第5章 黒い翼影
第1話
神無月に入ってから、海辺の羽代藩は二度ほど強い風雨に晒された。その嵐が本格的に吹き荒れる前、城から出された知らせで船は陸に上げられたが、街中では目方の軽い竿や桶は云うに及ばず、戸板や小さな荷車まで風に煽られて道を転がり、大手門の門番と船番屋勤めの者達は夜を通して対応に追われた。
夜半に入ってからの強い風と大きな雨粒が屋根や壁を叩く音に、このような気象に慣れていない修之輔は、使用人の寝泊りする平屋がそのうち吹き飛ぶのではないかと心配になった。ただ、作りが頑健な二の丸御殿に中に入ってしまえば風雨の音も遠く、かえってこのような天候の時は二の丸御殿に夜通しの宿直で詰めるのが心安く思えた。
そうしてこの季節、弘紀が執務の合間を縫って小走りに観月楼を行き来する様子を遠目に何度か見た。その手には何か細長い物と書物を持っていて、何をしているのか気になったが呼び止めるわけにもいかず、今度会ったときに聞いてみようと心の内に留め置いた。
先日の英仁の使者による弘紀や藩重臣の暗殺未遂は、刺客となった使者の生き残りが一人しかいなかったことから、その後の取り調べが難航した。
「既にその場で切り殺された一人の一存によるもので、自分たちは彼に従っただけだ。英仁様からは何の指示も受けていない」
その者を取り調べてもそう言い張るだけで、せめて二人残っていれば互いの証言の矛盾をついてなんらかの手掛かりが得られたものの、残った刺客の口は堅かった。
前に、夜中の城外で不審な人影があったことも、今回の事件を考え合わせれば城の下見に寄越された者に違いないという推測もあったが、当然、聞いて答えるような相手ではなかった。
この刺客のために北の丸の石牢が十数年振りに開かれて、新たに牢番が置かれた。
「幕府にも認められた藩主に刃を向けるのは、将軍に刃を向けるに等しい。死罪が相当だ」
「いや、藩主の身内を処分するとあってはそれこそ幕府への心証の障りとなるから、心身の病ということで蟄居謹慎させ生涯表に出さないようにすれば良い」
たとえ弘紀の腹違いの兄であろうと、これまで藩政を覆すような振舞いがあまりに多く、意見が割れた。
「形式的であっても一度本人に申し開きをさせた上で、羽代藩辺境の郡代へ身代を預け、蟄居謹慎を言い渡す。ただ、申し開きの如何によっては、より重い刑罰に変更していく」
それが弘紀の判断だった。甘いと言えば甘いが、血を分けた兄であり、妾腹ではあっても場合によっては弘紀よりも継承の順位が上であった可能性もあって、最大限、弘紀が譲歩した形になった処罰だった。
もちろん、死罪を主張する家臣達は不満を漏らし、ならばより英仁が言い逃れできぬよう、不穏な噂のあるその本拠地を訪れて問い詰めて、文言だけでなく物的な証拠を以って彼の罪状を決定すべしとの声が上がった。
今、英仁の身元を預かるのは、羽代城より三里ほど離れた山間にある
決まってみれば結局、双方の意見を少しずつ取り入れた折衷の案で、何かあればまたすぐに家中が二分する羽代を弘紀がなんとかまとめ、体裁を整えているという状態だった。
この決定に難色を示すと思われていた慎重派の加納は、来年に控えた参勤交代の一切を取り仕切ることが決まっていたため、その予行としての藩領地内の藩主行列は願ってもいないことだと、英仁の処遇よりも、むしろこちらの方に賛成した。
早速、弘紀の龍景寺行きの日取りが決められた。英仁や龍景寺との詳しいやり取りは重臣たちの仕事だが、修之輔たちに下りてきた仕事は、まず一行の道具を揃えることだった。
本来、藩主の行列は、その行列に加わる者の着物や持ち物に至るまで支給されて統一されるのが一般的だが、財政緊縮を実行している最中であるので、そうもいっていられない。これまでの参勤交代や折々の行事で使われた物が北の丸の倉庫や二の丸御殿の奥から引っ張り出されてきた。
「今回の龍景寺行きで予定しているのは二十数名だが、参勤交代はそれより大幅に人数が増える。どれだけの物資が今、城内に保管されているのか、これを機会に詳細に明らかにする」
