第5話

 修之輔が山崎から伝えられていた時刻に二の丸御殿に行くと、合議を行う部屋の一つに行けと言われた。藩主からの辞令とはいえ略式に行うようだ。

 部屋の前の廊下、取次の者が襖の外から声を掛けると、聞き覚えのある田崎の声で中に入るよう呼ばれた。部屋の両脇には田崎と加納、書記をする者の他に二、三人いて、この辞令の後になにか会議が控えているようだった。

 正面には、花菱の紺繻子に龍田川の金刺繍の小袖、黒字に銀で三ツ鱗を織り出した袴姿の弘紀がいて、先程戻ってから急いで着替えたのだろうが、その様子を微塵も感じさせない澄ました顔をして座っている。髪もしっかり結いあげているので凛々しい眉と勝気な瞳がはっきり見て取れた。先ほどまでの使用人の姿とは異なり、この領地を総べる藩主に相応しいその姿を、そういえばここまで間近に見ることは無かったと思う。

 この若く美しい藩主こそが自分の主で、そして。

 昨夜の弘紀の姿が一瞬、脳裡をよぎった。


「秋生修之輔、その方に、我が兄、英仁えいじんの使者が羽代城に来訪する際の二の丸御殿の警護を任ずる」

 弘紀がその良く通る声で読み上げた書類を、中次ぎの者が修之輔へと引き渡した。より深く拝礼して受け取る。弘紀の筆跡、弘紀の印。

「謹んでお受けいたします」

 羽代城に初めて登城し弘紀と共に迎えた朝、いずれ修之輔に御殿の警護を、と言っていた弘紀の言葉がこれで実現されたことになる。この城に入ってひと月過ぎた程度の修之輔にしてみれば、この任務は大抜擢と云ってよい人事だった。

 一度顔を上げてから改めて拝礼する。その間に確認した田崎の顔は確信の表情で、これは思惑通りの事だったのだろう。目の端に映る加納の表情にも不満の色はない。ならば昨日の北の丸の剣道場での出来事は、まだ新参者である修之輔のや剣の術がどの程度のものであるか、多くの者に披露するまたとない機会であったのかと思い至る。


 それとも、あれはそれとなく仕組まれたものであったのだろうか。からすの翼の影が一瞬、屋外の光を遮ったように感じた。


 田崎の声が部屋に響く。

「英仁様の使者は、弘紀様の藩主就任のお祝いを申し述べに来る」

 仔細は後程担当の者から説明がある、当日までの準備を怠らないように、との通り一遍の説明の後、下がって良いと言われて修之輔はその場を辞した。襖の前での一礼の際、意識して目の端に捉えた弘紀の姿、その瞳が笑みに軽く細められるのを見たと思った。


 辞令のあった翌日の早朝、弘紀は薪割りに来ていて、音を聞いて様子を見に来た修之輔とちょっとぐらいなら、と三の丸を出て海辺に下りた。弘紀は門番に、薪になりそうな木を海辺で拾ってこいと言われた、などと云っており、門番もそうか、と呑気に返事をしている。

 朝の浜辺は風もなく、静かに波が打ち寄せる。

「この浜か、弘紀が幼い頃に遊んだというのは」

「はい、お話ししていましたっけ」

「ああ、黒河で聞いた」

「憶えていていただいたのは、嬉しいです」

 使用人の着物を二人、揃いで身に纏って、波打ち際を歩くだけ。大きな鳥が海上をゆっくりと飛んでいるのが見えた。

 大手門から少し離れて、二人の会話を聞く者がいない状態で、弘紀が次兄について話しておくことがある、と切り出した。

「黒河藩で貴方を襲ったのは、私の兄である英仁の指図であり、指図を受けた者はその手下であったことを、お伝えしておく必要があると思いました」

 謝ってどうということでもないのですが本当に申し訳ないのです、と弘紀が頭を下げる。今さらの話に、そのように謝られても困るし、そもそも弘紀のせいではないだろう、と云うと、私しか貴方に謝ることができる者はいないでしょう、と返された。

「私の兄ではあるのですが、前の藩主であった長兄とは城内で顔を合わせることもありましたし、話もしたことがあるのですが、次兄とはほとんど話したこともないのです」

 表立っては行動しないものの、弘紀の藩主就任に反対して修之輔の襲撃の他、いくつかの物事を煽動した。その費用に、あろうことか藩が次兄に割いている予算を注ぎ込んでいるようで、それでも足りないと予算を越えた額を要求してくるという。

「表向きの理由は兄が身を寄せている寺院への寄進なのですが、内情はそれだけではありません」

 調べてみると、使途不明金が看過できない額に上っているという。

 弘紀が正式に藩主としての地位に付いた今も、英仁の周辺には不穏な動きが見られ、藩の緊縮財政に伴って支出を抑えることを名目に、まずは次兄の活動の費用を絶ちたい、と弘紀は云う。

「家臣の中からは手ぬるいという意見もあります」

 藩内擾乱じょうらんの罪で本来なら死罪であってもおかしくない、せめて藩内からは追放すべきだという声は、先の混乱を知っている者から出されている。

「いずれ羽代の僻地、どこかの郡代の館に蟄居軟禁が相当と私は考えています」

 血のつながりを考えると、先々代の藩主の子であり、弘紀の兄であることには間違いなく、厳しすぎる処分を下すことに戸惑いがあるという。

 羽代の内情も、弘紀の家族の事情も、修之輔からすれば判断に乏しい事ばかりで、どのような事を云っても言葉が軽く思えて、黙って弘紀の話を聞いていた。

 二人の目の前の砂浜を黒い影が横切った。

 大きな鳥が頭上近くを飛んでいる。黒河でよく見たとびに似ているが、広く長い翼の裏と腹が白い。

「この鳥は」

みさごという海鷹です。魚とりが上手いのです。時々爪に大きな魚を引っ掛けて飛んでいることがありますが、今朝はまだ取れていないみたいですね」

 山深い黒河では鳶の他にも、時に熊鷹くまたか狗鷲いぬわしの姿を山の稜線上に見ることがあったが、この鳥は見たことがなかった。

「私が生まれる前からこの辺りに住み着いているそうです。北の丸の後ろの小高くなったあの松の上をねぐらにしていて、ほとんど毎日、見ます」

 これほど大きな鳥ならばその影はこれまでも目の端に映っていたはずだが、気にも留めていなかった。弘紀にその名を聞いてあらためてその姿を確認し、美しい白と黒の翼に気づかされた。

「冬にははやぶさもやってきます。城下近くの雑木林には大鷹もいますから、私の父は鷹狩りに使う鷹には事欠かなかったと聞いています」

 弘紀が空をふり仰ぐ。朝の青い空、心地良い波音。風が弘紀の前髪を揺らす。

「父が鷹狩りに使っていた鷹はすべて野に放って、今、城にいるのはあのみさごだけです」

 飼っているわけではありませんが、と弘紀が空を指差す先、いつのまにか上空高く帆翔はんしょうする鶚の白い翼があった。

 弘紀は今現在、藩が面している問題の他に、その父が残した火種のいくつかを処理しなければいけない状況にある。いなくなった人間が残したものは、時に、残された人間にわだかまりを残す。


 鳥は放てば空に帰るが。

 浜辺にはそろそろ風が吹き始め、修之輔は弘紀の肩を軽く抱き、城の中に戻るように促した。

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