第2話
城下町の目抜き通りを城へと戻る途中、修之輔たちの前を歩く三山の姿が目に入った。買い物の荷物を山のように抱えている。
「おい、それをあの部屋に置くのか、狭くなるじゃないか」
「秋生殿がほとんど荷物を持っていないからその分、置き場所があります」
確かに、修之輔には荷物らしい荷物はなかった。長行李一つ分もない。
「秋生、なに納得しているんだ。こいつを付け上がらせると自分の場所が座布団一枚ほどしかなくなるぞ」
「日記を書く場所が確保されればそれで十分だ」
「座布団よりは広いな、確保しておく必要がある。陣取り合戦だ」
木村殿の無用の物を処分すれば場所が空きます、などと口の減らない三山と木村、そして修之輔は、三人揃って城の門番の帳面と帰城の照合を受けた。その間修之輔は、先ほど虎道場で思いがけずに顔を見たあの加ヶ里と、夜中にこの門を通ったことを思い出して、烏は皆が思うよりも実体を持って活動しているのだと思った。
菊部屋に戻ると原が一人、部屋で留守番をしていた。戻ったぞ、と木村が声を掛けると、ああ、と一言返ってくる。それだけだった。だがいつも通りの反応なので誰も気にせず、どころか三山は原などいてもいなくても関係のない勢いで買い物の荷をどっさりと畳の上に置き、荷紐を次々解いている。
「しかし寅丸も食えぬ奴だよなあ」
羽織を脱いで足を伸ばした木村がどこか気の抜けた口調でそんなことを云う。寅丸の情報収集の手段についてかと思ったら、何のことは無い、加ヶ里のことだった。
「いいなあ、あんないい女に言い寄られて」
木村の目から見ればそのように見える光景だったらしい。やり取りを注意深く聞いていれば、互いが互いの事をある程度把握しながら牽制し合っていて、会話の端に出てきた上役という言葉は、おそらく烏を操る田崎のことを指している。
藩主のおひざ元の城下町で、正当な免許も持たないまま剣道場と称して若者を集めて武術の訓練をさせる寅丸の行動は、羽代藩から見れば要注意と云ったところなのだろう。加ヶ里も寅丸も、互いの立場を端から承知で様子を探り合うあの会話は、横から聞いていても息詰まるやり取りだったという修之輔の感想と、ただ加ヶ里の色気に騙されている木村の感想はかなり異なっていた。
その日の夕食時に居合わせた山崎から、修之輔は明日から警固の任務に加わるようにと伝えられ、纏める者の指示に従うよう言い渡された。通常の仕事を離れることのないまま仕事が追加されるらしい。
「秋生は忙しくなっただけで身分も給料も変わってないよな。
そう気遣う口調の木村には、それは弘紀の側に上がるために自分が望んでいることとは言い出せなかった。
弘紀の兄、英仁の使者を迎える日の城内警固の打ち合わせは五日前に始まり、その日、番方にあって該当の任務に当たる者が集められた。城内に住み込みで働いている者でこの役目に呼ばれたのは修之輔だけで、宿直でそこそこ見知った顔がところどころにあるとは思ったが、声を掛けて談笑するような知り合いという程ではなかった。
打ち合わせでは警備の者を置く場所の確認がなされて、誰がどこに配置されるのかは当日に知らされるという話だった。その当日までは各場所に仮配置されて、予行訓練が行われた。
城内の日常的な警備は、各所の門に配置された門番と時間ごとの巡視によって行われるが、今回はそれに加え、二の丸御殿周辺の警備に数人が割かれるという事で、修之輔はこのために集められたという体裁だった。
弘紀と腹違いではあっても、血を分けた兄からの藩主就任祝いの使者である。だがこの使者を迎えるにあたって、当初から神経質な雰囲気が漂っていたのはこれまでの両者の軋轢から当然のことで、城中、どこかひりつくような緊張感は弛むことなく、使者との面談当日の日になった。
当日の昼前、使者の一行が城まであと一里との早馬の知らせが羽代城にもたらされた。すでに城中の準備は整えられていて、この知らせを待っているのは料理を準備する台所の者達だけの筈だったが、その直後、黒灰の馬に騎乗したもう一人の知らせが田崎への至急の面会を願った。
修之輔を含む警固の者達は、既に脇差のみを佩いて、今朝知らされたばかりの警固の配置に付いていた。修之輔は割り当てられた二の丸御殿の庭の片隅、棕櫚の木の側に立っていたが、小走りにやってきた伝令が、二の丸御殿に直ちに来るようにとの指示を伝えて寄越した。警固の配置に急な変更があったという。
こっちへ、と連れられて二の丸御殿の小さな畳敷きの部屋に案内されて、これに着替えるようにと着物を渡された。事情が分からないまま手に持った着物は上下、見慣れた使用人の着物ではなく、小袖は柿渋の地色に金糸で縁取られた鮮やかな銀杏の黄色い葉が大きく何枚か描かれており、袴は銀糸で鮫肌の小紋を織り出した見るからに華やかな物だった。
意図が分からず、だが命令であったのでその場で着替えると、次は髪を整えると言われ、もうこれは何も考えず言いなりになる他ないと諦めて、大人しく髪を結わえられていると、小部屋の襖を開けて田崎が入ってきた。