山崎の指図の下、あちらこちらから運び出された品々が北の丸の道場の中に並べられていく。衣装については既に仕立てられている物の他、まだ縫われていない反物も残っていた。修之輔たち使用人が持ち出してきたそれらの布の量を見積もって、役目ごとに衣装を変えれば統一感を保ったまま倹約できると山崎が算盤を弾いている。
「小袖は藩が支給するが、その他の物は自分で用意しろ」
山崎から報告を受けた担当の家臣からはそのような指示が下りてきて、そうなると袴は自前の物という事で、修之輔はお仕着せの袴をそのまま身に付けることになった。
護衛役に任じられた修之輔に支給された唐茶色の小袖の布地は、一見地味だが日が当たると細やかな金色の光を零す瀟洒なものだった。修之輔が部屋にそれを持ち帰ると三山が目を輝かせた。
「わあ綺麗じゃないですか。これなら着てみたいです」
「三山は留守番だろう」
そういう木村も、当日は城に残って加納の指示に従え、という命令があった。
「そもそもなんで秋生殿と原殿が行列に同行できて我らは居残りなんですか」
支給の小袖に未練があるらしい三山が不平を漏らす。
「秋生は護衛に適任だろう。原の剣術のすごさだって、お前、その目でみたじゃないか」
「そうなんですが。でも木村殿が私といっしょで居残り組だというのは正直、ホッとしました」
「居残り組ってなんだよ。加納様の手助けをするんだろう、儂らは」
「加納様は私たちに何をさせる気なんでしょうか」
「それが何かいろいろ伝達の工夫をしてみたいとかなんとか」
加納は、弘紀や田崎のいない羽代城に残って留守居を務めると同時に、行列からの連絡を受け取り、また行列への伝令を行うための手段を見極めたいと弘紀に言ってきたという。長距離の移動が数日間続く参勤交代では、宿場から宿場への移動でそのような連絡手段が必要とされるだろうというのがその根拠らしい。弘紀はそれを許可した。
城内で慌ただしく準備が進む行列の日までに、目的地である龍景寺付近で、この頃身元不明の浪人の姿を見た者がいる、という話が使用人の間で囁かれた。その噂を耳にした修之輔は、以前、百姓の富吉が寅丸に訴えていたことを思い出した。寅丸は誰かに掛け合うと言っていたが、あの件はどうなったのだろうか。この噂話とは別件なのか。引っ掛かったが、修之輔一人が感じた疑念をどこに報告したらいいのか、そもそも報告すべきことなのか分からず、そのまま日にちが過ぎて藩主行列の準備は着々と整えられていった。
藩主の行列には、槍や旗、弘紀の乗る松風の鞍飾りに替えの馬、駕籠も出される。藩主の印は弘紀が自ら持つことになっていて、その他、道中に俄か雨にあっても大丈夫なよう、雨具や着替えなども用意された。
行列の構成は、弘紀と田崎のみが騎乗で他は全員徒歩である。片道三里の道のりを歩けない者はいない。田崎以外に重臣と呼ばれるものは後一人、財政を担当している西川という家臣は、いつもは駕籠を使っての移動だが、藩主が馬で自分が駕籠というわけにいかないと、侍従数名を従えての徒歩となった。田崎は徒歩の供を二名を連れているだけで、その数は身分の割に少ない。
駕籠を持つ者とその交代要員で五名、荷物持ちと松風の替え馬を引く者が三名、槍持ち交代含めて五名と、それだけで既に二十人を超える。護衛に専従するのは修之輔と原をいれて全部で五名という事だった。原の剣の腕ならともかく、他の者達がどれほど使えるのか、修之輔には知らされなかった。
藩主行列の前夜、修之輔は宿直の当番には当たっていなかったが、明日の打ち合わせとの名目で弘紀の私室に呼ばれた。剣の師弟であったという二人の関係は使用人の間にそこそこ知れ渡っていて、特に不審がられもしなかった。
「秋生、できるだけ引き延ばせ」
弘紀に下がるよう命じられた今夜の宿直の者は、そう、おどけた仕草でこちらを拝み、控え部屋に戻っていく。修之輔が弘紀に呼ばれれば、その間、宿直はお役御免で休んでいられると、そんな認識も同時に広がっているらしい。好都合と単純に受け取っていいものか判断しかねた。
部屋では弘紀は寝間着の単衣で、明日着る予定だという桔梗色の小袖を広げていた。花菱の綾織に色とりどりの秋草の花模様が袖の袂と背裾に刺繍されている。有明燈籠の光を増やして青い絹の海、煌めく刺繍の細やかな光が弘紀の膝から畳に流れている。
