第4話
だが拍子抜けするほどに、弘紀は襲撃のあった翌々日、風呂場の薪割をしに三の丸にやってきた。
朝ではなく昼日中ではあったが、軽快な音を秋の空気に響かせながら、小柄な体全身で薪を割っているその背に声を掛けた。
「いいのか、ここに来ていて」
「こういう時だからこそ、体を動かすと頭がすっきりします」
港での仕事を終えて次の仕事に向かう途中だったが、修之輔は積まれている薪の上に腰を下ろして、しばらくの間、薪を割る弘紀の姿を眺めていた。ある程度でもういいと思ったのか、手を止めた弘紀が袖に掛けた襷をほどきながら側に来た。
「念のために言っておきますが」
この高さだと弘紀と目線の高さが同じだと、生真面目にこちらを見つめて寄越す弘紀の黒い瞳を見て、そんなことを思った。
「お互いが頭を冷やすため、などという的外れな理由で、しばらく会わないと言う選択肢はありません」
何を言い出すのかと、それでもその言葉に軽く頷くと、弘紀の肩から力が抜けた。誰かにそんなことを言われたのだろうか。弘紀がため息をつきながら薪の束の上、修之輔の横に座った。
「それから名前の呼び方なのですが、表で貴方に会えないから、秋生、という貴方の名字を呼ぶ機会がほとんどないのです」
「この間、あの騒動の前、普通に呼んでいたと思うが」
ああ、と弘紀が曖昧な返事を寄越す。他に気に掛かっていることがあるのか。手を伸ばして指の背で弘紀の頬に触れる。弘紀はしばらくそのまま、修之輔の指が頬を撫でるにまかせていて、様子がやはり弘紀の愛馬である松風を思い出させた。いや、松風が弘紀に似ているというべきか、そんなことを思っていると弘紀の手が修之輔の手首を掴んだ。
「修之輔様お願いです、どうか私が間違っていると思ったら、叱ってください」
この間のように、と云って、修之輔の手首を手繰り寄せ、弘紀が寄りかかってきた。背に腕を回すと小柄な弘紀の体は修之輔の腕の中に納まる。指の先でその腰あたりに軽く触れながら訊いた。
「間違っているとは、どのようなことについて」
「私は未だ藩主としての仕事に慣れていません。何をどのように信じ、取り入れ、何を棄却すべきなのか、その判断すら覚束ない。だから間違った判断をしてしまうのです」
使者の護衛に帯刀したまま御殿内に入ることを許したのは、完全に間違った判断でした、というが、あれはあれで選択肢の一つではあったし、同席の重臣たちも賛同したと聞いている。そう弘紀に言うと首を横に振った。
「それでも、最後の判断は私が行いました。貴方があの場にいたら、何も忖度することなく反対してくれたのではと思うのです」
弘紀の判断が不適切であったと、事が起きてから云うのは容易い。影で噂する者も、表だって意見する者もいるのであろうことが弘紀の様子から察せられた。気にするな、と言うのは容易いが。
「弘紀、それは弘紀の仕事で、俺が口を出すべきことではない」
修之輔のその言葉は、弘紀が求めているものとは違っているという確信はあったが、それでも伝えておきたいことがあった。
「お願いを聞いてはいただけないのですか」
「ああ。だが弘紀を見放すという事ではない。
「家臣からの批判を聞くのは辛いものがあります」
「批判と取るな、意見と取ればいい。さっき弘紀は自分でも言っていただろう、最終的に判断するのは弘紀だと。どのような意見も取捨選択できるのが、藩主である弘紀の特権、権力ではないのか。批判と恐れる必要はないだろう」
「私の権力、ですか」
弘紀が黙った。言われたことを考えているのだろう。弘紀は充分に頭が良い。こうという答えを明示できない修之輔の言葉ではあったが、しばらく言葉を発さずに俯いて、やがて何か、自分の悩みの解決となる糸口を見つけたようだった。伏せていた顔を上げてこちらを見上げてきた。
「そうは言っても、批判を真正面から受けるのはつらいものがあります」
「だが慣れないと」
「藩主の務めですか」
そうだと頷いた後、修之輔は弘紀の体を自分に引き寄せて、声音を少し低くして、その耳の近くで伝えたかった言葉を告げた。
「それに俺は弘紀が正しかろうと間違っていようと、根本、そんなことはどちらでもいい。弘紀が間違って多くの者から背を向けられても、その正しさを誰も信じてくれなくても、俺は常に弘紀の側にいる」
「藩主の座を無くしても」
「ああ」
「羽代を追われても」
「ああ」
