第3話

「居合いか」

 瞬時に半身を捻って右手で長覆輪の柄を錦の布の上から握り、刃を抜いて切りかかってくる相手を鞘の鋼で弾いた。相手の刀身に裂かれた錦が廊下に落ちる間もなく次の攻撃が来る。剣を下から上に大きく振り切り、続く剣戟を防いだ。鞘に纏わりつく青銀の布を払い落とし、その勢いで立ち上がる。

 鞘を抜かずに迎え撃つことができる修之輔の長覆輪は居合のような急襲に有効だが、連続して加えられる攻撃には防御だけになる。居合による襲撃が失敗した時点で計画は失敗の筈だが、冷静さを欠いた執拗な攻撃が続き、刀身を抜く隙がない。

「田崎様」

 声を大きくし部屋の内に異常を知らせてから足で襖を蹴り倒すと、松露の間の中では使者の三人が脇差を抜いて重臣たちに切りかかっていて、田崎一人がそれを食い止めていた。加納を始めとした重臣のほとんどが突然の事態に対応できていない。

 侍者や中小姓が弘紀の周りを固め、弘紀に奥へ下がるよう促し、庭では護衛が一人、英仁の手の者に切られて倒れていた。

 加減をする余裕がない田崎は脇差を抜いている使者を全て殺すつもりだろう。他に配備された者達は手加減どころか、むしろ自分たちが殺されなければ良い方だ。ならば取り調べを行うための捕縛をするのは修之輔しかいない。

 鞘の栗形に掛けた指を外し、刀身を抜くことなく長覆輪の鞘のまま相手の剣戟を受け続けた。剣の扱いに慣れた者であると感じたが、狙いであったはずの弘紀が侍者に守られてこの場から逃れれば、あとは駆けつける手勢の数でこちらが勝る。時間稼ぎだけならば十分に対応できた。だが。


「修之輔様」

 背後から弘紀の声。

 一度、刺客の刀を大きく振り弾いて得た僅かな瞬間、目線だけで弘紀の姿を捉えた。弘紀は奥へと誘導する侍従を振り切って自分の刀を手に取り、柄に手を掛けてこちらに走り寄ろうとして家臣にその身を強く押さえられていた。

 この状況に太刀を持った刺客が気づかぬわけがない。田崎の足元には既に使者二人の死体が転がっていて、庭の警護を斬った者は駆け付けた城の手勢に囲まれ身動きが取れずにいる。

 己の使命を弁えている刺客なら、自らの命と引き換えにしてでも弘紀の命を狙う筈。

 瞬時の判断で、修之輔は長覆輪の鞘から刀身を抜き、弘紀に向けられた刺客の視線を遮る位置に移動した。鴨居の高さ、障子との距離、床に転がる死体。そして背後に弘紀。可能な動きは限られている。


 刀は正眼。相手は力で押し通してくるだろう。


 次の瞬間、予想通りに相手は猛烈な勢いで修之輔に切りかかってきた。

 勢いに圧されれば刺客はその隙を突いてすかさず弘紀に切り掛かる。避けるという選択肢は元より皆無だった。相手が渾身の力で打ち下ろす刃を鼻先三寸の近さ、刀の背で受ける。

 金属が打ち合い擦り合わされる音が、凶鳥の叫び声のように松露の間に響いた。

 刀の背に受けた刃を勢いそのまま斜め下に流し、左手首にかかる負担を右手で掴んで耐えれば、切りかかった勢いで相手の刃先は畳に刺さった。刀の自由を取り戻そうと一瞬相手の思考が自分から逸れたその隙に、修之輔は肘で刺客の横面を殴打した。前のめりになるその体、後ろからひと息に首筋に刃を突き通す。

 首の骨と骨の間を滑らかに刃が貫く感触。一瞬軽くなった後、刃先は畳を突いて止まった。刀は抜かずにそのまま、痙攣しながら崩れ落ちる刺客の体の下に血は溜まるだろうが、弘紀の目には触れずに済む。

 刺客を畳に縫い付けた刀をそのままに、修之輔はいまだ侍従に抗いこの場に留まる弘紀の側に歩み寄った。

「弘紀」

「大丈夫でしたか、修之輔様」

「弘紀、なぜここに残った。田崎様も側仕えの者達も、奥に下がるようにと弘紀に言った筈だ」

 予想していなかったであろう修之輔の険しい言葉と表情に、弘紀が固まった。

「ここに弘紀が残ることで、俺と田崎様が守るべき前線が前に押し出された」

 その他の護衛の者達も、余計な気配りが要求された。動きに制限が掛かった。これでは護衛の本領を十分に発揮できない。

 困惑の表情を浮かべていた弘紀の顔が強張った。あの一瞬、弘紀は藩主としての立場を喪失し、ただ修之輔の身を案じる一心であったのは明らかだった。弘紀の瞳が揺れる。これ以上目を合わせていては駄目だと、修之輔は強いて弘紀から視線を振り切り、侍従に弘紀を私室へ連れて行くよう、重ねて指示を出した。