その弘紀の膝元には、螺鈿の細工も美しい遠眼鏡があった。形に見覚えがある。
「弘紀はこのところ、これを持って観月楼に出入りしていないか」
「はい、気付いていましたか」
何度か見かけた、というと、弘紀はくすぐったそうに笑う。
「観月楼から雲の流れを見ていたのです。こちらの書に天候を予測するために観察すべき点が色々書いてあって」
そう云って今度は一冊の書物を差し出す。読んでもいいかと聞くと、もちろんです、と、弘紀はその本を広げる修之輔の手元を覗き込んできた。中の文字はすべて手書きの筆で書かれたものだった。
「この気象を読み解く書は、元になる本を母が写したものです。母の母、私にとっての祖母は黒河の本多家の息女で、本多家では代々女人だけにこの書物を写すことが許されていたのです」
端正に流れる文字は弘紀の母の手によるものかと改めて目を落とす。今はこの世にいない人物の息遣いがそこには残っていた。
「写した本に自分が気づいたことを代々書き加えていったので、このような厚さになったのだと。嫁入り前の手習いということでもあったようです」
余白に書きこまれた文字は弘紀の母、環姫の物で、もし環姫が女子を生んでいたらその子が環姫の
「母は羽代にこの書を持ち込み、この地でも天気の観察を続けていました。母の嫁入り道具に古い遠眼鏡があることに父が気づいて、手慰みであっても良く使う物ならと、長崎から南蛮の物を取り寄せたのだと聞きました。昼間は母がこれで雲の流れを、夜は父が星を、互いの執務の合間に共に見たこともあったと」
弘紀が語る自身の両親の話は、その後の顛末を知っているだけに、薄い玻璃の向こうに見る儚い夢のように思えた。
傍らの弘紀の体に腕を回して軽く自分の方に引き寄せると、弘紀の方から修之輔の腕の中に入ってきて、胡坐で座る修之輔の膝の間に弘紀の小柄な体が収まった。夜気に冷えぬよう、その肩に桔梗色の小袖を掛けてやる。
修之輔の腕の中、弘紀は螺鈿細工が玉虫色の光を零す異国の遠眼鏡をいじりながらぽつりぽつりと幼い頃の思い出を語る。愛おしく綺麗なもの全てをこの腕の中に独り占めにしている感覚は、不思議なほど満ち足りた感覚を修之輔にもたらした。
そのうち話をすることにも遠眼鏡をいじることにも疲れたのか、遠眼鏡を床に置き、弘紀がその身を修之輔に預けて寄りかかってきた。今夜は修之輔の首筋へ触れてくるあの催促はない気配で、けれど肌を合わせない夜があっても良いと、そう思える程度に修之輔も今の状況に慣れてきていた。
弘紀の黒髪に頬を寄せて、しばらくその体勢で二人、羽代城の岸壁に寄せる波濤の音に耳を澄ませた。
やがて夜中であっても律義に時刻を告げる鐘の音が鳴る。互いが互いの温もりを充分に交換して身を離し、それでも修之輔が名残を惜しんで弘紀の頬に手を触れると、その手に弘紀が自分の手を重ねてきた
「貴方は朝、早いのでしょう。もう戻って貰わなくては」
言葉とは裏腹に、弘紀は修之輔の手に自分の頬を摺り寄せてくる。弘紀の気が済むまで自分の手を委ねる修之輔は、今夜、弘紀が自分を呼びだした理由を察している。
今回の自分の判断に間違いはないのか。
先日の城内での刃傷沙汰を思えば、明日の藩主行列の催行について弘紀の頭を巡っているであろうその不安は仕方のないことで、落ち着かない気持ちを宥めるために弘紀は自分を呼んだのだろう。
しばらくして弘紀は自ら修之輔の手を離した。
「もう、良いのか」
そう訊くと弘紀は無言で頷いた。
今夜はこれで休むから、と床に入る弘紀の掛布を直してやって有明灯籠の蓋を落とし、そうして部屋を出る時に、豪華な物に囲まれてはいるものの、この部屋にたった一人、弘紀を置き去りにするのが心無い裏切りのような、そんな罪悪感にも似た後ろめたい思いを感じた。体の繋がりは無くても、ただ朝まで側についていてやりたいと、そう思う気持ちは取り繕ったものではなく、紛れない自分の本心だった。
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