第4章 萩風の強襲
第1話
修之輔に新たな警固の任が通知されて数日後、菊部屋の四人には久しぶりの休みが割り当てられた。午後の半日だけだったが公休であることは間違いない。
「たまには俺たちも外に行こう」
木村がそう言って修之輔を誘った。原の姿は見当たらず、三山は前から買い物に行きたくて仕方なかった、と、今の内から買う物の算段をしている。行きつけの店があるらしい。修之輔が木村の誘いに乗ったのは、虎道場に顔を出してみないかという木村の提案があったからで、この間の城内での思いがけない手合わせの余韻がまだ残っていた修之輔にその提案を断る理由はなかった。
「午後は休みか」
大手門の門番は既に顔見知りで、木村から外出の届け出を受け取りながら気安く声を掛けてきた。顔見知りとはいえ、ここで渡した届け出には帰城の時間も書かれており、これに遅れれば罰があることは既に聞き知っている。
「ちゃんと決められた時間に戻ってこいよ」
遅れても目こぼしはしないぞと、脅してくる門番相手に、木村は、その時は秋生に切り込んでもらう、などと軽口を返している。今、修之輔は城の外に出るからと長覆輪を腰に佩いているが、これは久しぶりのことだった。
城内では帯刀は禁じられており、脇差は身につけていても太刀は太刀番に預けることになっている。今日のように外出する時はその都度、太刀番への届け出が必要だ。いずれ刀身の手入れもしなければと思いながら大手門を背にして船番所前まで来ると、そこはいつもどおりの賑わいだった。
ちょうど荷船が付く頃合いだったらしく、海上の船が次第に近づいてくるのが見えた。何人もの商人がそれぞれ荷車や人馬や人足を連れて船から揚がる荷を待っているて、その混雑した場所を通り抜けるのは一苦労だった。
「それでは私はこれで」
人混みを抜けると三山はそう一言云ったかと思うと、こちらの返事を聞くまでもなく、早足で姿を消した。
「三山、絶対に時間に遅れるなよ」
木村が慌て大声を上げたが、買い物の段取りで頭がいっぱいの三山には、もはや届いていないだろう。
修之輔と木村は、混み合う船着き場から、城下町の真ん中をまっすぐ貫く目抜き通りを歩いて虎道場に向かった。
特に先を急ぐわけでもなく、木村はときどき道の脇の店先を覗きこんだり、知り合いがいると声を掛けたり、いかにも気楽な道行だった。
街並みの半ばあたり、道の左側に建つ寺院の角を海とは反対側に曲がって、そのまま高台に続く道を登ると、坂道の向こうから虎猫が一匹降りてきた。その体格からこの道の先の虎道場に住み着いている二匹の虎猫の内の一匹だと思ったが、猫の方は修之輔を見覚えている様子はなく、早足でそのまま通り過ぎていく。浜の魚でも探しに行くのだろう。
その虎猫と行き違ってすぐ、虎道場の門前に着くと、中に入るその前から相変わらず雑然と賑やかな様子が通りにまで伝わってくる。案内を乞う声は絶対に中まで通らず、また案内をする者など置いていないことを知っているので、二人は開け放しの門をそのまま敷地に入った。
虎道場の屋敷の中庭には、そのまま寝転んで昼寝をしている者や、座り込んで持参した握り飯を食っている者がいる。そういう者達を蹴飛ばさないように気を付けて庭を横切り、向かった稽古場は戸が開け放しで、外と中の判別が曖昧だ。中に入ろうとしたその手前、ちょうど寅丸がその稽古場から出てきた。
「おお、木村に秋生。来たか」
木村が、来た来た、と答える。
「前触れが直前になって済まない。大丈夫だったか」
「ああ、まったく構わないぞ。木村も秋生もこの道場の勝手は知っているだろう、儂の都合など気にするな。秋生、どうだ、城勤めは」
久しぶりにも拘らず、かしこまった挨拶を必要としない相手なのは分かっているが、昨日今日会わなかった程度の気軽さで話し始める寅丸の質問に、なぜか木村が張り切って答える。どうやら久しぶりの外出に浮かれている様子だ。
「寅丸、秋生はすごいな。城内で剣の腕を披露する機会があったのだが、秋生に敵う者はいなかったぞ」
「なんだ、城勤めとは剣の稽古で良いのか。だったら儂も仕官するかな」
「おう、お前も来いよ」
機嫌よく話を続ける木村を、庭の方から呼ぶ声が聞こえた。知り合いのようで、木村は、じゃあ俺はあっちと話してくるから、と云ってそっちのほうへ小走りに向かった。