 大人しく奥へ向かう弘紀の背を見送りながら唇を噛む。

 さっきは弘紀が自分が藩主である立場を忘れていたが、今は修之輔が藩主に仕える自分の身分を失念していた。

 これは失態だった。そうしてそれを失態と自覚していながらなお、黒河にいた時ならば不安に瞳を揺らす弘紀を抱き寄せ、その動揺が薄らぐまでこの腕の中に留めることもできたのにと、その思いを胸の内から消し去ることはできなかった。


 松露の間は田崎の命令で閉鎖された。面談に同席していた重臣に怪我を負ったものはいないようだった。後始末の検分に立ち会った後、刺客の死体から抜かれて渡された長覆輪の血糊を拭い太刀番に預けると、後でもう一度状況を聞くために呼び出すから部屋には戻らず御殿の中で待機しているように、との指示を言い渡された。


 待機する場所と言っても昼日中、二の丸御殿で修之輔が留まることができるのは台所の隣の座敷ぐらいしかなく、そこへ移動する間にも行きかう者達の動きは当然だが平時に比べて慌ただしい。閉め切られた松露の間とは別の部屋に改めて重臣が集められて既に会議が始まっていると、周りの者達の話が断片的に耳に入ってくる。

 お偉方の会議が始まってしまえば使用人たちのすることはいつも通りの仕事しかなくなるが、それでも落ち着かない者達が三々五々、修之輔のいる台所の隣の座敷に集まってきた。不安で落ち着かない気持ちをもて余し、できるだけ寄り集まって何か少しでも情報を得たいということなのだろう。

 台所のものが気を利かせて大ぶりの土瓶のいくつかに茶を淹れてくれた。その土瓶が何回座敷を回っても、人の出入りが激しくてなかなか行き渡らない。ざわつく座敷に居座っているより、いっそ台所の手伝いでもしていた方がよいかと修之輔が立ち上がると、どたどたといつも以上に慌ただしく山崎が座敷に入ってきた。山崎はすぐに修之輔を見つけて声を掛けてきた。

「弘紀様の剣術の師範だったのか、秋生は」

 山崎はここに辿り着く前に既にそこかしこを走り回って来たらしく、汗を拭きながら小太りの体を揺らせて、それでも返事に戸惑う修之輔の様子を察したらしい。

「先ほど田崎様が他の重臣の方達に話されていたのを耳に挟んだのだ」

 そう説明した山崎の口調は、もともと固くもなかったが、さらに大分くだけている。山崎は脇から渡された茶碗の水を一息に飲み干して、その息を吐く間もなく話を続けた。

「前の北の丸での剣術の指導は、そういうことか。いやなに、儂も後ろの方から見ていたのだ。どうも秋生は初めてのお目見えにしては弘紀様に対して遠慮がなさ過ぎて、はらはらしていた。だが、そういう縁があるのなら、こんな下働きなどせずとも、もっと上のお役目を貰えたのではないか」

「外から来たので羽代の事は何も分からない。この仕事でかえって勉強をさせてもらったことは多く、もし役目を貰っても人を使うことには慣れていないから、こっちの仕事の方が自分には相応だ」

 相手にあわせてこちらも畏まった口調を使うのは止めたが、山崎は気に留めた様子もなく話を続けたので、それで良いようだった。

「秋生はここに来る前、仕官していたわけではないのか」

「剣道場で師範代をしていただけで、仕官はしていなかった」

 なんだ、剣の玄人というわけか、と山崎が息を吐きながら頷く。

「秋生は自分のことをほとんど語らぬではないか。そなたのことを知っている者もおらんし。それでいて、こっちには重臣の田崎殿の紹介状が届けられてな。はて、何者だろうと思っていたら、その顔だろう。まさか田崎殿が囲っていた小姓上がりかと噂する者もあったのだぞ」

「それはさすがに」

「そうだな、話を聞いた今となっては笑い話だ、許せ。今度また、空いている時間に道場で手合わせを、いや、指導を願いたいのだが」

「指導はできるかどうか分からないが、手合わせならば是非こちらからも願いたい」

 じゃあ今度の休みにでも、と早速言い出す山崎の後ろから、俺も頼みたい、と何人か他の者も口を挟んできた。

 今回の出来事は思いがけなく、各々に自身の剣術の能力に対する焦りを覚えさえることになったようで、それは良い事なのだろうが、修之輔一人では相手し切れるかどうか、これでは黒河藩での道場の稽古をたいして変わらぬことになりそうだとやや不安も感じた。