どこか追い詰められた眼差しの弘紀と見つめ合い、だがしばらくして弘紀の目がふと和らいだ。
「でも私が藩主でなくなったなら、私はどうやって生きて行けば良いのでしょう」
その質問は切実なものではなく、弘紀の瞳の中にはこちらに甘えてくる色が見えた。問題の解決は見つけられそうで、でももう少し自分をかまってくれ、と言外に求める弘紀の立ち直りの早さに苦笑しながら、その髪に頬を寄せる。
「剣道場でもどこかに建てて、そこでともに剣術を教えるか」
実は前に黒河藩からの藩籍離脱の許可状が届けられたとき、そこには道場の師範から免許皆伝の証書も添えられていた。これがあれば修之輔は自分で道場を構え、そこの師範となることができる。それを伝えると、弘紀が首を軽く傾げて考えて、直ぐに頬を修之輔の胸に摺り寄せてきた。
「それは楽しそうですね。むしろそっちのほうが良いかも」
「弘紀とともにあると決めて黒河を出てきたのだから、弘紀の側にいつもいられるのなら、どのようなことになっても、俺はそれだけ叶えられれば充分だ」
そうしてその肩を抱いて弘紀を慰めながら、昨日知らされた次の宿直の日が二日後だったと思い出している自分がいる。今、自分の胸にしがみついている温かな体。その心を悩ませることの全てをひととき、忘れさせることが自分にはできると思い、けれどそれが弘紀のためを思っての考えなのか、単純に自身の欲情なのか、判断がつかなかった。
迷いを覚えたまま弘紀の顎に指をかけて上を向かせる。弘紀が少しでも抗えば手を離すつもりだった。だが弘紀は修之輔の指の動きに委ねて、むしろ瞼を伏せて、軽く開いた唇で、こちらを誘う。
せめて今この時だけでも。
弘紀の要求は修之輔の迷いを拭い去る。弘紀の柔らかな唇に自分の唇を深く重ねると、すぐに弘紀の舌が入ってきた。こちらを求める蠢きに、吸って舐めて、軽く噛み。互いの口の端から溢れる唾液を拭わないまま舌を絡ませた。
息が続かなくなった弘紀が一度唇を離して息を吸うその間、顎に垂れた唾液を舐めとりながら顎から喉にかけての柔らかな皮膚に唇を這わせると、弘紀の体が震えて細く長い吐息が漏れるのが分かった。思わずそのまま強く首筋を吸い、襟に手を掛ける。
このまま襟の奥に手を差し入れて、その素肌に指を這わせて、その口から洩れる甘やかな声を聴きながらこの体を押し開きたいと強く思う。だが。
ここまで。これ以上は。
弘紀と目を合わせないように瞼を閉じてゆっくりと唇を離した。上がった呼吸を鎮めるために肩で大きく息を吐く。そうして再び目を開けて、こちらを見る弘紀の瞳と見つめ合い、互いの目の奥の情欲の火が消えていくのを確かめた。
懐紙を取り出して弘紀の顔を拭ってやり、そのまま自分の顎に伝う弘紀の唾液を拭き取った。この続きは宿直の夜、二日後まで待たなくては、と口に出さなくても互いが承知している。
初秋の風が
鋭く響くその声が消える前に、修之輔の隣に立つ弘紀の顔は既に藩主の顔に戻っていた。下ろした髪が風に吹かれ、その瞳に光が戻っているのが見て取れる。どこか感じる寂しい気持ちは自分の勝手な感慨で、それよりもこの強く美しい弘紀本来の姿を誇らしく思う気持ちが何にも勝った。
「戻るか」
修之輔がひとことそう聞くと、はい、と短く明瞭な声が返ってきた。
確かな足取りで歩き出す弘紀の後ろについて風呂場の裏を出ると平屋の向こう、こちらを探していたらしい様子の木村が手を振って寄こした。三山がその後から何故か慌てた様子で木村の腕を掴んでいる。
「やっぱり秋生はここにいたじゃないか。三山、さっきお前、こっちのほうに探しに来たんだろう。なんで見つけられないんだよ」
「いえいえ、来ていません、何も見ていません、大丈夫です」
なんだよ三山、様子がおかしいぞ、腹でも壊したか、と二人が続けるやり取りに目もくれず、弘紀は二の丸御殿へ戻っていった。すれ違いざまに三山が弘紀に何か言うかと思ったが特に何もなく、むしろ三山はすれ違う弘紀から目を逸らした。
「腹と言えば、そういえば原はあいつ、どこにいったんだ。今朝から姿が見えない」
「なにかまた急な雑用を振られたのではないのか」
修之輔がそう返すと、だろうな、と、それだけで木村は納得した。原に振られた厄介な仕事が自分には振られなかったことを単純に喜んでいるようだった。
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