「木村と同部屋なら、まあ悪くないだろう秋生」
「確かに。いろいろと世話になっている」
「しかし、城内で勝ち抜き試合でもやったのか」
「そういうわけではないのだが、だがそういうことでもなければ竹刀を握ることもないのが物足りない」
「じゃあ、やるか」
そういって寅丸が竹刀を持つ手振りをする。頷いて稽古場の中に入れば、ちょうど昼下がりで人はあまりいないが、残っている者達の稽古の様子が尋常ではなかった。一人が五人を相手にしている。しかも順番があるわけでもなく、次々に打ちかかっていく乱打ちに等しい。
隣の寅丸の様子を見れば道場主である寅丸も承知の稽古らしく、特に止めようという素振りもない。どころか、少し体を慣らしたら秋生もあれをやってみるか、と聞いてきた。その返事は保留にしたまま、まずは寅丸と手合わせをしてもらった。
最初、防ぐので精一杯だった虎丸の突きも、手首の返しと腰から振り切る腕の力で五本の内、三、四は弾き返せるようになっていた。ただ、目方で負けるのはどうしようもなく、他の体術を身につける必要があるのはここにいた時から考えていたことだった。
身体が温まった辺りで再び、寅丸に多対一での稽古をしてみないかと誘われた。強く拒否する理由もなかったが、ただこの稽古の意味を知りたかった。
「随分実戦向きにみえるが、今なぜこの稽古をしている」
「それがだな、最近、京の都から道場に入った者がいて、そいつの話によれば今、京の都を跋扈している剣士や浪士たちはこのような切り合いをしているんだそうだ」
「都でか」
「そうだ。まあ、町でおおっぴらに刀を抜いての斬り合いと聞いているから、かなり血生臭いことになっているようだ」
「そんなことをしていて、お咎めを受けないのか」
「それが新選組を名乗るやつらは幕府の御意向という事で、むしろ取り締まる側なのだ。浪士も浪士で、薩摩や長州の藩士が流れ込んできていて、こちらは帝の錦の御旗などと言い出せば最早どちらが正しいのか判断がつかん」
「京の都はそのようなことになっているのか」
「ああ。しかもどうも武士とは名ばかりの奴らも紛れているようで、獲物一人に対して多人数で襲って憚りがない。いざ尋常に、などと、一対一の果し合いなどとっくに放棄されていると聞く」
飢えた狼の群れのように、一人に対して何人もが刃を向けるという、到底武士の矜持を持った者のすることではない、そう云う寅丸は一見
稽古をしている者達を眺めながら寅丸が云う。
「これからの世の中、多対一の備えが必要だ。島津、薩摩あたりだとそれでも力で圧する剣技を持つそうだが、儂らはそういうわけにもいかない。今までのやり方だと通用しなくなるぞ」
まるで近いうちにそういう者達と刃を交える、そう言わんばかりの寅丸の様子に、こちらもどこか焦燥を煽られる気持ちが湧いた。
修之輔が使う沙鳴きは、基本一人、場合によっては二人程度の殺傷のためで、それ以上の人数になると致命傷を負わせるというよりも戦闘不能にするための攻撃が主軸となる。これまでは多人数を相手にしたときはそれで凌いできた。積極的な防御とでもいうべき沙鳴きが、より攻撃的な複数を相手にした場合、通用するのか。考える必要がありそうだった。
「あの稽古を試してみたい」
そういう修之輔に、寅丸はやっぱりやる気になったな、と笑って返し、虎丸を入れたまずは四人相手から始めることにした。
「すこし休むか」
寅丸が上手く手加減して稽古を主導し、手助けもしてくれたものの、修之輔は何度も打ち込まれ、いい加減体の動きが鈍くなってきたところで、寅丸からそう声を掛けられた。木村はまだ中庭で大きな笑い声を上げながらおそらく知人たちと談笑している。
稽古場とは中庭を挟んで立つ母屋の濡れ縁に腰掛けて水を飲んだ。修之輔が自分の剣術の何かを根本的に変えなければならないことは切実な問題だった。
「秋生は一対一ならほとんど敵なしだが、やはり多対一は勝手が違うか」
「ああ、今、何が違うのかを考えている。体の使い方か、それとも考え方か」
「そこで考え方という発想が出てくるところがこの道場の有象無象とは違うところだよな」
面白いから答えが出たら教えろと云って寅丸が笑う。
「ただ秋生、その考え方だが、変えなければならないのは何も剣術に限ったことではなさそうだ」
「世の中が変わるという、前にも聞いたあの話か」