「警備の配置を変更する。秋生、松露の間の入り口を固めろ。そのための衣装だ」
緊張を隠そうともしない口調で田崎が言う。松露の間は面会の行われる部屋だ。多少慣れてきたとはいえ未だ新入りといってもおかしくない修之輔に、会談の最も中枢の場所の警固をしろという命令は不自然だった。しかも直前になっての指示である。
「使者の一行の中に、一人二人おかしな者が紛れていると知らせがあった。そなたの長覆輪も用意させる。帯刀はできないが後ろに置かせる。いつでも使えるよう心積もりをしておくように」
その話は田崎のみが知り得る情報で、その断片的な情報の内のどこかに修之輔の働きが必要だと田崎が判断するに足る何かがあったのだ。修之輔が、分かりました、と応えたその声の緊張を読み取ったのか、田崎は頼んだ、と一言残して二の丸御殿の奥に向かった。時間からして弘紀を迎えに行くのだろう。
しばらくすると先触れがあって、奥から田崎や加納らとともに弘紀が二の丸御殿の表にやってきた。修之輔たち下の家臣は一度廊下に並んで平伏し、松露の間に入る藩主や重臣を迎えた。
頭を下げたまま、ふと目の前、通り過ぎるはずの他に比べて軽やかな足取りが止まった。白い足袋に包まれた足の形でそれが弘紀だと分かるが、顔を上げることは許されていない。弘紀の足。その指の形一つ一つまで思い出せるが、それを確かめたのはいつの夜だったか。
弘紀の後に続く重臣が、どうかしたのかと弘紀の様子をうかがう気配があって、不意に弘紀が修之輔に向けて口を開いた。
「秋生、本日は急遽この役目を任ぜられたと聞いている。その働きに期待している」
その言葉の終わりに合わせて修之輔は深く頭を下げる。
「藩主様自らのお言葉だ。励めよ」
そう後を続ける名も知らない重臣の言葉の後ろから、それすごく似合っていますね、などという弘紀の言葉が聞こえた気がした。藩主重臣の行列が過ぎてから頭を上げて廊下の先をちらりと窺うと、肩越しにこちらを見ている弘紀と目が合った。
藩主と目が合うのは無礼なふるまいではあったろうが、だがこれで今日これから己に課せられた使命を修之輔は強く認識した。
弘紀の身辺に不測の事態などあってはならない。それらはすべて自分の剣で打ち払うべきものであった。
使者の到着は、いつもは時刻を鳴らす鐘が定刻外に鳴らされた音で羽代城中に知らされた。大手門を通ってそのまま二の丸御殿へ向かう使者の一行が、なぜか物々しい雰囲気なのは、寺から寄越された使者のわりに僧形の者が一人もいなかったせいか。
使者の一行が二の丸御殿の玄関を入るとき、一悶着あった。
二の丸御殿に帯刀して入ることは禁じられている。藩主は執務の時にその背後に太刀持ちと、帯刀した中小姓二名が控えるが、その他の者は家老と云えども玄関で太刀番が預かり、脇差のみ身につけて御殿に入る。
だが英仁の使者の内、護衛として一行についてきた二名は、太刀を手放そうとしない。弘紀と対等に扱えという不相応な要求だった。未だ本心は弘紀の藩主就任を認めようとしない英仁の指示か、押し問答が松露の間にも伝えられて、弘紀を含む重臣の合議の結果、護衛の一人にのみ太刀の帯刀を許すという下知が伝えられた。勿論、弘紀のいる松露の間への帯刀は許されなかったが、無理難題を要求してこちらに折れさせるという手続きが欲しいだけだ、との見方が重臣の間にあったという。
帯刀している者は庭に下がれ、という指示も受け付けず、使者の護衛の内、太刀を帯刀していない者が庭に下りた。帯刀したままの件の護衛は松露の間の障子の前に座り込む。修之輔はその対面に座して、互いが向かい合う形になった。
「おや、綺麗な人形を置くようになりましたか」
松露の間に入る前、修之輔の姿を見て英仁の使者の一人がそう言った。
「使い物にならない人形ほど見目が良いというが」
そう云って修之輔の対面に座る自分たちが連れてきた護衛に目配せをする。使者三名が松露の間に入ってすぐに襖は閉められて、太刀番が青海波文様の錦袋に包んだ長覆輪を修之輔の後ろに置いた。
「左が柄だ」
太刀番が教えて寄越した言葉に軽く頷く。弘紀と、その兄が寄越した使者の面談が始まった。
事前に漏れ聞いた話では、今回の面談はむしろ諮問で、これまでに明らかになっているいくつかの予算に対する不手際や、黒河藩内での工作について、英仁の関与があるかどうかを問うことになっている。認めれば罰則が、認めなければ強制的な捜査が入るという、英仁側には厳しい内容のものである。使者は諮問されたそれらの事項を持ち帰り、英仁に伝えるだけの役割りの筈だった。
晴天の空、羽代城上空を高く飛ぶ
珍しい。修之輔が目線を空に向けた刹那、使者がいきなり太刀の柄頭を握った。
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