 どうやら修之輔に剣の稽古をつけてもらえそうだと、本筋とは関係ないところで得た安堵感そのままに他の事を聞いてくる者がいた。

「なあ、弘紀様はどんな感じのお人なんだ。剣術の指導をしていたというなら、秋生はけっこう近くで見ていたんだろう」

 そう云えばそうだな、と周りの者も頷いて修之輔に答えを促す。弘紀はまだ年若く、しばらく国元を離れていたこともあって、その人柄を良くは知らない、という者が多いとのことだった。弘紀との距離は近いと言えばとても近いと、ふいに手の平に弘紀の肌の感触を思い起す動揺を抑えて、黒河での弘紀の姿を思い出しながら言葉を選んだ。

「弘紀様は、とても素直で頭が良い。剣の腕も同じ年代の者達の中では最も秀でていた」

「それは秋生がここに来る前にいた、黒河での話だよな」

「そういえば何故、弘紀様は黒河に行ったんだ。ご病気療養とは聞いているが、黒河に行くには山を越えなければならないじゃないか。良い温泉でもあるのか」

 それは修之輔が答えられる質問ではなかったが、座敷の片隅から代わりに答える者がいた。

「たしか弘紀様のお母上が黒河藩主の妹君で、その御縁で黒河に一時出られていたと聞いている」

 いつのまにか座敷に原がいて、一人、茶を飲むでもなく座ったまま、こちらに顔だけ向けて話に入ってきた。山崎が原に云う。

「そうか、環姫様が黒河のご出自だったか」

「黒河藩主の妹君とは言っても、黒河の藩主と環姫様とではその母君がまた違っていて、藩主が正室の御子で、環姫様は確か本多家という古参の家臣から迎えた側室がその母親だったとも聞いたな」

「原、お前詳しいな」

「詳しいも何も、先のあの騒動の時も俺はこの城に務めていたから、嫌でもいろんな情報が耳に入ってきた」

「ああ、環姫様のあの時の」

 数年前、この城で起きた惨劇に居合わせた者は少ないが、話だけは皆、知っている。座敷の雰囲気は途端に沈んだ。気が付けば秋の日は短く、日暮れも近付いている。

「せっかく弘紀様の下、新たな気持ちで動き始めたところなのに、水を差すようなことが起きてしまったな」

 山崎が漏らした言葉は場を取り繕うようなものではなかったが、山崎はそのまま、宿直のある者は常の任務通りに、仕事のない者は食事を済ませたら部屋に戻っていろ、と指示を出し、皆はそれに従った。


 修之輔は夕食の前に一度、二の丸御殿の表の小部屋に呼び出された。田崎ら重臣の連なる会議の場ではなく、案内された部屋には修之輔に出来事の詳細を質問の形式で聞く者と、その応答を筆記する者しかおらず、記録のために呼ばれたというだけだった。

 弘紀を中心とした藩の重役達の会議は深夜まで続き、事が事なので、続きは明日、と一度会議が中断されてもそのまま城内に留まる重臣が何人かいた。彼らは自宅である城下の屋敷から各々従者も連れて来ている。急遽彼らの宿泊の支度が必要になったからと、修之輔を含めて城に住み込んでいる者は、一度戻った部屋から早々に戻された。

 二の丸御殿は襖で立て切ると大部屋をいくつかの小部屋に分けることができ、その小部屋に屏風を立てて重臣とその従者の部屋に誂え直した。そのあとは御殿の奥にしまわれている夜着を出したり、夜食を準備したりとやることが立て続けに言い渡されて、廊下で小走りにすれ違った木村が、まるで戦だな、と言って寄越した。

 泊まり込む重臣たちに夜食の配膳を終えた後、夜着を手分けして配分することになった。いくつかの小部屋に届けた後、最後に修之輔が担当した部屋には三人ほどの従者と共に加納がいた。

 何かまた言われるかもしれないと少々身構えながら部屋の中に夜着を置くと、加納は一言、御苦労、とだけ修之輔に声を掛けた。意外に思ったがそれ以上でも以下でもなく、拝礼して部屋を下がる。弘紀の部屋は二の丸御殿の奥にあって、奥と表を結ぶ廊下の先に今夜の宿直の者の姿が見えた。

 弘紀の事だからまだ起きているとは思ったが、到底気軽にその部屋を訪れることはできない。その場に居続けるのも不審だと、想いを振り切ってその場を去った。


 その夜は、剣を振るった興奮の余韻、羽代城に堂々と刺客を送って寄越す弘紀の腹違いの兄のこと、蜘蛛の巣のように張り巡らされている田崎の情報網に自分も絡め取られていること、弘紀の肩に担わされている物事の重さなど、答えの出ないことばかりを取りとめもなく考えて、修之輔はなかなか寝付くことができなかった。

 だが頭を占めるそんな考え事も、またこれで宿直の当番表がずれて、次に弘紀に触れられるのはいつなのか、その身勝手な心配事を取り繕っているだけだということにも頭のどこかで気づいていた。

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