第4話
昨夜の弘紀との別れは水底に沈む海砂のような感傷を修之輔の胸の内に残し、何か考え思う度、さらりさらりと音を立てるようなこの寂しさを埋めるため、早く次の宿直が回ってくればいい、そう思いながら午前の仕事を終えて修之輔が菊部屋に戻ると、想っていた当の本人である弘紀が座って茶を飲んでいた。
「おかえりなさい」
「あ、秋生戻ってきたか。お小姓さんがお待ちかねだ」
使用人の着物姿の弘紀は、まるでずっと前からこの部屋にいるような様子で、横に少し座る場所をずらして、ここに座れ、と修之輔に無言で促してきた。
何か言うべきか、何を言うべきか、言葉に迷って、結局、ひとことも発せないまま修之輔が弘紀の隣に座ると、すぐに木村が修之輔に訴えてきた。情けない顔をこちらに向けて曰く、弘紀と三山が喧嘩していたらしい。
「もう、儂としては尻の座りの悪いことこの上ない。少しここから離れようとも思ったのだが、目を離したら取っ組み合いでも始めるんじゃないかと。原もいないし、早く秋生が戻ってくれば良いのにと思っていた」
「木村様の話を聞きに来たのに、三山様が邪魔をしただけです」
「別に邪魔してないだろう」
すかさず入る三山の抗議に、一呼吸遅れて木村が口を挟む。
「え、そうなのか、弘太。その割に部屋に来た時は開口一番、秋生がいるか、だし、その後はおまえ、三山と喧嘩始めて儂とはひと言も話していないぞ」
「だから、三山様が邪魔をしただけです」
「こいつは」
弘紀に詰め寄る三山の肩を木村が押しとどめる。弘紀はその様子を横目で眺めて、さらに言葉を継いだ。
「三山様はまだ何か云うことがあるのですか」
また喧嘩が始まりそうな気配に木村が呆れて二人を交互に見る。ずっとこの調子だったのだろうか。前にも弘紀は三山に突っかかるところがあると思ったが、やはり相性が悪いのだろうか。
「なんで反応がそんなにガキなんだよ二人とも。そういえば弘太は年、いくつだ」
すこしでも二人の気をそらそうということだろう、木村が弘紀に問うと、弘紀は律儀に十七と答えた。三山が食い気味に突っ込む。
「なんだ藩主様と同じ年か。藩主様はお若くてもあれほどご立派なのに、同じ年のお前はまるで山の子猿じゃないか」
この三山の言葉は弘紀にとって不意打ちだったようで、珍しく反応できずに言葉に詰まった。褒められているが貶されている。言い返したいけど言い返せないのだろう。そもそも藩主が使用人の着物を着てここにいることがおかしいのだが。
口を開けて、何か言おうとして、言葉を飲み込んで。挙句、どうしようもなくなったらしく弘紀は修之輔に抱き着いて胸に顔を押し付けてきた。
「ほら三山もあまりいじめるな。弘太は十九のお前より年下だろう、まったく」
木村が三山をたしなめて、修之輔が自分の胸にしがみつく弘紀の頭を撫でてやって、しばらくすると弘紀は機嫌を持ち直したらしく、膝から降りて座り直してくれた。
「やれやれだ。ほら、秋生の分の茶を淹れるついでにお前らのも入れてやるから湯呑を寄越せよ」
いつもの木村の実家の近くで採れたという茶を飲みながら、弘紀が茶の栽培について木村と話し始めた。こちらの話がしたかった、というのは紛れのない本音なのだろう。
「この頃は京の都に近い宇治だけでなく、各地で茶が栽培されて売られているそうですが」
「そうそう、武蔵の国でも茶の栽培が盛んで、武蔵の国の茶園ではその宇治から職人を呼んで指導を受けているらしい。うちも数年前までは毎年、京の茶園から来てもらっていたんだが、それも疫病で途絶えてしまったな。だから今は、今ある技術で繋いでいる」
「武蔵や常総でも茶葉は専売特許となっていると聞きます。やはり江戸に売りにいかねば儲けにはならないでしょう」
「羽代は江戸から商人が茶葉を買い付けに来るんだ。だが、値段がどうしてもそこで決まってしまって、大手以外は値段の交渉することすら難しい。しかも買い付けの値段は輸送費も勘案するから割安になる」
「輸送も商人頼みなのですか。最近は海路もかなり使われているようですが、そちらはどうでしょうか」
海路はダメだ、と木村が手を振って否定する。弘紀が少し首を傾げる。
「なぜですか。陸路は運ぶ量が限られるでしょう。海路の方が早く、多く荷を届けることができると思うのですが」
「海路は天候が荒れれば茶葉が濡れる。濡れた茶葉は売り物にならない。船で運ぶ場合、江戸の商人はその保険もかけて値段を決めるから、そうなるとどうしても思うような値段で売れない」
木村は茶の農家出身だけあって、さすが商いの実情に詳しいようだった。弘紀は木村の話を聞いて少し黙った後、ひとり言のように呟いた。
「羽代の商人は茶葉の流通には手を出していないのか。江戸の商人頼みというのも問題だな。栽培だけでなく、流通にも介入しないと根本解決にはならないか」
その言葉は傍らにいた修之輔だけがすべてを聞くことができたようだ。何言ってるのか聞こえん、とあっけらかんと文句を言う木村に、弘紀も特に嫌がる素振りなく、答える。
「どうするのがいちばんかなあ、と思って。藩で一度、全て買い上げるのはどうでしょう」
「買い上げてどうする」
「売ります、もちろん」
「どこで、というか、そもそも買い上げる金はどこから出てくるんだ。今、この藩は財政難だと聞いているぞ」
そうなんですよね、と弘紀の肩が落ちる。
「藩札を使うしかないでしょうね」
「今、藩に出回っている藩札は先々代が発行した物、千切れたり汚れたり、おおよそその価値を認められているとは言い難いな」
その藩札を信用してもらえるのか。
「他藩との取引に使うとか。まずは黒河との取引に藩札を使えないか、交渉をしてみますか。新しく発行する分もありますし」
弘紀の視線が畳の上に落ちる。何かを懸命に考えているようだ。
時を告げる鐘の音が聞こえる。
「ところで弘太、今日これから俺に藩主様自ら辞令を下さるそうだが」
昨夜の弘紀の言葉そのままに、今日の任務に就く前に、使用人を纏める山崎からそう言い渡されていたのだが。
「辞令、修之輔様の」
今、自分の目の前にその貴方がいるのに一体何の、とでも言いたげな弘紀が首を傾げてこちらを見てくる。茶の話に集中していて、うまく思考が切り替えられていないようだ。その耳に口を寄せる。
「二の丸御殿に一緒に行くわけにはいかないだろう、弘紀」
「御殿、修之輔様、辞令」
単語を一つずつ確認する様に発音して、わあ、そうだった、といきなり弘紀が大声を出して立ち上がった。ようやく思い出したようだ。
「お邪魔しました、失礼します」
それでも丁寧に一礼してからばたばたと出ていく弘紀を呆気にとられた菊部屋の者達で見送るかたちになった。木村が呆れたように云う。
「あいつ、いつもああだな」
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