「さっき新選組について話しただろう。その新選組の本隊だった浪士組が江戸に戻った。中心人物が暗殺されて、組織の改編が行われているらしい。暗殺したのは幕府の息のかかった者だというから何が正義か、西も東もいよいよ分からんことになってきている」
羽代藩は東西どちらの都からも距離はあるが、どちらかと言えば江戸に近く、東西を結ぶ大きな街道が藩内を貫いている。
「何か事があれば双方から要請が来ることは十分に考えられる。どちらに
寅丸の持つ情報は、ただ座しているだけで手に入るものの質や量ではなかった。前に見せてもらった蘭学の本も、書斎に雑然と摘まれていた思想書も、それらは一介の藩士が手に入れることは不可能な筈の物が含まれていた。寅丸が藩の決まりも幕府の禁制も無視した手段を使って全国の情報を収集しているのは明らかだ。だが何のために。
「いちばん気をつけなければならないのは、各藩の動向よりむしろ異国だという者もいる。長崎の者の話によれば」
寅丸がそう言いかけたところで、道場の表から虎丸の名を呼ぶ声が聞こえた。いつもは気付きもしない道場の者達がいっせいにその声の方を向いたのは、若い女の声だったからだろう。
「おお、こっちだ」
女相手でも案内をしようとせず、返事の声だけで済まそうとするのは寅丸らしいが、母屋の角を回って中庭に姿を現した女の姿におもわず目を瞠る。その女は、前に修之輔を観月楼で待つ弘紀の下へ
状況が分からず戸惑う修之輔に、加ヶ里は一瞬、強い目線を向けた。牽制。黙っていろ、という言外の言葉に目線を逸らし、そのまま修之輔は寅丸の顔を見た。
「ああ、秋生は初めて会うか。前におぬしの出仕祝いをやったあの料亭で働いている加ヶ里だ。どうやら儂に惚れているらしく、最近よくここに顔を出す」
「あら、寅丸様。色恋の話ではございません。お得意様に忘れられないようご挨拶に行けとの店の主人に言いつかってのことですわ」
「さて、儂は可愛い
「料亭の主人に上役などという言葉は相応しいとは思えません」
「こうして儂の言葉を次々にひっくり返してくるんだ、この加ヶ里は」
「ひっくり返されたお腹を撫でて貰って喜ぶのが寅丸様だと思っておりますの」
「もちろん、撫でてくれるのはこの手だよな」
そう云って寅丸は加ヶ里の手首を捉えて引き寄せた。加ヶ里は捉えられた手を慌てて引くでもなく、嫣然と笑って半歩前に足を踏み出す。そうして寅丸の肩に頬を寄せて間近に見上げる目線が濡れ濡れと光る。
「私のこの手で撫でて欲しかったら、どうぞまたお友達とうちのお店にお寄りくださいませ、寅丸様。皆さまとお話ができないのは寂しうございます」
「縄で手をくくられない限り、近いうちに顔を出すと主人に伝えてくれ」
「あら、承知いたしました。寅丸様のご無事をお祈りいたしましょう。では、今日はこれから店に出る時間ですので、これで失礼いたします」
寅丸は惜しむでもなく加ヶ里の手を離し、加ヶ里も何事もなかったかのようにお辞儀をしてその場を去った。中庭には、加ヶ里の色気にあてられて口を開けたまま後姿を見送る者も何人か、だが寅丸の口元には苦笑としか言えない表情が浮かんでいた。
その後は、ようやく竹刀を持った木村とも少し打ち合いの稽古をしているうちに夕刻を告げる鐘が鳴り、時間だからと道場を辞した。
「そうだ木村、おぬしの仕事に船荷の点検もあるだろう。藩の公用の荷の揚げ降ろしはだいたい何日ぐらい、など決まっているのか」
門まで見送りに来た寅丸が木村に何気なく質問した。
「ああ、毎月五日と二十日だな。その日は俺たちの仕事が増える」
木村は何気なく答えているが、寅丸は自分を注視する修之輔の視線に気づいたらしい。
「秋生に聞いても、答えないだろう」
そう、警戒心の無い軽口を修之輔に寄越して、寅丸は背を向けた。藩公用の船荷の予定を知ってどうするというのか。口には出さない修之輔の質問を寅丸は無視したことになる。
木村は、修之輔と虎丸の間の一瞬の緊張にまるで気づかず、この時間だともうどこにも寄れないなあ、などと云っている。
黒河藩にいた時、修之輔が田崎に抱いていた印象は、羽代に来てから微妙に変化した。寅丸についても、ただ剣術を磨く同志という以外の視点を持った方が良さそうに思えた。
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