の、その弘紀への進言で、修之輔は以前から感じていた自分の考えの至らなさがどこにあるのか、ようやく気付かされた。
自らに備わる剣術の技は、ただ闇雲に極めるものでも、自分の身を守るためのものでもない。弘紀の身を守るためのものだと頭ではわかっていても、それが具体的にどのようなことを修之輔に要求しているのか、理解していなかった。
我が身を守るために特化している長覆輪の刀そのものが、修之輔の考えを縛る鎖だった。自身の考えの至らなさ、備えのなさをこうして田崎に指摘されたことに反駁の余地は無く、それはただ受け入れるしかない事実であった。
弘紀は、何も意に介することなく田崎に許可を与えた。
「では秋生に私の太刀を貸し与えるように」
「ありがとうございます。では、係の者にさっそく手配させます」
そう言ってその場を去ろうとする田崎の後に修之輔もついて行こうとして、弘紀に呼び止められた。田崎は既に先を行って振り返ろうとしない。少しの躊躇の間に、立ち上がった弘紀が修之輔の目の前までやってきた。
「どうせなら交換しませんか、私の刀と修之輔様の刀」
こちらを見上げてくるその目の色で弘紀が面白がっているのが分かる。
「藩主様のご命令なら、是も非もないが」
秋生と呼ぶように、と念を押してからの修之輔の返事を肯定と受け取って、弘紀が尋ねてくる。
「修、えっと、秋生の太刀は他の太刀にはない細工があるんですよね」
いつか弘紀に話したことがあったかもしれない。修之輔の使う長覆輪には鞘と刀身を離れにくくする細工がある。刀を抜くときは栗形に見せかけた楔を抜いてから、と弘紀に説明した。
「わかりました」
ふんふん、と弘紀が頷いている。よもや弘紀に刀身を抜かせるような事態にはならないだろうが、田崎の神経質な緊張が気になった。なにか確信があるのだろうか。
部屋の表から食事の支度ができたことが知らされて、弘紀は料理が用意された部屋に向かい、修之輔は弘紀の替えの太刀を借り受けるために家臣たちの控えの間に向かった。日没までに城下に戻るためゆっくりとはしていられず、弘紀の食事が済み次第、一行はすぐに帰城の態勢となった。
そこまでは順調に進んでいた予定が崩れ始めたのは、田崎が行列に先立って先遣隊を出そうとして、それが妨害された時からだった。
行列の人数は来たときと同じか、再度の確認を英仁が求め、敷地内に異常がないか確かめるから待てと、そんな些細な確認まで要求されて、時間が取られた。
結局、田崎とその従者からなる三名の先遣隊の出立は大幅に出遅れた。三名とはいえ、数名の烏が目につかぬ背後にいるのは暗黙の了解で、しかしこの遅れが田崎と烏の連携を狂わせたであろうことは、珍しく焦燥の色を隠さずに馬の足を早めて龍景寺の門を出ていく田崎と、それにしたがって走ることになった従者の後ろ姿を見送って察せられたことだった。
弘紀のいる行列の本隊が龍景寺を出発したのは、田崎たちが発って半刻も経たないうちであった。
原が行列の先頭に立ち、槍持ちが後に付く。その後ろに家臣の西川とその護衛が続き、帰りも使われない駕籠の後ろ、松風に騎乗する弘紀は行きと同じく数人の護衛に囲まれて行列の中ほどに、修之輔も行きと同じく行列の最後尾付近にいた。
日は中天から傾き始めているが、何事もなければ夕刻には城下町に入り、日が沈まないうちに羽代城に帰還できるはずだった。
田崎の焦燥は別としても、藩主の龍景寺訪問の目的は達せられて、茶畑の坂道を降りて田畑の続く道を帰る皆の足取りも軽い。
ふと修之輔の目に、来るときには気付かなかった道端の真っ赤な彼岸花が映った。そこだけ密集した真紅の色は、光の加減かどこか生々しく、見ていると不吉な予感が胸に沸く。
彼岸花から視線を外しながら、光の加減でなく、先ほどから吹き始めたどこか生温かく湿り気を含んだ風が人の気持ちをざわめかせるのかも知れないと修之輔は思った。先を行く弘紀が時折、その風を気にするように風上の空を見る。空は青空が広がるが、昼前よりもよりやけに蒼く、雲は白く光って動きが早くなっているように見えた。
風の音。草葉の揺れる音。何かがおかしいと感じる。こんなにこの辺りは人気がなかっただろうか。来たときは、多くはなくても所々に人影があって、それぞれ農作業をしている様子だった。
生温かな風にぞわりと首筋を撫でられて、全身の毛が逆立つ気がした。やはりおかしい。この違和感を誰に伝えるべきか。だが何と伝えるべきか。行列を止めるべきなのか、逆に足を早めて一刻も早い帰還を促すべきなのか。
修之輔が自分の胸の内に次第に膨らむ不吉な予感に気を取られていると、突然山肌から何者かが転がり落ちるように下りてきた。先頭の原と弘紀の間あたりで倒れて地面に伏したのは服装から女人で、気丈に上げた顔には見覚えがあった。田崎の配下の加ヶ里だ。柄頭に手を掛けて警戒する護衛の者のみならず、行列の端にまで届く良く通る声で加ヶ里は訴えた。
「田崎様からの伝令です。この先、武装した複数の者が待ち伏せをしており、こちらに攻撃を仕掛けてきます。田崎様の先遣隊は鉄砲を持つ者達を足止めして交戦中です。直ぐに襲撃に備えてください」
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